第37話:邂逅、あるいは静かなる誓約
丸太を不格好に削り出した門をくぐり、ルーベンカーが一歩を踏み出した先には、想像以上に困窮し、しかし驚くほど懸命に拍動する人々の営みがあった。
夕闇に沈みゆく村の景観は、粗末な家屋が数軒、湿った土の上に不規則に並んでいる。屋根の隙間からは夕食の支度を告げる細い煙が立ち上り、微かに薪の燃える匂いと、煮炊きの香りが漂う。
村の通りに子供の姿はない。魔生物の咆哮が届く距離にあるこの地では、日が落ちれば幼い命を家の中に隠すのが鉄則なのだろう。
門番の男は、重厚な鉈剣を背負ったルーベンカーの風貌に気圧されながらも、警戒を解かぬまま村長の家へと案内した。その背後には、道中で出会った狩人マルカスが、射貫くような視線を背中に突き刺しながらぴったりと付き従っている。
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黄金の瞳との対峙
村長の家は、周囲の家屋よりはわずかに大きく、集落の扇の要となる場所に位置していた。
家の前には、村長らしき男と数人の屈強な男たちが、盾のように立ちはだかっていた。彼らの瞳には、未知の旅人に対する「期待」と、共同体を守ろうとする「警戒」が、澱のように混ざり合っている。
村長は、厳しい開拓生活で痩せこけてはいたが、その瞳の奥には集落を背負う者特有の強い責任感と威厳を宿していた。
「旅人さん。……歓迎しよう」
村長の声は形式的ではあったが、拒絶の色はなかった。
「ルーと申します。流れの冒険者です。しばし、この村にお世話になりたい」
ルーベンカーは丁重に一礼した。未来の「勇者」としての傲慢さを削ぎ落とし、ただの熟練した狩人として振る舞う。
「ルー殿か。マルカスから聞いたぞ。魔生物の討伐や狩り、村の守りを手伝ってくださるとな?」
村長の問いには、縋るような熱がこもっていた。この脆弱な柵一枚で隔てられた世界では、食料の確保と安全こそが、金銀財宝よりも価値を持つ。
「はい。この腕で、お役に立てることもあるかと思います」
「それはありがたい……。では、我が家で温かい飲み物と寝床を用意させよう。――オレリア!」
その名が呼ばれた瞬間、ルーベンカーの全身に、雷に打たれたような衝撃が走った。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ねる。探し求めていた名前。守るべき因果の源流。彼は瞬時に感情を鋼の檻に閉じ込め、顔の筋肉を硬直させて無表情を装った。
家の中から、一人の女性が姿を現した。
彼女の容姿に、未来の魔王ラビスの面影を直接見出すことは難しい。しかし、その瞳――鈍い輝きを放つ「金色の瞳」を見た時、ルーベンカーは確信した。
若く、慎ましい平民の服装を身に纏ってはいるが、その顔立ちに宿る気高さと、世界を真っ向から見据える力強い視線は、確かにあの「友」に繋がっている。
「村長、ご用でしょうか」
彼女の声は、春の雪解け水のように澄んでいながら、芯の通った響きを持っていた。
「客人のルー殿だ。客間に案内して差し上げなさい。それと、温かい飲み物を」
村長の言葉に従い、オレリアがルーベンカーを見た。視線が、火花を散らすように交差する。
ルーベンカーは逸る気持ちを殺し、ただの旅人としての乾いた視線を彼女に向けた。守るべき対象。ラビスの祖母。だが、今この瞬間、彼女にとっては自分は何者でもない。ただの、薄汚れた皮鎧を纏った冒険者に過ぎないのだ。
オレリアは、警戒心と好奇心を綯い交ぜにした目で、じっとルーベンカーを観察した。彼女の野生に近い本能が、この男が単なる食い詰め者の冒険者ではないことを察知したのかもしれない。
「分かりました。……ルー様、こちらへどうぞ」
彼女は冷静に、しかし拒絶することなく歩き出した。
「お世話になります」
ルーベンカーは短く答え、彼女の背を追って家の中へと入っていった。
二人の後ろ姿を見送った村長は、傍らのマルカスに声を潜めて尋ねた。
「マルカス、お前の目にはどう映る」
弓の弦を指で弾いていたマルカスは、長い沈黙の末、重々しく口を開いた。
「……特に怪しい挙動はない。だが、あの男の目の奥には、深淵のような何かが隠されている。獲物を追う時の俺の目よりも、ずっと深く、冷たく……そして、悲しい目だ」
「そうか。じきに息子のカイルが森から戻る。そうしたら男衆で寄合だ。あの男も呼べ。我らの仲間として受け入れられるか、その魂を吟味せねばならん」
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二十年の猶予、あるいは潜伏の基盤
案内された客間は、簡素ではあったが、隅々まで手入れが行き届き清潔だった。
オレリアが、湯気の立つ温かい飲み物を運んでくる。
「こちらを使ってください。狭い部屋ですが、野宿よりはましでしょう」
「……ありがとうございます」
ルーベンカーは、湯気の向こう側で、さりげなく言葉を投げた。
「ところで、あなたは村長の娘さんですか?」
未来の記憶では、オレリアはこの半年前、何らかの理由でこの村に移住してきたはずだ。
オレリアは、一瞬だけ視線を伏せた。
「……違います。縁あって、こちらに身を寄せさせていただいているだけです」
その言葉に、ルーベンカーは密かに安堵した。彼女は血縁の縛りの中にいるわけではない。ならば、彼女を守るための立ち回りはより柔軟に行える。
「そうですか。失礼なことを聞きました」
「いいえ。……では、ゆっくりお休みください」
オレリアは静かに一礼し、部屋を辞した。
扉が閉まる音を確認し、ルーベンカーはようやく肺の奥に溜まっていた重苦しい息を吐き出した。
背負っていた鉈剣を床に置き、革の荷物を降ろす。ベッドに腰を下ろすと、一気に疲労が押し寄せてきた。
(いきなり、会えるとは思わなかった……)
目を閉じると、先ほどの金色の瞳が裏蓋に焼き付いている。
現在、黒鉄期1670年。未来の「勇者たち」が歴史の裂け目から現れるまで、あと20年余り。
なぜ、ラビスはこれほど長い猶予を俺に与えたのか?
彼はラビスの言葉を、暗闇の中で反芻した。
地の利。時の運。
31開発村。ここは未来においてルーベンカーが生まれ育った場所であり、勇者たちの襲撃目標となる地点だ。
だが、今のこの脆弱な集落のままでは、勇者たちの魔術ひとつで村ごと消滅しかねない。
「……そうか。ラビスは、俺に『時間』を与えたんだな」
20年という歳月。それは単なる護衛の期間ではない。
歴史の「修正力」に負けないほど深く、この時代の地脈に己の存在を織り込むための時間。
村の防衛設備を近代化し、男衆を組織し、魔生物の脅威を完全に封じ込める。外部の教会や王国軍が安易に手を出せないほど、強固で自立した「要塞」へと、この村を作り変えろというのか。
もし勇者たちが来る直前に飛ばされていれば、ルーベンカーは孤立無援で戦うしかなかっただろう。だが、20年あれば、彼はこの村の「神」にも「王」にもなれる。マルカスのような男を心服させ、村全体を「対勇者」の戦力へと昇華させることができる。
「ラビスめ……。どこまで先を読んでやがる」
友の、王としての冷徹なまでの計算高さに、ルーベンカーは苦笑した。
まずは信頼を得ること。そして、オレリアの傍に、最も自然で、かつ最も強固な盾として居座る権利を勝ち取ること。
「焦るな、ルーベンカー。時間は……今、俺の味方だ」
瞼を開けると、窓の外には漆黒の帳が完全に落ちていた。
遠くの森から、夜行性の魔生物の咆哮が地鳴りのように響いてくる。
この闇は、未来から訪れる災厄の予兆かもしれない。
だが、ルーベンカーの胸に去来するのは、絶望ではなかった。目の前に現れた「守るべき命」の温かさを確認できたことによる、微かな、しかし消えない希望の灯火だ。
彼はベッドから立ち上がり、夜の冷気が染み出す窓辺へと向かった。
「守り抜く。……お前が望んだ、あの未来へ繋ぐために」
二十年に及ぶ、孤独で、そして誰よりも熱い狼の闘いが、今、静かに幕を開けた。




