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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第6部:『守護者の二十年 ― 「ルーパート」という名の仮面』

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第36話:潜伏の序曲、あるいは孤独な狩人の帰還

魔王城の私室、因果をねじ曲げる光の中に消えたルーベンカーの意識は、猛烈な加速感の後に、冷え切った大気の抱擁によって現実へと引き戻された。


視界が晴れた時、鼻腔を突いたのは、未来の戦場に漂っていた鉄と魔法の焦げ付いた臭いではない。それは、湿った土と、濃密な緑、そして野生の獣たちが放つ剥き出しの生命の残り香――「過去」の匂いだった。


________________________________________


荒廃した故郷への道


ルーベンカーは、走った。


その身を包む黒ずんだ皮鎧は、長年の冒険と潜入任務で染みついた土と血の匂いを薄く放ち、腰に携えた鉈剣は、幾多の魔物を打ち据えてきた荒々しい存在感を放っている。背後には、彼を送り出した未来も、魔王となった友も、もはや存在しない。あるのは、ただ静まり返った黒鉄期1670年の森だけだ。


80年という時の隔たりは、彼が魂に刻んでいた故郷の姿を、無残なほどに変貌させていた。


未来では王国軍の馬車が軽快に行き交い、整然と続くはずの「北進街道」は、この時点ではまだ、頼りない獣道に毛が生えた程度の細い土の筋に過ぎない。生い茂る草木は道を呑み込もうと牙を剥き、開拓の足跡は驚くほど希薄だった。


この時期の入植は、王国の記録にある「華々しい拡大」とは裏腹に、停滞の極みにあったようだ。人の往来を示す痕跡は絶え、代わりにそこにあるのは、魔生物が這いずった生々しい粘液の跡や、巨大な肉食獣の足跡ばかりであった。


ルーベンカーの任務は、あまりに明白で、かつ過酷だ。


この時代に生きるオレリアと、まだこの世に生を受けていないその娘、レオリナ。彼女たちの命を守り抜くこと。そして20数年後、この不完全な因果の隙間を縫って現れるはずの、かつての仲間――「8人の勇者」を、この手で討伐すること。


そのためにはまず、何としてもオレリアと接触し、彼女の警戒心を解いて傍に留まらなければならない。


彼の歩みは、急ぎながらも驚異的なまでに静謐だった。


時折、街道のすぐ傍の茂みから、侵入者の血の匂いを嗅ぎつけた魔生物が飛び出してくる。鋭い牙を持つ狼型、金属に近い硬度の甲羅に覆われた甲虫型、あるいは木々から毒液を滴らせる奇怪な両生類。


「勇者狼」として戦場を駆けていた頃の彼ならば、これらを一瞬で細切れにし、道を開けていただろう。しかし、今の彼はその選択を真っ先に捨てた。


「殺すな、血を流すな。それが、新たな魔物を呼び寄せる」


彼は辺境に跋扈する魔生物の習性を、誰よりも熟知していた。


この未開の地において、血の匂いは死の合図ではない。それは次なる捕食者を招き寄せる「晩餐の鐘」だ。戦闘を長引かせず、自分の存在を環境の中に埋没させる。それが、たった一人で歴史の濁流に抗うための流儀であった。


不意に、巨大な甲虫型が横合いから突進してきた。ルーベンカーは流れるような動作で鉈剣を抜き放つ。だが、刃は立てない。


鉈剣の重厚な「峰」が、空気を切り裂き唸りを上げる。


彼は剣を刃物としてではなく、質量を持った打棒として扱った。襲い来る魔生物の急所、すなわち頭部や関節の最も脆弱な一点を、寸分違わず叩き伏せる。


全身の体重移動、腰の鋭い捻り、地面を掴む足の踏み込み。すべての動作に、未来の研鑽が凝縮されていた。


――ドッ!


鈍い衝撃音が森に響き、甲虫型の硬質な甲羅が悲鳴を上げて軋む。


分厚い皮膚の奥にある神経束を正確に捉え、脳を揺らす。短剣や投げナイフで止めを刺す手間を省き、生きたまま「一時的な行動不能」に追い込む高度な技術。


魔生物は血を流すこともなく、ただ糸の切れた人形のように重い音を立てて道端に転がった。


もしこの光景を目撃する者がいたならば、冒険者ギルドの長官でさえも、驚愕に喉を鳴らしただろう。


「超一流の冒険者が、ここにいる」と。


彼の動きは、単なる暴力ではなく、鍛錬の果てに到達した洗練された「機能美」を帯びていた。


気絶させられた魔生物は、やがて目を覚ました時、新たな獲物の匂いを求めて森の奥へと退いていくだろう。殺戮を避け、生態系の波を立てない。ルーベンカーは携帯していた短剣や投げナイフを、もはやこの旅では不要な「殺害道具」として荷の底へ沈めた。


今の彼が頼るのは、魔生物を殺さず、かつ効率よく無力化する鉈剣の峰打ちのみ。その緻密な計画性と、それを完璧に遂行する身体能力こそが、彼が「最強の戦士の一人」として数えられたことの紛れもない証明だった。


しかし、絶え間なく襲い来る脅威を、殺さずに退け続ける作業は、ルーベンカーの肉体を確実に削っていった。


致死の一撃を加えるよりも、力加減を制御する方が遥かに神経を使い、疲労は倍加して蓄積する。かつての彼ならば3日で踏破できたはずの距離に、5日もの歳月を要した。


それでも、一般の護衛付き行商が14日をかける難所であることを考えれば、その移動速度は依然として異常の域にある。


5日目の夕刻。沈みゆく残光に照らされ、ようやく目的の地が姿を現した。


「……ここが、31開発村か」


ルーベンカーは足を止め、荒い息を整えながら眼下の光景を見つめた。


そこにあるのは、彼が記憶していた「故郷」とはあまりにかけ離れた、寄る辺ない集落の姿だった。


未来の整った石造りの建物や広い広場などは影も形もない。村を囲むのは、せいぜい2メートルほどの高さの、太い丸太を不格好に並べただけの簡素な柵。ざっと見渡す限り、14、5家族が細々と命を繋いでいる程度の規模だろう。


「この時代は……まだ、こんなにも脆いのか」


村の発展は、彼が想定していた以上に停滞していた。生活基盤は貧弱で、柵の向こう側に広がる闇は、今にもこの小さな灯火を飲み込まんとしているように見える。


胸の奥が締め付けられるような感覚。この脆弱な村に、これからあの「暗殺者たち」が、そして苛烈な運命が降り注ぐのだ。


(任務とは別に……何か、この村自体を底上げする手を考えるべきか)


ルーベンカーは思案した。オレリアを守るためには、彼女が属するこの「共同体」そのものが、ある程度の強度を持たねばならない。


彼は深く息を吸い込み、未来から持ち帰った知識と、獣の血が教える警戒心を研ぎ澄ませた。


夕闇の中、彼は村の門へと向かって、一歩を踏み出した。それは、歴史の修正者としての、最初の接触となる。



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