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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第四部:『勇者たちの肖像 ― 捨てられた名と宿命』

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第21話:勇者たち:鷲の眼差し、あるいは冷たき正義の嘴

小麦の香りと冒険の残り火


黒鉄期の王都。その象徴たる中央広場の大時計が刻む規則正しい音から少し外れた路地に、早朝の澄んだ空気をつんざくように香ばしい匂いを漂わせる一軒のパン屋があった。


後に「イーグル」という峻烈な名を与えられることになる少女にとって、その幼少期、世界は焼きたての小麦が放つ柔らかな黄金色の匂い、そのものだった。彼女は王都の喧騒の片隅で、実直に、そして誠実に生きるパン屋の一人娘として、溢れんばかりの愛情を注がれて育った。


「ねえ父さん。どうして冒険者にならなかったの?」


七歳の少女が、白く粉にまみれた父の広く大きな背中に問いかける。父はいつも、手元の生地を捏ねる手を休めることなく、どこか遠い空を見るような寂しげで、それでいて誇らしげな笑みを浮かべて答えた。


「俺は……冒険者にはなれなかった。器用さが足りなかったんだな。だがな、このオース大陸には、まだ誰の目にも触れていない、眩しいほどの『真実』が眠っているんだ。それを見つけるのが、本物の英雄なんだよ」


父が語る英雄譚。魔生物の脅威を退け、未開の地に人族の灯火をもたらした名もなき冒険者たちの物語は、少女の胸の奥底に、決して消えることのない烈火を灯した。彼女にとって、パンを焼く穏やかな日常は「守るべき愛しき平穏」であり、父の語る非日常は「いつか到達し、完遂すべき使命」に思えた。


「わたしが、お父さんの代わりに冒険者になる!真実を見つけて、みんなを守るから!」


その誓いは、幼い子供の一時的な戯言ではなかった。彼女は生まれつき、周囲の空気のわずかな震えや、他人の言葉の裏に潜む感情の機微を察知する、異常なまでに鋭敏な「直感」を備えていた。彼女の瞳は、地上から遥か数千メートルの高みで獲物の微かな動きを捉える鷲のように、本質と虚偽を冷徹に見分ける鋭さを秘めていたのである。


________________________________________


研磨される刃、そして双刃の正義


十歳になった少女は、自らの意志で王都の古びた剣術道場の門を叩いた。そこは引退した老冒険者が、庶民に最低限の自衛の術を教える、汗と泥にまみれた無骨な場所だった。


当初、道場主は彼女の入門を頑なに拒んだ。平和な家庭に育ち、細い腕を持つ彼女に、血生臭い剣など不要だと考えたからだ。しかし、少女の眼光に宿る、逃げ場のないほど真っ直ぐで揺るぎない決意に、老剣士はついに折れた。


「君に、巨漢をなぎ倒す筋肉の鎧は似合わない。だが……その『速さ』と『視線』は天賦の才だ」


主が彼女に与えたのは、力任せに叩き切る重厚な長剣ではなく、急所を一点に射抜くことに特化した「細剣レイピア」だった。彼女は道場の誰よりも早く、鋭く動き、魔那マナを神経系へと瞬時に集中させる「強化魔術」の基礎を、反射神経の加速へと極限まで振り分けた。


しかし、道場主は剣技以上に、彼女に「法」と「哲学」の学問を強制した。


『法を知らぬ正義は単なる暴力であり、倫理を知らぬ剣はただの凶器である』。


彼女は稽古から帰ると、粉にまみれたパン屋の二階で、貸し与えられた修身や法の古書を読み耽った。彼女の中で、洗練された剣技と峻厳な知性は、やがて一つの確固たる形を成していった。それは、「正義という名の絶対的な社会規範」であった。


その正義が初めて暴走という形の爆発を見せたのは、彼女が十四歳の時だった。


道場に、不器用で動作の鈍い一人の青年が入門してきた。他の門下生たちは、稽古という名の免罪符を盾に、彼を執拗にいたぶり、嘲笑した。彼女の心の中で、学んだばかりの「法」と、生まれ持った「潔癖な道徳」が沸騰した。


「剣は、弱き者を守るためにある。それ以外の使い方は、剣への冒涜だ!」


彼女の細剣は、いじめを主導していた門下生の長剣を一瞬で叩き折り、震えるその喉元に冷たい切っ先を突きつけた。正義の名の下に行われた、圧倒的な暴力。道場主は、彼女を即座に破門し、道場から追放した。「暴力に正義を乗せた瞬間に、それは剣ではなくなる」という言葉を添えて。


彼女は雨の中、初めて知った。正義とは、時に人を徹底的に孤独にする「危うい両刃の剣」であることを。


________________________________________


裏切りの草原、凍てつく理想


道場を追われた彼女を待っていたのは、かつて彼女が助けた、あの鈍重な青年だった。


「……君の剣は、間違っていない。一緒に冒険者にならないか?」


二人は小規模なパーティーを組み、王都西部の広大な草原地帯へと繰り出した。青年は巨大な盾で彼女の身を守り、彼女はその神速の細剣で魔生物の核を貫く。それは、彼女が夢見た理想的な連携だった。しかし、三年という月日は、残酷に彼女の理想を蝕んでいった。


「正義で腹は膨れないんだよ!西はもういい、南部へ行こう。あそこは魔生物こそ凶悪だが、死体から採れる魔鉱石の実入りが段違いだ」


青年の口から出たのは、彼女が最も忌み嫌う「私欲」と「計算」だった。彼女にとっての冒険とは、困窮する開拓民を救い、世界の真実を照らす聖業であり、金銭のための屠殺ではなかった。議論は激しく衝突し、妥協を知らない彼女の正義は、ついには最悪の結末を招いた。


ある月夜、かつての仲間であった青年は、彼女を力ずくで従わせようと背後から襲いかかってきた。「俺の言うことを聞け、この分からず屋が!」と。


彼女の細剣は、反射的に放たれた。かつて信頼を寄せていた仲間の大盾を、強化魔術による超速の刺突で弾き飛ばし、その利き腕を深々と斬り裂いた。


命からがら逃げ出した彼女の心に残ったのは、冷たい鉄のような絶望だった。後に、その男が野垂れ死んだという風の噂を聞いたとき、彼女は血の通わぬ指先を見つめ、自らに問いかけた。


「わたしの正義は、誰を救ったのだろう?正しすぎること自体が、罪なのだろうか」


彼女の正義は、二度挫折した。一度目は規範を暴力で通そうとした未熟さによって。二度目は、他者に理想を強いた傲慢さと裏切りによって。


________________________________________


教会騎士団の「鷲」、あるいは大罪への招待状


迷いと自己嫌悪の果てに、彼女が辿り着いたのは、人智十字教会の荘厳な聖堂だった。


「正義は、あなた個人の中に置くものではありません。神が定めた法、組織が守るべき規範の中にこそ、揺るぎない真理があるのです」


年老いた女司祭のその言葉は、彷徨える彼女に「正解」を与えた。個人の不安定な感情ではなく、教会の教義という鋼の規範に基づく「絶対的な正義」。彼女は迷わず教会騎士団に身を投じた。女性騎士としての偏見や蔑視を、彼女はその圧倒的な「速度」と、寸分の狂いもない「公務の実績」で粉砕した。彼女の細剣は迷いなく「悪」を断罪し続け、王都の民からは、雲の上から不正を監視する「鷲」のごとき守護者として称賛されるようになった。


そして、黒鉄期1751年。壊滅の危機に瀕した人類の最高権威、ウィルヘルム4世大司教は、彼女に「勇者」という最後の聖痕を与えた。


「貴殿の正義は、人類に残された最後の光である」


だが、その輝かしい称号と引き換えに課せられたのは、教会の顧問賢者エウレが提唱した、人道という名の地平を焼き払う「因果の殺害」任務であった。


「過去へ遡り、魔王の生母レオリナを殺害せよ。彼女が身籠る前に」


「……未だ何の罪も犯していない女性を殺すことが、神の正義なのですか?」


彼女の最後の問いに、大司教は感情を削ぎ落とした真実を返した。


「未来の十二万人の命を救うための、最小の算術だ。それが、勇者という名の生贄が背負うべき『正義』なのだよ」


彼女は、細剣の柄を、指が白くなるほど強く握りしめた。自分の中にあった純粋な正義が、世界の存亡という巨大すぎる天秤の上で、悍ましく形を変えていくのを感じた。


(私はこれからも、正義を探し続けなければならない。たとえその探求の結果、この手が、赤黒い返り血で染まり、二度と小麦の匂いを感じられなくなったとしても)


数年後、時反し魔術によって蘇生し、過去の草原に降り立ったとき。禁忌の副作用は、彼女の潔癖すぎた正義感を、「不浄なる因果を断罪することに狂気的な愉悦を感じる」という歪んだ形へと変質させていた。


彼女の細剣は、もはや何かを守るための道具ではない。未来という不確かな「光」を維持するために、目の前の「不確定要素(塵)」を徹底的に掃き清めるための、冷徹な死神の鎌であった。


勇者・鷲。


彼女の鋭い眼差しは、いまや歴史のわずかな歪みそのものを敵として捉え、因果の円環へとその冷たい切っ先を向けていた。



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