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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第四部:『勇者たちの肖像 ― 捨てられた名と宿命』

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第20話:勇者たち:蜥蜴の残響、あるいは飢えたる牙の境界線

王都の膿、黒い炎の胎動


黒鉄期の栄華を極めるオース王都。その華やかな石畳の直下、陽光さえも差し込むことを拒絶された地下層に、その場所は実在した。「貧民街スラム」――そこは教会の説く慈愛が汚水と共に流れ込み、王国の法が空腹の前に霧散する、暴力と飢餓だけが煮詰められた蟲毒こどくの壺である。


後に「蜥蜴リザード」と呼ばれることになる少年には、名もなければ親の記憶もなかった。彼を形作っていたのは、胃袋を内側から削り取るような執拗な「飢え」と、泥水を啜ってでも明日を繋ごうとする、爬虫類のように冷たく粘り強い生存本能だけだった。


「……おい、獲物だ」


十歳の少年は、湿った影に溶け込み、市場の裏通りを歩く恰幅の良い商人を値踏みしていた。その瞳の奥に感情という贅沢品は存在しない。あるのは、獲物の急所を食い破る機会を淡々と窺う、静かで冷徹な「黒い炎」だけだ。彼は、同じような境遇の浮浪児たちで構成された犯罪集団に身を置いていた。盗み、スリ、略奪。それらは彼にとって「罪」ではなく、生命を維持するための単なる「代謝」に過ぎなかった。


だが、その歪な均衡は一瞬で崩れ去る。


ある雨の夜、縄張りを荒らされたことに激昂した「ならず者の武装集団」が、報復のために貧民街へなだれ込んできたのだ。


「ガキども、皆殺しだ!使える奴は奴隷に売り飛ばせ!」


大人たちの理不尽な暴力が、子供たちの悲鳴をかき消していく。少年もまた泥濘でいねいの中に叩きつけられ、無数の蹴りを浴びた。肋骨が軋み、肺から空気が漏れ出す。だが、彼は泣かなかった。


少年は血反吐を吐きながら、自分を見下ろす男の顔を網膜の奥に焼き付けていた。


(殺す。いつか、必ず。お前の喉を、この手で……)


その瞳に宿る、底知れぬ復讐心と純粋な飢餓感。ならず者たちは、瀕死の少年の眼光に、生物としての本能的な「違和感」を覚え、とどめを刺す手を一瞬躊躇わせた。


その時、激しい雨音を切り裂いて、一人の男が現れた。全身を漆黒の装束で包み、肌には蛇を思わせる不気味な入れ墨を刻んだ「仮面の男」。ならず者たちは男が放つ圧倒的な死の気配に震え、少年を差し出した。


「……見どころがある。よし、買った」


男の地を這うような低い声が、少年の新たな地獄の始まりを告げた。


________________________________________


深淵の工房、感情の剥離


連れて行かれた先は、王都の地下深くに眠る、白銀期の真精霊時代の遺構を転用した秘密の訓練場だった。そこで少年を待っていたのは、教育という名の「人間性の解体」だった。


「死にたくなければ、あがけ。生き延びろ。それ以外に価値はない」


仮面の男はそれだけを言い、少年に錆びた短剣一本を与え、魔生物の幼体や狂った実験体が蠢く完全な暗闇へ放り込んだ。食事は最低限。休息は数時間。失敗の代償は常に「死」だった。


少年は、自らの肉体に「強化魔術」の初歩を刻み込むことを強制された。魔那マナを循環させ、痛覚を一時的に遮断し、反射神経を物理的な限界まで加速させる。それは魔法という高尚な技術ではなく、自身の肉体を「効率的な殺戮兵器」として最適化するプロセスに他ならなかった。


三年が経過した頃、少年の肉体からは余分な脂肪も、そして人間らしい「感情」も完全に削ぎ落とされていた。彼は無音で地を這い、一瞬の隙を突いて獲物の頸椎を断つ、まさに「蜥蜴」のような暗殺者へと変貌を遂げていた。仮面の男は、少年に数本の特殊な短剣と、出所の知れない猛毒を授けた。


「最初の任務だ。お前を売ったならず者どもを、一人の例外もなく間引いてこい」


少年は、その命令を感情的なカタルシスではなく、単なる「性能テスト」として受け止めた。


かつて自分を奴隷にしようとした男たちの根城に、彼は音もなく侵入した。


――シュッ。


毒を塗った短剣が、酒を飲み交わす男の首筋を優しく撫でる。悲鳴を上げる間もなく、強力な神経毒が心臓の鼓動を止める。


少年は血の匂いを嗅いでも、絶望の断末魔を聴いても、鼓動一つ乱さなかった。彼の中にあった復讐心という熱は、極限の訓練の中で、絶対的な「無機質さ」へと昇華されていたのである。


彼は、感情という最大の弱点を根絶した「暗殺兵器」として、ここに完成した。


________________________________________


偽りの聖域、暗部の勇者


かつて自分をゴミのように踏みつけ、奴隷として売り飛ばそうとした男たちの根城。蜥蜴はそこへ、夜風に混じる塵のように音もなく侵入した。


――シュッ。


毒を塗布した短剣の刃が、談笑しながら酒を煽る男の首筋を、愛撫するかのように優しく撫でる。悲鳴を上げる間も、何が起きたか理解する暇もない。極限まで精製された神経毒が、瞬時に心臓の拍動を物理的に停止させた。


少年は、かつての仇敵の血が滴る匂いを嗅いでも、最期の絶望が凝固した断末魔を聴いても、鼓動一つ乱さなかった。かつての泥濘で燃え上がっていた復讐心という熱は、極限の訓練という名の「解体作業」を経て、絶対的な無機質さへと昇華されていたのである。


そこにいたのは、傷ついた子供ではない。感情という、生存において最大のノイズとなる弱点を完全に根絶した「暗殺兵器」。勇者・蜥蜴はこの時、闇の工房で冷たく完成した。


その類まれなる殺戮の技法は、やがて人智十字教会の暗部――光が強すぎるがゆえに生じる、深い影の底へと届く。教会は常に、表向きの「正義」や「騎士道」という清廉な言葉では決して始末できない、不浄な泥を掬い取るための「掃除人」を欲していた。少年は「蜥蜴リザード」という記号を与えられ、教会騎士団の正規名簿には載らない非正規枠として、聖域の闇に潜入した。


「勇者?所詮、生き残った者が、敗者の屍の上で適当に与えられる、薄っぺらなラベルに過ぎないだろう」


彼は、騎士団隊長である「獅子」が纏う高潔な騎士道の鎧を、滑稽な茶番として冷笑していた。理想や正義という幻想に縋る者は、極限状態という天秤にかけられた時、必ずその脆さを露呈する。彼にとっての世界は、今なおあの貧民街の路地裏と同じ、単純明快な「喰うか、喰われるか」という生存競争の檻でしかなかった。


ある時、王立魔術研究所から流出したとされる「禁忌の媒体」を奪還する極秘任務が下された。相手は第4等級の魔生物を自在に操る武装組織。蜥蜴は、正面から騎士道の理に従ってぶつかり合う正規騎士たちを、躊躇なく「使い捨ての囮」として利用し、単独で敵の心臓部へと潜り込んだ。


彼の挙動は、既存の魔術体系が孕む致命的な「隙」を突くものだった。術者が魔那マナを練り上げ、極点を構築し、呪文を完成させるまでのわずか数秒の「空白」。その絶対的な無防備な時間に、彼は強化魔術によって爆発させた脚力で空間を跳び、魔術が現象化する前に標的の喉を音もなく掻き切った。


「計算通りだ。……塵芥ゴミが一つ減ったな」


現場に魔法の残滓はない。あるのはただ、精密機械によって穿たれたかのような、効率的な刺突の痕跡だけ。この冷酷なまでの最適化と、確実に死を届ける実績こそが、大司教ウィルヘルム4世をして「この猛毒を勇者の一人に加えよ」と言わしめた、忌まわしき真の理由であった。


________________________________________


認定の儀、冷徹なる契約


王都大聖堂の地下深く、冷気が這う祭壇。


勇者「獅子」や「鷲」が黄金の光と民衆の喝采の下で称号を授かる一方で、蜥蜴は深い影が澱む祭壇の前で、賢者エウレと対峙していた。


「お前の技能、そして決定的な感情の欠落を高く評価する。今日よりお前を、王国と教会の希望……『勇者・蜥蜴』に認定する」


エウレの声には、神職が持つべき慈悲など微塵も含まれていなかった。あるのは、期待通りの性能を持つ「道具」を検品した際に生じる、工学的な満足感だけだった。蜥蜴もまた、その氷のような視線を平然と受け流し、薄い唇を歪めた。


「……へ~い。好きに呼べよ。仕事さえさせてくれりゃあ、名目なんて何でもいい。餌があれば蜥蜴は動く」


彼にとって勇者の称号は、教会の庇護という透明な壁の内側で、合法的に殺戮という代謝を続け、生存を担保するための「免罪符」に過ぎなかった。英雄としての自覚など、最初から一欠片も持ち合わせてはいなかった。


そして数年後、黒鉄期1751年。彼は魔王ラビスが放った圧倒的な第6位階魔術「千刃」の奔流に呑まれ、一度はその肉体をズタズタに切り刻まれて絶命した。しかし、禁忌の「時反し魔術」によって黄泉の国から強制的に引き戻されたとき、彼の内側では「世界の反動」が黒く牙を剥き始めていた。元より希薄であった倫理観は、死の洗礼を経て完全に消失。ただ「大義」という名の極上の餌を追い求める、凶暴な捕食者の本能だけが異様な加速を見せていた。


蘇生直後、賢者エウレが淡々と告げた「魔王根絶計画」の全容――過去へ遡り、未だ何の罪も犯していない一人の女性を殺害せよという、吐き気を催すような非道な命令。それを聞いたとき、蜥蜴は初めて、心底愉しそうに口角を吊り上げて笑った。


「未来の12万人の命を救うための、暗殺か。あははっ!傑作だぜ。結局、高潔な騎士様方も、俺と同じ泥沼を這い回る暗殺者だってことじゃないか」


彼は、自分たちがこれから行おうとする行為が、魔王の蹂躙よりも遥かに非情で、救いようがなく、不潔であることを瞬時に理解した。そして、その不潔さこそが、暗部の暗殺者として生きてきた自分の本分であるとも確信した。


短剣の感触を確かめ、黒鉄期1692年の草原に降り立った蜥蜴。その瞳に宿る黒い炎は、もはや自らの飢えを満たすためではなく、世界そのものを因果ごと焼き尽くすような、歪んだ愉悦へと変質していた。


勇者・蜥蜴。彼は救済の象徴などではない。それは、この醜悪な世界が生み出した「生存」という名の呪い、その最果ての具現であった。


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