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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第四部:『勇者たちの肖像 ― 捨てられた名と宿命』

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第19話:勇者たち:虎の矜持、あるいは誠実の証明

泥濘の金貨、あるいは見捨てられた仔


黒鉄期の王都。その華やかな表通りの喧騒から見捨てられたような路地裏に、冒険者ギルド「黄金の盾亭」は位置していた。常に安酒の刺激臭と染み付いた汗、そして剥き出しの乾いた欲望の匂いが肺を灼くその場所は、十歳の「彼」にとって、家であり、唯一の社会であり、そして逃れられぬ地獄そのものであった。


「いいか、小僧。これでお前の三日分の飯代だ。隅っこで大人しくしていろ」


不誠実な、粘りつくような笑みを浮かべた父親が、数枚の汚れた銅貨をカウンターに叩きつける。隣に立つ母親は、割れた手鏡で自分の顔を整えるのに夢中で、息子に一瞥もくれない。二人は王都を拠点にする中堅の冒険者だったが、その界隈での評判は最悪の一言に尽きた。仲間の手柄を平然と盗み、危険な予兆があれば真っ先に背を向けて逃げ出し、得た報酬は全て酒と賭博の渦に消える。


幼い彼は、ギルドの湿った隅っこで膝を抱え、両親が「仕事」という名の放蕩へ出かける後ろ姿を見送るのが日課だった。


だが、その日は決定的に違った。


三日が過ぎ、預けられた銅貨が底を突き、一週間が経過しても、両親は戻らなかった。


「……あいつら、南の森への大規模探索依頼、前金だけ受け取って高飛びしたらしいぜ」


「残されたガキはどうする?ギルドのツケも相当溜まってんだ。さっさと叩き出すか?」


ギルド職員たちの冷ややかな囁きが、少年の耳を鋭く刺す。かつて彼を「可愛い小僧」と呼んで頭を撫でてくれた冒険者たちも、今は厄介事への関わりを避けるように露骨に目を逸らす。


少年は理解した。自分をこの場所に繋ぎ止めていたのは愛情などではなく、両親が周囲に支払っていた「迷惑料」という名の金だったのだと。金が尽きれば、そこに「自分」という存在の居場所は一寸たりとも残されていない。


「……両親のような、嘘つきには……絶対になりたくない」


空腹と寒さで震える喉から漏れたのは、祈りよりも重く昏い呪詛だった。


その時、酒場の卑俗な騒乱を切り裂くように、一人の男が歩み寄ってきた。


名を、ギリム。王都でも指折りの実力者でありながら、派閥に属することを嫌う孤高のソロ冒険者だ。彼は少年の胸ぐらを無造作に掴み上げると、まるでゴミ袋でも扱うような無慈悲さで、ギルドの外、冷たい石畳の上へと引きずり出した。


「お前の親が逃げたのか、あるいは野垂れ死んだのかは知らん。だが、今のお前はただの死に損ないだ」


ギリムは荒野の入り口で、少年を地面に放り投げた。


「なりたくないなら、そのように生きろ。……ついて来い。死にたくなければな」


________________________________________


荒野の研磨、あるいは二つの牙


ギリムに連れられた先は、人族の生存圏の最果て。魔生物が跋扈し、理法よりも生存本能が優先される「境界の荒野」だった。そこでの日々は、教育という名の虐殺に近い過酷さを極めた。


「人族は弱い。個体の魔那マナ保有量は平均して『1』だ。対して、あそこにいる第1等級の魔生物は『2』を保持し、俺たちの2倍の身体強度を持っている」


ギリムは無造作に、一振りの短い剣を少年に投げ与えた。


「力で勝とうとするな。観察しろ。敵の呼吸、重心の偏り、そして周囲の魔那が魔法に変わる直前の『溜まり』を……その全てを誠実に見極めろ。事象に嘘をつくな」


少年は、ギリムから与えられた二本の剣――後の彼の象徴となる双剣――を手に、泥を啜り、自身の血で大地を濡らしながら戦い続けた。ギリムが彼に叩き込んだのは、単なる剣技の形ではない。それは、戦場における「戦術的誠実さ」であった。


「戦場での嘘は即座に死を招く。自分の実力を偽るな。地形の有利を疑うな。そして、何より仲間の背中を預かるなら、死んでもその信頼を裏切るな。お前の親が唯一持っていなかったもの……それが、お前の最強の武器になる」


十二年に及ぶ地獄のような修行の中で、少年の肉体は「強化魔術」の論理に従い、極めて効率的に造り替えられていった。


人族の乏しい魔那を、派手な攻撃魔法に回すのではなく、自身の筋肉の収縮速度と神経伝達の精度に特化させて循環させる。それは一見すれば地味な変化だが、自身の肉体を「一切の無駄がない精密機械」へと変貌させる、確実な強化だった。


二十二歳の時、彼は初めて第3等級の魔生物、「双頭の土蜘蛛デュアル・アラクネ」を単独で仕留めた。


一般人族の8倍の強度を誇る怪物を相手に、彼は一度も力押しをしなかった。地形を活かした巧妙な罠、そして双剣による精密な関節破壊。事切れた怪物の巨体を見下ろす彼に、ギリムは初めて、その通り名を授けた。


「その眼光、その俊敏さ……お前はもう仔猫じゃない。荒野の虎だ」


________________________________________


一流の証、あるいは孤高の戦術


三十代を迎えた「虎」は、オース王国でも指折りの一流冒険者としてその名を轟かせていた。彼が受領する依頼の完遂率は驚異の100%。それは単に彼が強いからではない。彼が、誰よりも「誠実」だからだ。


依頼主には一切の虚飾を交えず、不可能なことは不可能だとはっきり告げる。しかし一度契約を交わした以上は、どんな絶望的な困難があっても、仲間の命を守り抜き、目的を完遂する。


かつて彼を「裏切り者の息子」と蔑んだギルドの連中も、今や「虎が指揮を執るなら、その戦場に死者は出ない」とまで称賛し、その背中を追うようになった。


ある時、南部開拓領域で、第4等級の変異種「火炎トカゲ(サラマンダー・エリート)」の群れが発生した。多くのパーティーが壊滅し、王国軍さえも一時撤退を余儀なくされる中、虎はわずか十名の冒険者を率いて救援に向かった。


「いいか、全員聞け。敵は環境マナを呼吸のように体内に取り込み、火炎魔法へと変換する。放出までのインターバルは正確に3秒だ。この事実に嘘はない」


虎は「魔生物生態指南書」に記された知識を完璧に脳内に構築し、独自の戦術を組み立てた。


「俺が正面で注意を引く。狐は側面の地脈を乱せ。鷹は、魔那が収束する瞬間の『核』を一点に射抜け」


彼の指揮は、まるで冷徹なチェスの指し手のようだった。


結果、彼の率いた部隊は重傷者さえ出すことなく、群れを完全に殲滅した。この卓越した指揮能力と信義の固さが、人智十字教会の大司教ウィルヘルム4世の目に留まったのは、もはや必然であった。


________________________________________


勇者の重責、あるいは卑劣な使命


王都の大聖堂。荘厳なステンドグラスから差し込む光の下で、虎は静かに跪いていた。


「貴公の誠実な戦術、そして積み上げられた卓越した実績を高く評価する。今日より貴公を、王国と教会の希望……『勇者・虎』に認定する」


大司教から授けられた称号と、聖なる加護。それは、彼が一生をかけて両親の汚名をなぎ倒し、血の滲むような努力で手に入れた「信頼」の極致であった。彼はついに、誰からも疑われない「誠実な男」になったはずだった。


しかし、運命の円環は残酷に回る。


黒鉄期1751年。彼は魔王ラビスの圧倒的な第6位階魔術の前に一度敗北し、死を経験する。蘇生を経て、過去の世界へと身を投じる直前、賢者エウレから密かに告げられた「魔王根絶計画」の内容は、彼の魂の根幹を揺るがすものだった。


「魔王という因果を断つため、過去へ遡り、その生母を殺害せよ」


虎の脳裏には、教会の掲げる「大義」と、自身が矜持として培ってきた「信義」が激しく衝突した。


まだ罪を犯していない女性を、未来の災厄を未然に防ぐという名目で暗殺する。それは、彼が人生の全てをかけて否定してきた「卑劣な裏切り」そのものではないのか。


「……これは、歴史の巨大な修正なのだ。未来の12万人の命を救うための、最も『誠実』な選択なのだよ、虎君。君なら、この計算が理解できるはずだ」


エウレの冷徹な言葉が、彼の逃げ道を完全に塞ぐ。


「……承知いたしました」


虎は、短く応じた。その瞳は、誠実さゆえの苦悩で深く、昏く曇っていた。


彼は勇者となった。だが、それは彼が最も愛し、守り抜こうとした「信頼」という名の矜持を、世界の救済という名の免罪符で自ら鋳つぶすための旅の始まりだった。


背に慣れ親しんだ双剣を背負い、誠実さという名の重い泥を自らに塗りつけながら、彼は黒鉄期1692年の草原を駆ける。


その先に待ち受けるのが、かつての戦友であり、自分以上に誠実に「家族」を守ろうとする孤独な「狼」との避けられぬ死闘であることを、彼はまだ知らない。


勇者・虎。


彼の誠実さは、因果の円環の中で、最も残酷な試練――自らの正義を殺すという試練にさらされることになる。



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