第16話:勇者の決死行
「枯れ野の斬撃戦」という未曾有の流血を経て、オース大陸の覇権を巡る天秤は、水平を保ったまま凍りついた。王都を死守する王国軍と、南方の領都ラブラリアを拠点とする魔王軍。両軍の間には、互いの返り血でぬかるんだ広大な「無人地帯」が横たわり、小規模な斥候戦と魔術による牽制だけが空虚に繰り返される歳月が流れた。
黒鉄期一七五一年(西方歴一七三〇年)。
膠着した戦況を力業でこじ開けるべく、人智十字教会はついに禁断の総力戦を宣言した。教会の威信をかけた「異端殲滅」の号令の下、大陸各地から人族の兵力が掻き集められた。
教会の誇る鉄の規律を備えた聖騎士団四千名。
王家に忠誠を誓う正規軍八千名。
そして、教会の狂信的な説教によって「聖戦」へと駆り出された、武器も持たぬ農民兵十一万人。
合計十二万という、地平線を埋め尽くすほどの鋼の波が南下を開始し、魔王軍の心臓部である領都ラブラリアを包囲したのである。
数において圧倒的に劣る魔王軍であったが、その抗戦は王国側の予想を遥かに超えて熾烈を極めた。ラブラリアの城壁には、魔族系術師たちが心血を注いで構築した重層的な防護結界が張り巡らされ、人族の投石機や魔導砲の直撃を無効化した。
「この城壁は、我らの尊厳そのものだ。一枚剥がされるごとに、同胞の命が消えると思え!」
魔王軍の兵士たちは、昼夜を問わぬ猛攻を、執念と魔術の火力を以て退け続けた。数週間に及ぶはずだった包囲戦は、数ヶ月を過ぎても決着の兆しを見せず、逆に包囲する王国軍側に飢えと疫病の影が差し始めていた。
焦燥に駆られた教会首脳部は、この泥沼の戦況を劇的に、かつ残酷に終わらせるための極秘計画を発動する。
――「魔王暗殺計画」。
それは、大軍による正面突破を捨て、一握りの超人的な個体による「断頭」を狙う博打であった。
教会の総本山にて、聖遺物による加護と、過酷な試練を勝ち抜いた十二名の男女が選抜された。彼らは王国の希望の光であり、教会の信仰を体現する最強の「勇者」たちであった。彼ら一人一人が、一軍に匹敵する武力と、あらゆる魔術を無効化する「聖なる領域」をその身に宿していた。
決行の夜、空には不吉な赤き月が浮かんでいた。
作戦は、囮による陽動から始まった。城壁の北側にて、十二万の王国軍が総攻撃を擬装し、空を埋め尽くす光弾と喊声で魔王軍の注意を惹きつける。その喧騒の裏で、十二名の勇者たちは、隠密魔術と聖なる加護を纏い、影のようにラブラリアの城内へ、そして難攻不落と謳われた魔王城の最奥へと侵入を果たした。
彼らの目的はただ一つ。
諸悪の根源と断じた「魔王ラビス」を討ち取り、この内紛を終結させ、人族の秩序を取り戻すこと。
玉座の間。
そこには、逃げる素振りも見せず、静かに椅子に腰掛けたラビスがいた。
「……来たか。人族の希望たちが」
ラビスの冷徹な声が、冷たい石造りの広間に響く。勇者たちは言葉を返さず、一斉に武器を抜いた。聖銀の剣が眩い光を放ち、教会の秘術によって編まれた法力が室内の魔那を浄化しようと渦巻く。
「神の御名において、魔王ラビス、汝を処刑する!」
先頭の勇者が、音速を超える踏み込みと共に、聖剣をラビスの喉元へ突き出した。同時に、他の勇者たちも死角から一斉に襲いかかる。それは、いかなる魔生物、いかなる高位術師であっても逃れ得ぬ、完璧な「死の包囲網」であった。
しかし、その瞬間、ラビスの瞳が真紅に燃え上がった。
彼の中に眠る、古の魔族の血。神々ですら恐れた、本質的な「魔」の力が、臨界点を超えて解き放たれたのである。
「浅はかだ。汝らが神と呼ぶものさえ、この大陸ではただの観測者に過ぎぬというのに」
ラビスが静かに右手を翻した。
その瞬間、玉座の間の空間そのものが、無数の銀色の線によって断裂した。
――第六位階魔術・極致『千刃』。
それは、空間に存在する微細な魔那を、分子レベルの鋭利な刃へと変質させ、全方位から敵を切り刻む「絶滅の魔術」であった。
勇者たちが纏っていた「聖なる加護」の鎧は、秋風に舞う木の葉のように容易く切り裂かれた。聖銀の剣は粉々に砕け散り、彼らが誇った練度の高い体術も、次元を断つ刃の前では無意味であった。
一瞬。
たった一瞬の閃光の後、そこには絶叫すら許されなかった静寂だけが残った。
王国の希望であった十二名の勇者たちは、その生命を謳歌する暇もなく、ただの物言わぬ肉塊へと成り果て、冷たい石床を赤く染めたのである。
計画は、完全な、そして絶望的な失敗に終わった。
勇者たちの死を報せる断末魔の魔那が、夜のラブラリアに響き渡る。
城外で攻撃を続けていた十二万の王国軍は、精神的な支柱を失った。最強の勇者たちが、指先一つで一掃されたという事実は、人族の兵士たちの心に、信仰をも打ち砕く底知れぬ恐怖を植え付けた。
ラビスは、血の海と化した玉座の間で、独り立ち上がった。
「これで、共生の道は完全に閉ざされた……。さらばだ、人族の夢よ」
月光に照らされた魔王の横顔は、勝利を喜ぶ者のそれではなく、愛した世界を自らの手で葬らねばならぬ者の、果てしない哀しみに満ちていた。
暗殺計画の失敗は、オース大陸における人族の権威を失墜させ、歴史をさらなる激動の深淵へと、容赦なく突き落としたのである。
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『ラブリア包囲戦秘史』より抜粋
(本書は戯作者ウルヘイム・シュレーディンガーによる戯作本であり、史実とは異なる脚色が成されている。史書としては不適切な書籍であることに注意されたし)
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『時反し魔術』――因果律の断絶と聖域の血
魔王城の玉座の間で、王国の希望であった十二名の勇者たちが一瞬にして肉塊へと変えられたという報は、人智十字教会の聖都に、文字通り地鳴りのような激震をもたらした。鉄壁の信仰と、教会の威信をかけた最強の武力を誇った勇者たちが、指先一つで、それも第六位階という理を逸脱した魔術の前に塵となった事実は、人族の優越性を説いてきた教会の上層部にとって、単なる敗北ではない、種としての存亡の危機を意味していた。
人智十字教会の最高責任者、大司教ウィルヘルム四世は、聖堂の奥深く、神像さえも沈黙する静寂の中で独り、血の気が引いた顔で震えていた。彼は、魔王ラビスという存在が、もはや人族の軍事力や狂信的な信仰心で抗える範疇を、とうの昔に超えていることを魂で痛感していた。
「神は、我らを見捨てられたのか……。それとも、あの魔族こそが真の天罰なのか」
その絶望の深淵に、一人の男が影のように歩み寄った。教会の顧問であり、世界の創造原理から禁忌の術理までを網羅する稀代の天才、賢者エウレである。その瞳に宿るのは慈悲ではなく、目的のためなら神の理さえも踏みにじる、冷徹な理性の光であった。
エウレは不遜なほど真っ直ぐに大司教を見据え、救済ではなく、呪いにも似た禁忌の策を献じた。
「大司教閣下。現世の法、そして現世の武で魔王を討てぬのであれば、理そのものを書き換えるほかございません。勇者たちの魂の残滓を、まだこの世に留まっているうちに回収し、復活の儀を執り行います。そして……『時反し』の秘術を以て、魔王という存在がこの世に産声を上げる前へと、因果の糸を遡り、その根源を断つのです」
ウィルヘルム四世は、その提案が神の定めた時の不可逆性を冒涜する、地獄に堕ちてもなお償えぬ大罪であることを理解していた。しかし、魔王の軍勢による「解放」という名の審判が刻一刻と迫る中、彼に拒絶の選択肢は残されていなかった。
「……やんぬるかな。神罰は私が、この一身で受けよう。エウレよ、即刻実行せよ」
賢者エウレは直ちに、魔王城から密かに運び出された勇者たちの凄惨な遺体を前に、禁忌の儀式を開始した。祭壇に並べられたのは、かつての英雄たちの無惨な成れの果てである。
それは魔那の奔流を強引に逆流させ、四散しようとする魂の欠片を捕らえ、肉体と精神を強制的に再構築する、神をも恐れぬ「蘇生の錬金術」であった。術式の衝撃で聖堂が震え、闇色の光が渦巻く。
だが、供えられた遺体は十一柱分しかなかった。勇者の一人、「狼」と呼ばれた冒険者の遺体だけは、戦場のどこを探しても見つからなかったのである。彼だけは、魔王によって因果ごと消し飛ばされたのか、あるいは別の理由か。エウレは微かな不審を抱きつつも、残りの十一人の蘇生を完了させた。
不完全ながらも黄泉の国から引き戻された十一名の勇者たち。彼らが目を開けた瞬間、聖堂には絶叫と嗚咽が満ちた。その瞳には、一度死を経験した者に特有の、底知れぬ虚無が宿っている。そして何より、自分たちを一瞬で屠った魔王の絶望的な力への、消えぬ恐怖が魂に刻み込まれていた。
エウレは大司教と共に、混乱と恐怖に震える彼らの前に立ち、教会の最終計画を冷酷に告げた。その名は「魔王根絶計画」。
「諸君、魔王ラビスは、我々の生きるこの時代においてはもはや『不滅』に等しい。彼の力はこの世界の法則そのものを掌握し、塗り替える段階にある」
エウレの声は、冷たい霧のように勇者たちの剥き出しの心に染み込んでいく。
「故に、我々は『時反し魔術』を用いる。君たちを、魔王が生まれる以前の過去――黒鉄期一六九二年へと送り込むのだ」
計画の全容は、あまりにも非人道的で、騎士の誇りを踏みにじるものであった。
三十二年前の世界へ跳び、当時二十歳であった魔王の生母、レオリナという一人の女性を暗殺すること。
「魔王が生まれなければ、この悲劇的な内紛も、人族の没落も、君たちの死も、すべては起こり得なかった幻となる。存在しなかった事象は、敗北にはなり得んのだ。これこそが、人族が勝つための唯一の『正解』だ」
蘇った十一名の勇者たちの間に、戦慄と拒絶の波が走った。彼らは、獅子、蜥蜴、熊、鷲、虎、狐、鷹、梟……それぞれが異なる誇りを持つ、教会の剣であり盾であった。
教会騎士隊長であり、常に騎士道の先頭を歩んできた「獅子」は、その輝かしい倫理観と、未来の罪のために無辜の女性を殺めるという任務の醜悪さの間で、激しく葛藤し、顔を歪めた。
「我らは、弱きを助けるために勇者となったのだ!罪なき者を暗殺するために死から戻されたというのか……!」
対照的に、冷酷な隠密者としての本能を持つ「蜥蜴」は、無表情にその任務を咀嚼していた。「歴史が救われるなら、一人の女の命など計算上の端数に過ぎない」と。
勇猛な戦術家である「虎」は、過去を強引に改変することでもたらされる因果の崩壊、いわゆる「歴史のしっぺ返し」に本能的な危惧を抱いた。一方、最年少の賢者である「梟」は、師であるエウレから魔王暗殺の裏に隠された、さらに深淵な秘密任務を授けられているようであり、その瞳には他の者とは違う昏い光が宿っていた。
議論と対立が渦巻く中、エウレは冷たく言い放った。「この任務に私情は不要。意志を持たぬ道具として歴史を剪定せよ」と。
最終的に、十一名の中から八名の精鋭が「時反し魔術」の執行者として選別された。しかし、三名は最後まで首を縦に振らなかった。騎士の誇りが、過去の女性を殺めるという汚辱を許さなかったのである。
「……意志を持たぬ者、そして命令に従わぬ無益な者は、我らが新世界には不要だ」
エウレは慈悲の欠片もなく、拒絶した三名をその場で、蘇生したばかりの術式を解除することで塵へと戻した。残された八人は、もはや後戻りできないことを悟り、沈黙した。
彼らは理解していた。この任務は、正史のどのページにも、英雄譚のどの章にも記録されることはない。成功すれば、魔王との戦いそのものが「なかったこと」になり、彼らが味わった屈辱的な敗北も、死の苦しみも、蘇生の禁忌も、そしてこの決死の行軍さえも、誰の記憶にも残らない空白の彼方へと消え去るのだ。自分たちは、世界のために歴史から消える「掃除人」になるのだと。
巨大な魔法陣が聖堂の床に刻まれ、オース大陸全土から吸い上げられた魔那が、因果の壁を捻じ曲げるための莫大なエネルギーとして中心点に集束していく。空気は不快な摩擦音を立て、空間が悲鳴を上げて歪み始めた。
「行け、歴史の剪定者たちよ。汚れた過去を斬り捨て、人族の輝かしい未来を、その手に取り戻せ」
エウレの冷酷な激励と共に、八名の勇者たちは光の奔流に飲み込まれた。
目指すは黒鉄期一六九二年。
魔王という「絶望」が産声を上げる三十二年前。まだ希望が、あるいは差別という名の種火が燻っていただけの、静かな過去。
一度完全に敗北した人類が、歴史そのものを「反転」させ、因果を殺害するための、神をも裏切る禁忌の逆転劇が、今ここに幕を開けたのである。




