第17話:主のみぞ知る――因果の断頭台
神の領域を侵犯し、流れる時の大河を逆流させる。禁忌中の禁忌「時反し」の儀式が執行されようとする直前、聖堂の空気は物理的な質量を伴って凍りついていた。ステンドグラスから差し込む月光さえも、これから始まる「因果の殺害」を恐れるかのように、その輝きを失っている。
人智十字教会の最高権威、ウィルヘルム四世大司教は、祭壇の前に崩れ落ちるように立っていた。祭壇の床には、かつて人族の救済を象徴していたはずの聖なる紋様が、今や勇者たちの血と、時を捻じ曲げるためのどす黒い魔那によって塗り替えられている。老いたその顔には、数十年にも及ぶ魔王軍との消耗戦による拭いきれぬ疲弊と、一人の無辜の女性――未だ見ぬ魔王の母――を歴史から消し去るという、宗教者として、人としての尊厳を放棄した決断への深い絶望が滲んでいた。
大司教は、魔術陣の最終調整を行う賢者エウレに、掠れた声で問いかけた。
「……エウレよ。これで我々は、真に『勝利』できるのだな?この呪われた戦火を消し、人族の輝かしい未来を……我らの手に取り戻せるのだな?」
賢者エウレは、魔術の酷使によってひび割れた顔に、凍てつくような皮肉な笑みを浮かべた。
「さて、どうですかな」
彼は時を司る巨大な陣の結節点に配置された魔鉱石を、愛でるように指先で撫でる。そこに流れる魔那の微細な振動を調整しながら、彼は神をも恐れぬ不遜な論理を続けた。
「魔王ラビスが生まれなければ、この悲惨な内紛自体が存在しなかったことになるのか。あるいは、歴史という名の巨大な機構が、魔王という欠落を埋めるために、別の『代替物(魔王)』を新たな駒として盤上に置くのか」
エウレの瞳には、狂信的な信仰も、大司教のような罪悪感も欠片もなかった。あるのは、巨大な「因果の実験」を前にした観察者の、冷酷極まりない好奇心だけである。
「それとも、我々が過去という土台を無理やり掘り返した結果、現在の我々が想像も及ばないような、さらに歪んだ地獄のような未来へ至るのか……」
エウレは魔術陣の中央、死から引き戻され、魂の一部を欠落させたまま立ち尽くす八名の勇者たちを見た。彼らをあたかも使い捨ての部品、あるいは壊れかけの道具を見るような目で見つめ、静かに、そして残酷な結論を述べた。
「……すべては、主のみぞ知る。――あるいは、主ですら関知し得ぬ深淵のみが知る、ですかな」
その言葉は、大司教に一抹の安らぎも与えなかった。しかし、人族側にはもはや、この破滅的な博打以外に選べる道は残されていなかった。
――「時反し」、発動。
エウレが杖を床に突き立てた瞬間、周囲二百メートルを揺るがすほどの凄まじい魔那の奔流が爆発した。空間は粉々に割れた鏡のようにひび割れ、概念上の重力は消失し、上下左右の感覚は白銀の閃光の中に溶けていく。
黒鉄期一七五一年。戦火に焼かれ、黄昏を迎えつつあったオース大陸から、八名の勇者という「存在の質量」が完全に抹消された。彼らがかつて歩み、剣を振り、愛し、血を流した記録さえも、時間軸の逆流という濁流に押し流され、誰の記憶にも残らぬ空白へと消えていく。
勇者たちの意識は、光さえも届かない無限の闇と、重力のない「時の狭間」を彷徨った。
その刹那、彼らが最後に感じたのは、それぞれの魂に刻まれた最後の残滓であった。
獅子の、騎士としての誇りを汚された葛藤。
蜥蜴の、暗殺者としての氷のような冷徹な覚悟。
虎の、戦術家としての取り返しのつかない後悔。
そして、最年少の賢者である梟が、その無機質な瞳の奥に隠し持っていた、師エウレさえも欺くような、密やかで巨大な「使命感」。
魂が引きちぎられるような衝撃の後、唐突にその転移は完了した。
勇者たちが重力と、あまりにも鮮やかすぎる視界を取り戻したのは、黒鉄期一六九二年のオース王国南部。魔域からの風が微かに草木を揺らす、ラブラス領南端の、何の変哲もない草原であった。
そこは、魔王ラビスが生まれる数ヶ月前の世界。
空にはまだ、すべてを焼き尽くす魔術の火柱も、人族を追い詰める絶望の叫びもない。ただ、穏やかな陽光が、静かな村を照らしていた。そこには、後に「魔王の母」として全人類に呪われることになる二十歳の純真な少女、レオリナがいた。彼女は自身の運命を知らぬまま、老いた母オレリアと共に、痩せた土を耕し、慎ましく、しかし確かな幸せの中に生きていた。
八名の「時返り」の勇者たちは、この恐ろしいほどに無防備で平和な風景の中に降り立った。
彼らは世界を救うという、あまりにも重すぎる大義の名の下に、この平和を、そして罪なき母娘の命を、文字通り「なかったこと」にしなければならない。
彼らはもはや、人族の希望を背負う英雄ではない。歴史の理を裏切り、過去を破壊することで未来を繋ごうとする、哀しき「時代の逆行者」となったのだ。
穏やかな風に揺れる麦畑の音。遠くで響くのどかな家畜の鳴き声。
この何の変哲もない、南の村こそが、魔王と勇者、そして世界そのものの運命が複雑に、かつ残酷に交錯する「滅びの円環」の真の起点。
因果を殺害するための八振りの刃が、今、過去の大地を踏みしめた。
物語は、ここから「真実の悲劇」へと、その幕を再び開けるのである。




