何も求めない人
朝の空気が、少しだけ冷たくなっていた。
季節が進んでいる。
それは、私の身体よりも正確だ。
窓を開けると、庭の向こうで人影が動いているのが見えた。
使用人ではない。
庭師でもない。
背の低い少年――いや、青年か。
年の頃は、私より少し上だろう。
「……誰?」
エマに聞くと、少し困った顔をした。
「新しく来られた方です。
図書記録官の補佐だそうで……」
図書記録官。
つまり、家の歴史や文書を整理する役目。
社交とも政治とも、ほとんど無縁の立場だ。
「お父様が?」
「はい。古い資料の整理が滞っているからと」
私はそれ以上興味を示さず、朝の支度を続けた。
誰が来ようと、私の時間が増えるわけではない。
昼前、書庫へ向かったのは偶然だった。
読みかけの本を返すため、それだけの理由。
書庫の奥で、紙をめくる音がした。
棚の前に立っていたのは、朝見かけた青年だった。
簡素な服装。
貴族にありがちな気負いがない。
「失礼します」
私が声をかけると、彼は驚いたように振り返り、すぐに頭を下げた。
「失礼しました。
お邪魔でしたでしょうか」
「いいえ。ここは、あなたの仕事場でもあるのでしょう」
彼は一瞬戸惑い、それから小さく頷いた。
「はい。
アーシュと申します」
名前だけ。
家名を名乗らない。
それだけで、少し安心した。
「何を読んでいるのですか」
「古い寄進記録です。
正直、あまり面白くはありません」
率直すぎて、思わず口元が緩みそうになる。
「そうでしょうね」
「ですが、読む必要はあります」
それ以上、理由を語らない。
評価もしない。
私は本を返却し、別の棚に手を伸ばした。
沈黙が続く。
気まずさはない。
彼は、私を見ない。
正確には、必要以上に意識しない。
それが、妙に心地よかった。
「……よく、聞かれませんね」
不意に、そう口に出していた。
「何を、でしょうか」
「私のこと」
余命。
病。
延命。
普通なら、どれかに触れたがる。
アーシュは、少し考えてから答えた。
「聞いてほしいことがあれば、話されると思いましたので」
それだけだった。
期待も、遠慮もない。
「聞かないのは、無関心だからでは?」
「はい」
即答だった。
「でも、それは悪い意味ではありません」
彼は本に視線を戻したまま言う。
「人は、それぞれ抱えているものがあります。
私は、仕事をしに来ただけですから」
その線引きは、あまりにも明確だった。
私は、初めて彼の方をしっかり見た。
「……優しいですね」
すると、彼は首を横に振った。
「違います」
否定は、静かだった。
「ただ、他人の人生に興味がないだけです」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「それは、助かります」
本音だった。
彼は、少しだけ驚いた顔をした。
「そう言われたのは、初めてです」
「普通は、冷たいと言われますから」
「ええ。そうでしょうね」
彼は否定しなかった。
それが、さらに良かった。
書庫を出るとき、彼は一礼した。
「お邪魔しました」
「いいえ。こちらこそ」
その別れは、あまりにもあっさりしていた。
振り返ることもなく、
次に会う約束もなく。
それでいい。
廊下を歩きながら、私は思う。
踏み込まれないことが、
こんなにも楽だとは。
理解されなくていい。
見守られなくていい。
意味を与えられなくていい。
ただ、同じ空間にいるだけ。
「……これでいい」
誰かにとって特別でなくても、
私は、私の時間を生きられる。
それを、壊さない人が
この世界にもいる。
それだけで、十分だった。




