未来の話をしない人
余命を告げられた翌日から、世界は何事もなかったかのように動き続けた。
朝になればカーテンが開かれ、紅茶が運ばれ、衣装係が今日のドレスを選ぶ。
昨日までと何一つ変わらない手順。
変わったのは、私の中に「期限」がはっきりと刻まれたことだけだった。
「本日は侯爵家から使者が参っております」
エマが言いづらそうに視線を伏せる。
「ああ、婚約の話ね」
そう答えると、彼女は驚いたように顔を上げた。
「……もう、ご存じだったのですか」
「ええ。知らない方がおかしいでしょう」
公爵家の一人娘。
体調が安定してきた今、話が出ない方が不自然だ。
エマは何か言いたげだったけれど、結局黙って準備を続けた。
私の返事が、あまりにも淡々としていたからだろう。
応接室に向かう廊下は、やけに長く感じた。
窓の外では庭師たちが剪定をしている。
来年も、その庭は同じように整えられるのだろう。
私がいなくなっても。
応接室には、すでに数人の大人たちが集まっていた。
父である公爵、侯爵家の使者、そして――初めて顔を見る青年。
「初めまして。アレクシス・ヴァルハルトと申します」
落ち着いた声。
無駄のない所作。
年は二十歳前後だろうか。
私は軽く礼を返す。
「リリアーナ・エヴァレットです」
それだけ。
心臓が早まることも、頬が熱くなることもない。
彼を見て、最初に浮かんだ感想は、
「この人は、私のいない未来を生きる人だ」というものだった。
話は形式的に進んだ。
家同士の釣り合い、互いの立場、将来の協力関係。
誰も「好き」という言葉を使わない。
恋愛というより、契約に近い。
「リリアーナ様は、いかがお考えですか」
そう水を向けられたとき、全員の視線が私に集まった。
私は一拍置いてから、静かに口を開く。
「申し訳ありませんが、お断りします」
空気が止まった。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
父の声には、抑えた苛立ちが混じっている。
「将来の話ができないからです」
私は、アレクシスを見た。
彼は驚きも怒りも見せず、ただ黙って私を見返している。
「結婚とは、未来を共有する約束です。
ですが私は、自分の未来を約束できません」
それは、嘘ではなかった。
余命のことは伏せている。
けれど、この言葉自体は事実だ。
「……それは、覚悟の問題では?」
侯爵家の使者が口を挟む。
私は首を横に振った。
「覚悟でどうにかなる話ではありません。
私がいなくなった後も、この方は生き続ける。
その前提を無視して約束を交わすのは、不誠実です」
部屋に、重たい沈黙が落ちた。
アレクシスが、初めて口を開く。
「リリアーナ様は、ずいぶん冷静ですね」
責めるでもなく、慰めるでもない声。
「感情で判断しないのは、悪いことですか」
「いいえ。ただ……」
彼は一瞬言葉を探すように視線を伏せた。
「同年代の令嬢とは、思えなかっただけです」
その言葉に、少しだけ苦笑が漏れそうになった。
「それは、褒め言葉として受け取っておきます」
話はそれ以上進まなかった。
形式的に茶を飲み、挨拶を交わし、解散。
応接室を出ると、エマが小走りで近づいてきた。
「大丈夫でしたか……?」
「ええ。問題ありません」
そう答えると、彼女は困ったように眉を下げる。
「でも……もったいないです」
その言葉に、私は足を止めた。
「何が、ですか」
「だって……お優しそうな方でしたし……」
私は、少し考えてから言った。
「エマ。優しい人ほど、巻き込んではいけないのよ」
彼女は、その意味を完全には理解できなかっただろう。
でも、それでいい。
部屋に戻り、窓辺に立つ。
夕暮れが庭を染めていく。
誰かと未来の話をしない人生。
それは、孤独かもしれない。
それでも私は、選ぶ。
誰かの時間を奪わないこと。
それが、今の私にできる、精一杯の誠実さだった。




