残される側になれない人
夜は、思考を静かにする。
昼間のように言葉を求められず、感情を整理する必要もない。
だからリリアーナは、夜を嫌いではなかった。
窓辺には薄い月明かりが落ちている。
机の上には、昼間研究院から渡された資料。
延命術式に関する説明書類。
成功率。
副作用。
適合条件。
どれも丁寧に書かれている。
丁寧に、“未来が続く前提”で。
リリアーナは紙を閉じ、静かに息を吐いた。
「眠っていないのね」
不意に声がした。
振り返ると、ヴィクトリアが立っていた。
「お母様」
「灯りが見えたから」
彼女はゆっくり部屋へ入る。
リリアーナは椅子を勧めたが、ヴィクトリアは座らなかった。
代わりに、机の上の資料へ視線を落とす。
「読むだけは読むのね」
「一応は」
「受ける気は?」
リリアーナは少しだけ考える。
「まだ決めていないわ」
それは本音だった。
最初から拒絶しているわけではない。
ただ、“生き続けるために全てを賭ける感覚”が、自分の中に薄い。
ヴィクトリアは静かに娘を見る。
「あなた、小さい頃からそうだったわね」
「何が?」
「自分のことなのに、どこか他人事みたいな顔をするところ」
責める口調ではない。
ただ、長年見てきた母親の観察だった。
リリアーナは否定しない。
たぶん、それは正しい。
自分の未来を、自分だけの所有物として感じられない。
いつからそうだったのかは、もう覚えていない。
「怒っている?」
ふと、リリアーナは聞いた。
ヴィクトリアは少し目を瞬かせる。
「何に?」
「私が、“生きたい”って必死にならないこと」
静かな問いだった。
ヴィクトリアはすぐには答えない。
長い沈黙。
やがて、彼女は小さく首を横に振る。
「怒ってはいないわ」
「……そう」
「でも、悔しいの」
その言葉に、リリアーナは母を見る。
ヴィクトリアは微笑んでいた。
泣いてはいない。
それなのに、その表情は妙に脆く見えた。
「あなたは、ちゃんと生きているのに」
彼女は静かに言う。
「まるで、自分だけ最初から“残される側”に入っていないみたいだから」
リリアーナは言葉を返せなかった。
残される側。
その感覚は、彼女の中にほとんど存在しない。
誰かを置いていく未来より、
自分がいなくなった後の世界を想像する方が自然だった。
ヴィクトリアは、机の資料にそっと触れる。
「延命を望むのは、私たちの勝手かもしれない」
小さな声。
「でもね、リリアーナ。親って、勝手なのよ」
その言葉に、責任感も正論もなかった。
ただ、“失いたくない”という感情だけがある。
リリアーナは視線を落とす。
理解できないわけではない。
ただ、自分の中に同じ熱量が存在しない。
それが少しだけ、申し訳なかった。
「……ごめんなさい」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
ヴィクトリアは驚いたように目を見開き、それから困ったように笑う。
「そういうことじゃないの」
彼女は娘の髪にそっと触れた。
幼い頃と同じような、静かな手つき。
「あなたが謝る必要なんて、どこにもないわ」
リリアーナは、その手の温度を受け入れながら思う。
たぶん自分は、最後まで“残される側”にはなれない。
未来から自分を外すことに、慣れすぎている。
けれど。
それを悲しむ人がいることだけは、もう見ないふりができなくなり始めていた。




