残される側の願い
クラウス・エヴァレットは、書類に視線を落としたまま動かなかった。
机の上には、研究院から届いた報告書が並んでいる。
延命魔法。
魔力循環の補助。
適合率。
成功例は極めて少数。
どれも決定打にはならない。
だが、“ゼロではない”。
その事実だけが、彼の手を止めさせていた。
「……まだ方法はあるんでしょう」
向かい側で、静かな声が落ちる。
リリアーナの母、ヴィクトリアだった。
彼女は感情を大きく表に出す人ではない。
泣き崩れることも、取り乱すこともない。
けれど最近、紅茶を飲む回数だけが増えた。
「可能性の話だ」
クラウスは低く返す。
「確実ではない」
「確実でなくても構いません」
ヴィクトリアは、そう言って視線を伏せた。
「……あの子が生きる理由になるなら」
その言葉に、クラウスは何も返さなかった。
生きる理由。
娘にそれが不足していることを、彼は理解している。
正確には、“未来を前提にした執着”がない。
リリアーナは穏やかだ。
静かで、聞き分けがよく、取り乱さない。
だから周囲は錯覚する。
受け入れているのだと。
覚悟ができているのだと。
だが違う。
あれは諦めではない。
最初から、自分を未来に含めていないだけだ。
「……私は、間違っていたのかもしれないな」
クラウスがぽつりと言う。
ヴィクトリアが顔を上げた。
「何がです?」
「強く育てすぎた」
その声は、疲れていた。
幼い頃からリリアーナは手がかからなかった。
我慢を覚えるのが早く、感情を飲み込むことにも慣れていた。
苦しいと叫ばない。
欲しいとねだらない。
大人びた娘だと、周囲は笑っていた。
クラウスも、それを誇らしく思っていた。
――だが今になって分かる。
あれは強さではない。
“期待しない癖”だった。
「あなたのせいではありません」
ヴィクトリアは静かに言う。
「……でも、あの子は誰にも縋らない」
クラウスの視線が、報告書の上で止まる。
「生きたいと言わない。助けてほしいとも言わない」
それが、彼には耐え難かった。
娘が泣き叫んでくれれば、まだ救われる。
死にたくないと縋ってくれれば、父親でいられる。
けれどリリアーナは、静かに受け入れてしまう。
だから周囲だけが、置き去りになる。
「……怖いのですよ」
ヴィクトリアが、小さく言った。
クラウスは目を向ける。
「何がだ」
「あの子が、いなくなった後も、世界が普通に続いてしまうことが」
部屋が静まり返る。
時計の音だけが、妙に大きく響いた。
クラウスはゆっくりと目を閉じる。
政治は止まらない。
公爵家も残る。
季節も巡る。
リリアーナがいなくなっても、世界は何事もなく続いていく。
それが現実だ。
だからこそ、耐えられない。
「私は……」
クラウスは言葉を切った。
父親として正しいことが、分からなかった。
延命を望むことは、彼女の意思を無視しているのか。
諦めることが、尊重なのか。
どちらを選んでも、自分のためのように思えた。
ヴィクトリアは静かに立ち上がり、窓辺へ向かう。
夕暮れだった。
空は薄く色を失い、夜へ沈みかけている。
「あと一年しかない、ではなく」
彼女は外を見たまま言った。
「もう一年しか、一緒にいられないのですね」
その言葉は、涙より静かだった。
クラウスは返事をしない。
できなかった。
部屋には、決断できない大人たちの沈黙だけが残っていた。




