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惑星ソランのリソラ大陸南端に、学術調査チームの拠点の一つがある。
中型飛空艇を数艇そのまま使用した調査支部建物群の外れ、ジャングルを背にした海の間際に、ぐるりをフェンスに囲まれた100m四方ほどの海水プールがある。
アリスはプールの水面に波紋が煌きながら広がってゆく様を眺めながら
「頼まれたくなんかないわよ」
と小さな声で一人ごちた。
ゆらり、水面の光は尾を引いて移動する。
青い水の中に碧緑の鱗を持つフリンご執心の『人魚』が一匹、太陽の日差しに真珠色の反射を見せつけながらゆったりと泳いでいた。
……フリン、人魚が好き……ですって?
フェンスに寄りかかり、アリスはぼんやりと人魚の姿を目で追った。
確かに、人魚は美しい。
銀の鬣にしなやかな姿態。
「金髪の王子と宝石みたいな人魚……か。絵みたいな組み合わせだわね」
思わずアリスの口から独り言の呟きがこぼれる。
ザンと飛沫が上がり、人魚は水面を跳ねキラキラした輝きを残して、再び水中に消える。
「でも───所詮、相手は魚」
不意に、アリスの独り言に揶揄する口調で男の声が応じた。
いつの間にか彼女の寄りかかるフェンス越しの背後に、背の高い男が一人笑みを浮かべて立っている。
「クロウ博士……」
誰もいないものと思っての独り言を聞かれ、アリスの頬に羞恥の朱がのぼる。
現れたのは彼女と同じ大学の『エリート』仲間であり、アリスが記録を塗り替えるまでは『博士号取得最年少記録』保持者でもあった人物である。
「やあ、こんにちは」
濃緑のシャツにオフホワイトのチノパン姿。
そんなラフな格好をしている癖にどこかノーブルな雰囲気を漂わすこのクロウと言う人間を、アリスは苦手にしている。
フリンが直接師事している植物学の教授なのだが、いつもアリスやフリンに対して必要以上に絡んでいるような気がしてならないのだ。
今回の調査チームにも本来ならフリンのような一般学生などの出る幕はなかったにもかかわらず、クロウは夏休み中のアルバイト秘書として強引に彼をチームに引き込み、こき使っている。
多分、今現在もクロウの指示によってフリンはどこかを走り回っている事だろう。
クロウグル・クライフフォード・クレイグ・クレディック・グ・クーロウなどと言う冗談のように長ったらしく覚えにくい名前も、殆ど白に見える白金色の今時あり得ないふざけた長髪も、鮮やかな翡翠色の目に人を小ばかにしたような光を浮かべている辺りも、アリスにとって一々が癇に障った。
なべて人当たりの良いアリスではあったが、彼に対してだけは子供っぽいと思いつつも敵愾心を隠す気持ちにならない。
また、実際敵愾心を持たれるような事をこの男はやってくれるのだから仕方が無い。
「……あんたね、フリンを私にけしかけたのは」
恨みがましくねめつけるアリスの視線を涼しい笑顔でかわし、クロウはフェンスに両腕を重ね、その上に顎を乗せた。
「何の事です? 私はただアリスは星団のトップブレインの一人で人望も厚いし、しかも権力者の娘だし、多少の無理はきくかも……とアドバイスしただけですよ」
充分な、しかもこれ以上ないくらい分かりやすい唆しをフリンに対して行いながら、この悪びれない態度。
それにまんまと乗せられるフリンもフリンなのだが……。
「あんた……本当に、やなヤツね」
そう言う他に言葉が出ないではないか。
「私が嫌なヤツなのは、彼に人魚をねだらせたからですか?」
サラサラと顔に落ちかかる髪を掻きあげ、クロウはアリスの大きな黒い瞳を興味深気に覗き込み、彼女の口から出る次の言葉を待った。
考えるまでも無い様子で
「そうよ」
……と、あっさり応えられた言葉に、一瞬クロウの碧緑の目が見張られる。
「ふ~ん。随分とお義兄さんに対しては過保護なんですね」
かすかな棘を含んだクロウの声色や、微妙に眉間に皺の寄った表情になど頓着せず、アリスは足元にあった小石を一つつかみ上げ、水面をめがけてサイドスローで投げ込んだ。
「あなたがフリンを助手として連れて来たんだもの…ちゃんとしてくれなきゃ困るわ」
石は低い弾道で飛び、小さな飛沫を上げて水中に没する。
「あんな……肺呼吸も出来ない魚類なんかに心酔させて」
日差しに波紋がキラキラと輝いた。
「……水切りならもっと小さい石を使うといいですよ」
すかさずの助言に大きなお世話とアリスが振り向きざまに小さく睨むのを一つ肩を竦めることでかわし、クロウは小首を傾げて青い水の中を透かし見た。
「……そう……鰓呼吸ですか? じゃあ本当に魚類なんだ……」
シミジミした呟きに
「知らなかったの??」
と、驚いて目を見張るアリス。
クロウはだらしなく金網に凭れかかったまま苦笑いを浮かべた。
「専門分野外ですからね、普通は知らないでしょう? ……こんな辺境の生物に資料なんか殆どないんだから。もちろんフリンだって知ってはいないでしょうし……」
前のめりの姿勢になったせいで、また髪が白い額に落ちかかる。
クロウは白金の簾の中からアリスの顔を覗き込んだ。
「言ったらどうですか? 人魚は魚だから、あきらめろって」
「『あきらめろ』……? やめてよ、まるでフリンが人魚に恋でもしているように聞こえるじゃないの」
アリスの背後で人魚が泳ぐ気配がする。
汚らわしいモノを見る目線を彼女は一瞬だけ人魚へと向けた。
宝石のように美しい『魚』……。
『恋』ですって?
相手は所詮魚類だ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
アリスの胸がムカムカと苛立ちに焦げた。
「……恋でしょう。フリンがその人魚につけた名前をキミは知っていますか?」
淡々と言いながらひたと当てられたクロウの視線が、彼女には酷く煩わしく感じられた。
「『ウンディーネ』……水の精。美しい名だ」
パシャンと跳ねる人魚をアリスの黒髪越しに見つつ、美しいなどと全く思っていない声音でクロウは呟いた。
「下種には過ぎた名よ」
平静を取り繕った筈の自分の声が、必要以上にとがった響きを持つことにアリスの不愉快さが募る。
「この宇宙には、何万種と人間に擬態する生物がいるわ。人魚なんかより美しい……より人間に近い生物だってたくさんいる。なのに下等生物に心を奪われなんて言うなら、フリンは本当の馬鹿よ。……私には……理解出来ない」
フリンはいつだってアリスにとって異質な生物のように感じられる。
心の底から単純で、年上のクセに微塵の疑いも持たない子犬のように、無邪気に彼女に懐いてくるフリン。
初めて引き合わされた時には大きな花束をアリスに手渡し、笑顔で顔をくしゃくしゃに崩しながら、一人っ子だった自分に妹が出来る事を「嬉しい」と喜んだ。
それまでアリスの周囲は、彼女を利用しようとする人間に溢れていた。
彼女の父の持つ権力、彼女の頭脳に阿る大人達。
アリスの持つ有形無形の財に嫉妬し、陰で足を引っ張る人々。
幼い頃は心無い人々の存在に傷ついたこともあるが、今はそんな人間たちのお陰で人を見る目がついたと言う自負もある。
フリンの言葉は社交辞令ではなく、心底自分の母の再婚と家族が増える事とを喜んでいた。
ただ彼女には理解出来ないのだ。
一体、何が嬉しいと言うのか。
確かに長年やもめ暮らしをして来た父に、人生のパートナーが出来るのは喜ばしい。
義母となったリリア・コーネルは何年もの間アリスの父の秘書をして来た人間で、四十歳を過ぎて今なお、花のように美しく、人格的にも問題のない人物だと思う。
この再婚話は実質的に家から自立している自分の生活に対して大きな影響を与えることはないだろう……と、そんな計算を経た後、容認したところが彼女にはあった。
アリスにとって新しい家族との初対面はただ儀礼的なものであり、面倒といえば面倒な儀式と言うのが正直な気持ちだったのだが。
自分と言う義理の妹に対するフリンの思わぬ歓迎ぶりに面食らいつつも、彼の真っ直ぐな喜び方を、アリスは新鮮に感じた。
もちろん、それに対して理解も共感も、出来はしないのだが……。
「……そう言えば、あなたはなぜ私達に絡むの? わからない人ね」
物思いを中断しハタと見上げた先で、クロウは片唇の端をきゅっと吊り上げて笑って見せた。
「……好きな人にはつい意地悪をしてしまうんですよね。私は」
「まあ……」
この告白にアリスは心中の驚きを隠せず、大きく黒瞳を見張った。
「あんた……フリンの事が…好きなのね……。でも、彼はたぶんストレートよ……?」
気の毒そうに喉の奥から押し出したアリスのうめきを聞いて、クロウは微笑みを凍ったように唇に貼り付けたまま、眉を歪めた。
「いや……私も、ストレートですけど……」
「ええっ!?」
「……」
先刻よりも更に大きな驚きのリアクションを見せるアリスに、クロウは情けなさそうに眉根を寄せている。
「もしかして……私は……皆さんにそういう嗜好だと……思われていましたか」
「ええと……それは……」
何かフォローをと思いつつ、上手い言葉を捜しあぐねるアリス。
その姿を見て、クロウは日頃自身が感じていた疑問の答えを見たように思った。
「……なるほど……どおりで女子学生に不人気なはずですね……」
深い嘆息。
長身で眉目秀麗頭脳明晰。20代半ばと言う年齢的も女子学生に人気が無い方が不自然なクロウではあったが、どうしてだか、その手のモーションを受ける事は非常に稀である。
その筋の嗜好があると信じられているのなら、女子生徒に不人気だと言うのは納得が行くのだが……。
「でも……男性にも……もてていないような気がするのですが……」
性的嗜好に対してリベラル化が進んでいる時代柄。しかし何故か同性にも受けが悪いようだが、それは果たして気のせいか。
小首を傾げるクロウに、それは、『彼が人の目に重度のナルシストとして映るせいではないか』とも言い難く、アリスは心の中に苦笑を浮かべた。
「アリス。キミはフリンの事が好き……なんですか?」
不意打ちの質問に、一瞬だけ、アリスは動揺を覚える。
「……好きよ。当然じゃない『義兄』だもの」
心の揺れを建て直しての答えに、自分の顔の筋肉はなんの影響を受けていない事をアリスは内心安堵していた。
クロウは更に質問を重ねる。
「キミが彼の『ウンディーネ』になりたいのかと、聞いているんですけどね」
数瞬の沈黙。
質問が真っ直ぐすぎて、腹芸など必要な場面でない事を知った。
「……なんで、そんな質問にあたしが答えなきゃなんないのよ」
出方によっては容赦しない……と語る瞳を向けられても、クロウは
「私には聞く権利があるんですよ。なにしろアリスの事が、好きですからね」
と、惚けた台詞を吐いてシレッとしている。
子供である自分相手に、いい大人であるクロウが嫌がらせとしか思われないこのシュチュエーション。
……本気で相手にしても仕方ない……と、今まで力の入っていた彼女の肩から力が抜けた。
「またそういうアヤシイことを……」
溜息とともに呟きながら、己の心の中を探り見る。
「でも、どうかしら」
プールをぐるりと囲む金網に凭れて、ゆらゆらと揺れる水面を見るとも無しに眺めつつ、先刻目にしたフリンの横顔を思い出した。
日々、アルバイト秘書として忙しく働かされているフリンではあるが、ほんの少しの暇にでも彼はこのプールサイドにやってくる。
「美しいこの人魚を、僕はどうしても連れて帰りたいんだ」
と、語った熱い口調。
思いつめた青い瞳の色を思い出した。
フリンの目は空の色をしている……。
「わからないわね」
アリスは足元に出来た影に視線を落とした。
黒々と、強い日差しを受けるほどに暗色をなす自分の影。
フリンの屈託の無さは愚かで、眩しすぎる。
それは直視できない太陽にも似て、アリスはま眩い太陽の光に照らし出された黒い影に自分を重ねた。
胸が痛むのはなぜだろう……?
「そう言えば、アリスは知っていますか?」
すぐ隣に凭れかかっていたクロウが身体を乗り出し、アリスの顔を覗き込んできた。
「王子と人魚の恋は、地球世紀の昔から悲恋に終わる事になっているんですよ」
その口元には軽く笑みが浮かんでいるが、長い睫に縁取られた緑色の目からは感情が読み取り難い。
本当にいつだってこのクロウと言う男は何を考えているのかわからない。
でも、別にかまわないようにも思う。
いつも心の中をかき回すような事ばかり言われはするが、少なくともクロウといて肩が凝るような事は無いし、フリンといる時のような正体不明の苛立ちを覚える事もないのだから。
「そんな事、知っているわ」
勢いをつけてフェンスから背中を離すと、ちょうど目の前の水面を破って人魚が宙に身体を躍らせるのが目に入った。
逆光で黒いシルエットとなった人魚の身体を、水面からちぎれ飛んだ水しぶきがキラキラと宝石のように飾っている。
ザン……と、音をたてて着水し、光の尾を引いた残像が青い塩水の中に消えていった。
とてもとても美しい『ウンディーネ』。
……けれども人魚は所詮……魚。
世に伝わる民話や伝説では、異種婚姻憚の殆どにおいて、結末は悲劇的である事を彼女もまた知っていた。
無邪気さを王冠のように頭上に戴いた王子と、宝石のような人魚の『恋』もきっと、また然り。
手にしたノート形の端末のリストに新しい名を入力する事無く、アリスは人魚の泳ぐ水槽を後にして自分の仕事へと戻っていく。
青い水の中に、人魚はゆらりゆらりと光の尾を引いて泳ぐ。
美しい、『魚』。
ウンディーネ。
……やがては、この金色の王子と宝石の人魚姫の物語に運命の鉄槌が下されるだろう。
それが、太古の昔よりの定めなのだから。
そっとアリスは心に呟いた。




