五夜 旅の支度
「また指名してくださいね」
男が引きこもるようになってからは女が働いた。
〈遙〉は夜のアルバイトと奨学金で大学に通う女子大生。卒業後の夢は、女手ひとつで育ててくれた母親を海外旅行に連れて行くこと。森の小さな教会で結婚式を挙げること。
ちょび髭メタボの支配人が大真面目に考えた設定にはじめ笑いそうになったものの、小さい頃から世間知らずで子どもっぽいと言われ続けてきた童顔が思わぬ形で役に立った。溜め息だらけの暮らしも苦学生らしさに一役買った。
おっとり屋で聞き上手な〈遙〉は、会社と家庭の板挟みに疲れているおじさまがたからよくお呼びがかかった。若くて綺麗な女の子達がポンポン辞めていく中で来年三十になる自分が上手いことやっていけるのだから夜は不思議な世界だと毎日のようになにかしらの発見があった。
「お触りとか絶対ないし、アフターとかそういうのも禁止しているお店だから……手ぐらいは握られるだろうけど」
入店が決まってから報告した。
素麺を掴み損ねたぐらいで、あとは「そっか」と呟いたきり男はなにも言わなかった。こんなことは言いたくないが、男の躓きが都心のマンションを買う前で本当によかった。
不倫を持ちかけられたり、連絡先をしつこく訊かれたりとトラブルは日常茶飯事だったが、それでも――うたた寝をしていたら夜になっていたかのように――いつの間にか半年が経っていた。
あれは、雨上がりの夜だった。
茶髪の友人が「そのへんにしとけよ」と言うのにも耳を貸さず、彼は強いカクテルばかり頼んでいた。下膨れの顔がアルコールでますます膨れ上がり、目も潤み始めていた。酔い潰れたいだけの――あまり品がよいとは言えない――飲みかただった。ベテランのボーイと目が合う。めそめそしている男の子に水を勧めながら、女はさり気なく右耳を触った――まだ大丈夫。
そのまま酔い潰れたところで、新入りの女の子がベタベタとした声で言った。
「この人なにがあったの?」
「それそれ! 聞いてくださいよ」
茶髪の彼は〈遙〉に背を向けた。
片想いしていた文学少女に彼氏が出来たんだそうだ――よくある話だった。
「慰めてやろうと思ったら二軒目でこれっすよ? こういうとこなんだなぁ、こいつは。パチンコで大勝したからソープのひとつでも奢ってやろうかと――おっと。まだ九時だったね。美雪ちゃん、いまのは忘れてちょーだい。あはは!」
彼は、友人の失恋をダシに店の女の子を口説こうとしていた。肩に回している手が冗談っぽく胸に触れるのは時間の問題だろう。彼女も冗談で済ませそうな気がする。よくて罰金。今夜の売上がよくなかったら、ふたりとも夜の社会科コースへとご案内しなければならない。授業料は法外。
ふだんならボーイが来る前に優しく注意するところだが、この日は傷心の男の子につききりだった。彼の頭を膝に乗せて、目の前で乳繰り合うふたりを、女はただぼんやりと眺めていた。
「いいじゃんか。ほらむちゅー」
「もうやだぁ!」
間もなく、コツンコツン、と革靴の音が近づいて来た。
「――は? なに言ってんすか? 俺、なんもしてねーよ」
「え、え? 私、なにかまずいことしちゃいました?」
「ここでは他のお客様のご迷惑になりますから、場所を変えてゆっくり話し合いましょうか」
慇懃な物言いにも有無を言わせぬものがあった。
「どうか」
柔らかい微笑みにふたりとも青ざめていた。
「指導がなっていませんね」
そして、去り際の小言もしっかり忘れなかった。
ふたりがいなくなると、別のボーイがやって来た。
「おい、起きろ!」
こちらはいささか乱暴だった。従業員兼用心棒のボーイは、一向に起きない彼の腕を掴んで「立てや」と無理やり立たせた。
「遙ちゃん、なにもされなかった?」
「ええ、なんにも。酔ってたみたいだからちょっと膝枕をしてあげただけ」
「ならいいんだけどよ」
「心配してくれてありがと」
女が微笑むと、ボーイは「いやぁ」と短い襟足を掻いた。男の子がぐにゃっと脱力すると悪態をついた。「この、芋ガキ!」
彼が事務所まで引っ張られて行ったあと、さてどうしたものか、と女はテーブルいっぱいのグラスに溜め息をこぼした。
あれから十年。思えば色々なことがあった。
「――……今日は、なにを読んでるの?」
「よ……『夜の果てへの旅』です」
本当に、色々なことがあった。




