四夜 現実主義者
男は現実主義者となった。文学を捨て、仕事漬けの毎日。終電どころか会社に泊まることも珍しくなくなり、休日も――麻雀、ゴルフ、アルコール――つまらない接待で潰れるようになった。
『男はそんなものだ』
父親は娘の相談を笑った。『むしろ安心したよ。ようやくお前を任せられそうだ』
女の心配をよそに男は出世していった。「いまどきの若いもんにしちゃ珍しい」鬼気迫る働きぶりに上司の覚えもめでたかった。
「社会不適合者」と笑われていたあのお坊ちゃん顔もいまやすっかり精悍になった。「あとは日焼けサロンだな」
ただの冗談に女は本気で怒った。
本社勤務が決まり、男は女にプロポーズした。夜景の見えるレストランで、指輪は給料三ヶ月分。一語も間違えることなく――愛の言葉はどこかプレゼンめいていた。
「新婚旅行はどこに行きたい?」
伊豆、と言いかけて止めた。「……あなたはどこがいい?」
「香港とかどう?」
「いいと思う」
「まぁ、しばらくはそんな暇もないだろうけどね」
いくらするのか分からない料理が次々と運ばれてくる。女はふと学生時代によく通った喫茶店の脂っこい卵サンドを恋しく思った。
男の話に相槌を打ちながら、ときどき窓の外を見た。高層ビルの夜景。なにも知らなかった頃はあんなにも憧れていたのに、夜はただの夜でしかなく比喩のひとつも思いつかなかった。
男がワインのおかわりを頼んでいる。女は頬杖をつきながら、赤い横顔をぼんやりと眺めている。
私はこの人と結婚するんだ。
ひと月経っても都会の暮らしには慣れず、専業主婦になったらなったで不思議とまた働きたくなった。とりあえずは子どもを作る予定もなかったので、ある日、相談してみた。
「事務のパートとかどう?」
すると、革靴を磨いていた男の手が止まった。
「ねぇ?」
後悔が胸にじわじわと広がり始めたとき、男はちらっとだけ振り向いた。「いまの稼ぎじゃ不満かい?」
それからまた靴を磨き始めた。
「……ちょっと出かけてくる」
「どこに?」
「ただの散歩よ」
「こんな時間に?」
「こっちに来てからずっと運動不足だもの」
玄関のドアが乱暴に閉まると、男は舌打ちした。
女は夜の公園で泣いた。
第二の躓きはふたりの人生を大きく変えた。
きっかけは些細なものだった。あるとき、上司が自分の失敗を男に被せようとした。評判のよくない上司だった。失敗も微々たるもので、甘んじて受けたところで男の出世にはまったく影響しなかっただろう。
「真面目すぎるのも考えものだよな。いつまでやってんだか」
トイレで陰口を言っていたのは、自宅に招いたこともある同僚だった。
睡眠薬の量が増え、ある日、とうとう社用車で事故を起こしてしまった。電柱に頭から突っ込み――幸い怪我人は出ず、男も軽い鞭打ちで済んだが――何百万とする車をスクラップにしたことで自らにとどめを刺した。
緊張の糸がぷっつりと切れ、ビルから蹴飛ばされた。
また抜け殻だけが残り、
「どこか旅行にでも行こうか」
男はいつかのように言った。
「玉川上水なんてどう?」
女は相手がどんな反応を示すかじっと窺ったが、男は阿呆のように口を開けているばかりで最後までタチの悪い冗談に気づかなかった。
「おやすみ」
疲れた笑みを浮かべた男が――いまはもう別々の――寝室に消えると、女はひとり冷たい居間に残された。




