第三章⑬
雪が降り積もる錦景市。
丈旗ケンは錦景女子前のバス停に一人座っていた。
バス停に屋根はない。黒いベンチと外灯があるだけだ。丈旗の肩には雪が積っていた。振り払えばいいのだが、そもそもバスに乗って帰ればいいのだが、丈旗は錦景女子の夜の八時のバスを見送ったばかりだ。
丈旗は愛を持て余していた。
ミヤビへの強い愛だ。
不安定で、ミヤビが認可をくれれば、一瞬で彼女に倒れ込むことが出来るほどの愛だ。
丈旗はミヤビが好きだ。ミヤビに痺れて以来、ずっと好きだ。ずっとミヤビへの気持ちは熱い。
丈旗は大きくくしゃみをした。
丈旗は額を触った。ミヤビに額を触られたいな。「……熱いな」
額は熱かった。熱っぽい。風邪を引いたようだ。本当に、最低のクリスマス・イブだ。
ミヤビと出会って初めてのクリスマス・イブだから、とても優しくしようと思っていたんだ。
一緒にいたかった。
同じ空気の中にいたかった。
それなのにミヤビは隣にいない。
隣にいて欲しかったのに、いない。
寂しい。
パーティをして、今夜は凄く優しくしようと思っていたのにミヤビは丈旗のことを裏切った。
とても残念だ。残念どころじゃない。とても遺憾ってやつだ。
まあ、ミヤビが丈旗に優しくないのはいつものことで、優しかったら熱でもあるんじゃないかってきっと疑ってしまうだろうし、嘘を付かれるのも慣れているけれど。
しかしこのミヤビへの気持ちは。
優しくしようと思っていた気持ちは。
一体どうすればいい?
なあ、ミヤビ。
俺はお前への気持ちをどうすればいいんだ?
「きゃあ!」
突然聞こえた悲鳴に丈旗は立ち上がり、周囲を見回した。
すでに閉ざされた錦景女子の正門の前に女子が倒れ込んでいた。
正門を向こう側からよじ登り、こちらに降りようとしたときに雪で滑ってバランスを崩して倒れ込んだ、というところだろうか。
「いたた」女子はお尻を手で押さえていた。どうやらお尻から落下したようだ。
丈旗は彼女に優しくしてあげようと思った。ミヤビへの優しい気持ちはこのままだと熱になってしまいそうだった。彼女に優しくしてあげれば、その熱も収まるだろう。丈旗がそんな風に考えたのはきっと熱のせいだ。
「大丈夫ですか?」丈旗は彼女の横に跪き手を差し伸べた。
「え、あ、はい、」女子は丈旗の登場に少し驚きながらも、差し出した手を掴んだ。「あの、えっと、大丈夫です」
「怪我は?」
「……」女子は返事をせずに、熱っぽい目で丈旗を見つめていた。
丈旗は心配になった。正門は周囲の塀に比べれば低いけれど、結構な高さがある。骨が折れていてもおかしくない高さだ。「あの、本当に大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です、」女子は上ずった声で返事をして、丈旗の手をぎゅっと掴んで、力を入れて立ち上がって笑顔を作る。「大丈夫です、心配いりません」
「無理しないで下さいよ、念のため病院に行った方がいいかもしれません」
「本当に、」女子は左手で髪型を整えながら言った。右手は丈旗の手を強く握っている。「大丈夫ですから」
「そうですか、それなら僕はこれで、」丈旗は手を離そうとしたが、彼女は手を離さない。「あの、手、離してくれません?」
「ああ、ごめんなさい、」彼女は慌てて手を離した。「ごめんなさい」
「じゃあ、僕は、これで」丈旗は手を持ち上げて言った。見知らぬ女子だが、彼女に優しくしたことで最低の憂鬱からは脱出することが出来た。次のバスが来るのは錦景女子の夜の九時だ。だからこのまま歩いて帰ろうと思った。
「ま、待って下さいっ!」
丈旗の背中に女子は叫んだ。
「え?」丈旗は振り返る。「どうしました、やっぱり痛みます?」
「ど、どうして正門から落ちてきたのか、聞かないんですか?」
「えっと、」丈旗は女子がどうしてそんなことを言うのか、理解不能意味不明だったけれど、まだ丈旗には優しい気持ちが残っているから彼女に聞いた。「どうして正門から落ちて来たんですか?」
「逃げていたんです、」女子は丈旗の前方、近いところに立ちまっすぐに見つめてくる。「私、逃げていたんです」
「は?」丈旗は口が半開きになった。「逃げていた?」
「はい、」女子は大きく頷く。「逃げていたんです」
「何から?」
「私を追いかける女子たちからです」
「どうして女子たちから追いかけられているんです?」
「あの、私、軽音楽部の部長なんですけど、その、今夜のパーティで演奏する予定だったんですけど、それが嫌で、逃げたんです、そしたら女の子たちは私のことを必死に捕まえようとして」
「えっと、どうして嫌なんですか? せっかくのステージじゃないですか」
「えっと、その、恥ずかしくて」
「恥ずかしいんですか?」丈旗は首を捻りながら質問する。「軽音楽部の部長さんなのにステージで演奏するのが恥ずかしいんですか?」
その質問に女子は眼の色を変えた。
眼の色が紅く染まったように見えたのは、丈旗の気のせいだろう。
熱のせいだろう。
「いいえ、」女子は首を横に振って声色も変えて言った。「いいえ、恥ずかしくなんてない、恥ずかしいわけがないじゃありませんかっ、私は軽音楽部部長、萱原トウカですよ!」
「あははっ、」丈旗は笑った。変な女子だと思った。「そうですよね」
「来なさいっ、」トウカは丈旗の手を握って強く引っ張る。「あなたに私のロックンロールを見せてあげるわっ!」
彼女は長い髪の毛を払った。
それも紅く煌めいたように見えた。
それもきっと全部。
熱のせい。




