外伝第2話 ;黒曜の谷の死闘
外伝第2話「黒曜の谷の死闘」をお届けします!
本編の直前、ロイが魔王討伐のために赴いた最終決戦の裏側。激闘の果てに魔王を打ち破ったロイの視点から、いかにしてエンペラー将軍の呪い(精神乗っ取り)が忍び寄ったのかを描く緊迫の回想録です。
それでは、外伝第2話のスタートです。
全身を駆け巡る激しい痛みが、現実の感覚を麻痺させていた。
「黒曜の谷」の最奥。常闇に包まれた魔王の間は、血と焦げた硫黄の匂いに満ち満ちている。石畳のあちこちに亀裂が走り、崩れ落ちた天井の隙間からは、かろうじて冷たい外の夜風が吹き抜けていた。
――ハァ、ハァ、ハァ……。
ロイは荒い息を吐き出しながら、両手でしっかりと聖剣の柄を握りしめていた。
その足元には、かつて世界を絶望の淵に叩き落とした「魔王」の巨体が、ぐったりと倒れ伏している。漆黒の鎧は砕け散り、その身体から立ち上る魔力の奔流は急速に霧散しつつあった。
勝った。
世界を救うための戦いが、いま終わったのだ。
(ミリー……約束を、果たしたよ)
脳裏に浮かんだのは、王都の庭園で交わしたあの日の笑顔だった。
遠い遠い旅路の果てで、幾多の仲間が傷つき、倒れていった戦場の重圧。そのすべてを耐え抜いてここまでたどり着けたのは、ただ「彼女の待つ場所に帰る」という強い意志だけが理由だった。
ロイは緊張の糸が切れたようにその場に膝をつき、聖剣を杖代わりにして身体を支えた。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、視界がわずかに揺らぐ。極限の疲労と安堵が入り交じり、精神の防壁が――人生で最も無防備なほどに緩みきっていた。
その瞬間だった。
『……見事だな、人間の英雄よ』
背筋が凍るような、おぞましい冷気が空間の裂け目から這い出してきた。
それは音ではなく、直接脳内に響く不気味な精神の波動だった。
「……っ!?」
ロイが驚いて振り返ったときには、すでに遅かった。
倒れ伏した魔王の消滅しかけていた残滓から、どす黒く禍々しい紫色の煙のような塊が、猛烈な勢いで跳ね起きたのだ。
それは実体のない呪詛の集合体――古代の邪悪な意志、「エンペラー将軍」の魂だった。
『我が肉体は滅びようとも、この強大なる精神は滅びぬ。そして、この絶妙な隙――! お前のその強靭な肉体と高い魔力こそ、我が新たな器にふさわしい!』
「ぐあ……っ!?」
叫ぶ間もなかった。
紫色の邪悪な塊は、ロイの開いた精神の隙間に、矢の如く突き刺さってきた。
頭が割れるような激痛が走る。
それは肉体的な痛みではなく、人間の魂そのものを根底から引き裂き、塗りつぶそうとするおぞましい侵略だった。ロイの視界が一瞬にして真紅から不気味な紫色へと染まっていく。
(なんだ……これは……!? 身体が、勝手に……!)
『抵抗するな。お前の意識は間もなく消え去り、私がこの世界を再び我が物とするための道具となるのだ』
将軍の冷酷な声が、ロイの意識の深淵で高笑いする。
全身の血管が逆流するような灼熱感と、凍てつくような冷気が交互に押し寄せ、ロイの自我を激しく揺さぶり続けた。
(いやだ……! 私は……ここで死ぬわけにはいかない! ミリーのところに、帰らなければならないんだ……!)
心の奥底で、必死に拒絶の声を上げる。
しかし、魔王を倒した直後の疲労しきった肉体と精神に、古代の邪悪な将軍の呪いはあまりにも重く、強大すぎた。ロイの碧眼の輝きがみるみるうちに押し潰され、その表面に禍々しい紫の光が不気味に浮かび上がっていく。
(ミリー……ごめん……。僕は……)
意識の糸がプツリと切れる寸前、ロイは自らの胸元にある小さなポケットにそっと手を伸ばした。
そこには、出発の朝にミリーから手渡された、小さな手作りの御守りが縫い込まれていた。その布地から伝わるわずかな温もりが、彼の最後の理性を辛うじて繋ぎ止める。
完全に肉体の主導権を奪われる暗闇の中、ロイの意識は一つの誓いを立てた。
――たとえこの身体が化け物に支配されようとも、私の魂だけは絶対に渡さない。いつか必ず、彼女を救うための刃を自分に向けるその日まで。
紫の闇が完全に意識を飲み込み、ロイの記憶は深く、冷たい底へと沈んでいった。
外伝第2話「黒曜の谷の死闘」をお読みいただき、ありがとうございました!
魔王討伐の瞬間にロイを襲った悲劇の真相、そして彼が暗闇のなかで必死に保とうとした誓いが描かれました。
次回、外伝第3話「氷の城壁と孤独な王女」では、ロイが凱旋してからの数日間、城内でミリーが抱えていた恐怖と、使用人たちの視点から見た「変貌した王子」の異様さに迫ります。
ぜひお楽しみに!




