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第32話 その親善、物騒につき

ガスパール州の豪奢な馬車は、土煙を上げて街道を疾走していた。


御者台で手綱を握るシャドウと、周囲を警戒するノワール。そして馬車の中には、猿ぐつわを噛まされ簀巻きにされた『要人(人質)』が転がされている。


逃走は順調かに見えた——はずだった。


「……隠れろ! 今すぐ!」


ノワールの声が、普段の冷静さを失って鋭く響いた。


その刹那、シャドウの背筋を冷たい戦慄が走る。地響きのような無数の蹄の音が、遠くから急速に迫っていた。重装備の金属音が風に乗って木々を震わせ、まるで大地そのものが敵意を孕んでいるかのようだ。


「クソッ……!」


シャドウは手綱を力任せに引き、馬車を街道から強引に逸らした。車輪が土を抉り、枝葉を折る乾いた音が響く。


森の奥、鬱蒼とした木陰に滑り込むやいなや、二人は馬車を止め、息を殺した。


人質の体がわずかに震え、喉の奥でくぐもった呻きが漏れそうになる。シャドウは素早くその口を押さえ、ナイフの刃を首筋に軽く当てた。


「一音でも立てたら、即死だぞ……」


心臓の鼓動が耳に響くほどの静寂。

やがて、土煙を巻き上げながら完全武装の集団が、猛スピードで街道を駆け抜けていった。


銀の甲冑が陽光を反射し、殺気立った眼光が一瞬、森の方向へ向けられる。


一人の騎兵が馬をわずかに速度を落とし、木々の奥を睨んだ——。

シャドウの指が人質の口をさらに強く塞ぐ。ノワールの手が剣の柄を握り締め、汗が額を伝う。


数秒が永遠のように感じられた。


騎兵は再び速度を上げ、集団と共に国境の街・ヴァルデン方面へと消えていった。

蹄の音が完全に遠ざかるまで、二人は微動だにしなかった。


「……マズイな。勘付かれたか?」


「いや、それは無いだろう。だが、このままヴァルデンに向かうと国境付近でかち合う恐れがあるな」


ノワールは冷静に状況を分析し、険しい顔で首を振った。


「ならどうする?」


シャドウの問いに、ノワールは迷うことなく背後の馬車を振り返った。


「馬車は乗り捨ててオデール方面に向かおう。狭いけど馬なら越えられる道がある」


「チッ……身軽になるしかないか。おい、起きろ」


シャドウは馬車の扉を開け、涙目で震える人質の首根っこを容赦なく掴み上げた。


「こいつを置いていくわけにはいかないからな。極上の『通行手形』だ」


二人は素早く馬車から必要な物資だけを抜き取ると、繋がれていた馬を切り離した。


虚栄心の象徴であった豪奢な馬車を薄暗い森の奥に置き去りにし、シャドウとノワールはそれぞれ馬に跨る。


もちろん、シャドウとノワールの馬の鞍の前には、簀巻きにされた人質が荷物のように横向きに括り付けられていた。


「振り落とされて首の骨を折りたくなきゃ、大人しくしてろよ」


手綱を翻し、二人は武装集団の背中を避け、オデール領へ続く細道へと馬を駆った。


***


シャドウたちを追い越した武装集団は、川の東側のドミナリア連邦の砦に入場すると、すぐに使いを出し、アルテリウム側の開門を迫った。


アルテリウム王国とドミナリア連邦の国境にある砦(関所)では、一触即発の睨み合いが続いていた。


「開門しろ! 我々は連邦新政府より遣わされた『親善特使』であるぞ!」


苛立たしげに関所の門を叩くのは、使節団の代表――連邦が誇る『異端査察団』の団長、マクシム査察官であった。


純白の法衣の上に重装甲の鎧を着込んだその姿は、どう見ても親善を目的とした文官などではなく、これから戦場へ向かう従軍神官にしか見えない。


背後には、同じく完全武装した狂信的な僧兵たちが数百人も控えている。

関所の城壁の上から、ヴァルデン辺境伯が冷ややかな目で見下ろした。


「『親善特使』と名乗っておられるが、これほどの武装集団を無断で国内に通すわけにはいかん。王都の正式な入国許可が必要だ。現在、早馬を送って確認中である」


「何だと!? 我々は一刻も早くオデール領の……ゲフン、国境付近の調査に向かわねばならんのだ! このような足止め、重大な外交問題になるぞ!」


「こちらも規則ルールでしてな。お役所仕事で申し訳ないが、許可が下りるまで、せいぜいそこで野営でもして待たれるが良い」


マクシムが顔を真っ赤にして抗議するが、ヴァルデン辺境伯は『外交上の正論』という最も分厚い盾を構え、のらりくらりと彼らを国境に釘付けにした。


(ふん。我が領民の村を焼いた落とし前、きっちりとつけさせてやる。このままここで野ざらしにしてくれるわ)


辺境伯は、腹の底で煮えたぎる殺意を完璧なポーカーフェイスで隠し、王都からの『監視軍』が到着するまでの数週間を、この関所で強引に稼ぎ出した。


本日もお読みいただき、ありがとうございました!

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