第13話 果樹園の芳醇な香り、炸裂の予兆
風に乗って、ふわりと南国特有の甘く濃厚な香りが漂ってきた。
「……ふわぁ、甘い美味しそうな匂いがしますわね」
背後の街道に停まっていた特装馬車の扉がガチャリと開いた。
馬車の中でゆっくり休んでいたセシリアとアンナの二人が、目を擦りながら降りてくる。
「あら? カイト様や大佐殿たち、いつの間に外へ……?」
セシリアは寝ぼけ眼で周囲を見渡しながら、街道から緩やかな土手を降りて現場へと近づいてきた。
しかし、現場に近づくにつれて足取りが徐々に遅くなり、やがてピタリと止まった。
彼女の視線の先にあるもの。
泥だらけの屈強な男たちが、揃いも揃って頭に黄色い半球体の謎の鉢を被り、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら六歳児を神のように崇めている姿。
さらにその横で、王都のエリート軍人であるルドルフ大佐とコンラッド中尉が、魂の抜けたような顔で石像と化している。
あまりにもシュールで理解が追いつかない異常な空間に、セシリアはパチパチと数回瞬きをした後、完全に引きつった笑顔で言った。
「……な、何ですの? この黄色い集団は……。私、まだ馬車の中で変な夢を見ておりますの?」
「お嬢様、残念ながら現実のようです。それにしても……なんとも形容しがたい光景ですね」
アンナも普段の冷静さを失い、珍しく頬を引きつらせていた。
そんなドン引きしている二人に気づいたカイトは、満面の笑みで手を振った。
「あ! セシリアおねえちゃん、アンナおねえちゃん! おはよう!」
その無邪気な声が響いた直後、街の奥から白髪混じりの美丈夫――この地の領主であるオデール伯爵が、護衛と共に馬を飛ばして駆け込んできた。
「ウォルター! 軍の視察団が到着されたと急ぎ駆けつけたのだが……一体、これは何の騒ぎだ!?」
「閣下!」
ウォルターは即座に駆け寄り、跪いた。
「まずはご報告を。今回の軍の視察にフェルメールの若様が同行されており……我が領から研修に向かっていた南部衆が、親方たる若様の元に全て集まってきてしまったのです」
「おお、それは! 直接礼を言わねばならんな」
伯爵は顔を綻ばせた。
(高額な金貨百五十枚の研修料は取られたが、彼らが持ち帰った『粗朶』の技術は、我が領の治水においてそれ以上の確かな価値があったからな……)
だが、ウォルターの報告はそれだけでは終わらなかった。
未だに呆然と立ち尽くしている大佐たちを一瞥すると、伯爵に向かってさらに声を潜め、熱を帯びた口調で続ける。
「……それと閣下。若様が、あの『黒竜川』を根本から御する、途方もない計画を提案なされました。川を通す前に陸地に空堀を作りそこに橋を架け、その後、魔法によって山端を吹き飛ばし、川を真っ直ぐにするというのです」
「魔法で山を吹き飛ばす…? 川の形そのものを、真っ直ぐに……?」
報告を聞いた伯爵は、ウォルターが何を言っているのか即座に理解出来なかったが、目の前で明らかに呆けている軍人たちを見て、これは立ち話をして済む事態ではないと即座に察した。
伯爵は表情をサッと引き締め、素早く馬上から降りて大佐の前に進み出た。
「ルドルフ大佐殿。遠路はるばるのご視察、ご苦労様でございます。……すでに見分は終わられたようですが、どうも長旅でひどくお疲れのご様子。ここはひとつ、まずは我が屋敷へご案内いたしましょう」
まだ魂が半分抜けている大佐は、足元の泥のジオラマとカイトをチラリと見てから、重い口を開いた。
「……ああ。そう、だな。ここでは……話しきれん」
「フェルメールのカイト殿、遠路はるばるようこそ我がオデール領に。さぁカイト殿も屋敷に。王国の果樹園と謳われる我が領自慢の、極上の甘いフルーツを用意させております」
「まあっ!」
フルーツという単語に、セシリアとアンナの目がキラキラと輝いた。
***
場所は変わり、オデール伯爵邸の応接室。
テーブルに山と積まれた瑞々しいマンゴーやオレンジに、セシリアやアンナ(そしてカイト)が幸せそうに舌鼓を打つ中、大人たちによる極めて重苦しい会談が始まっていた。
テーブルの上に広げられた領地の広域地図。そこにウォルターが指でなぞった『真っ直ぐな線』を見つめ、オデール伯爵はゆっくりと立ち上がった。
川を真っ直ぐにすれば、三方を水に囲まれた『天然の堀』という軍事的な利点は消滅する。彼自身が軍を誘致するために国へ売り込んだ最大のセールスポイントが失われるのだ。だが、それ以上に――。
(あの首の部分をぶち抜いて真っ直ぐな水路を作れば、我々を長年苦しめてきた黒竜川の氾濫という根源的な治水問題が、完全に解決する……!)
伯爵は震える視線を、顔中マンゴーの果汁だらけにしてご機嫌に笑っている六歳児に向けた。
(なんという規格外だ。このフェルメールの嫡男は……!)
伯爵はテーブルに両手をつき、大佐に向かって深く頭を下げた。
「大佐殿! 天然の堀という利点は失われますが、必要とあらば我が領の総力と資金を注ぎ込んでも構いません。人足が足りなければ全領地からかき集めます! ……どうか、ぜひともこの大工事を完遂させて頂きたい!」
領民の命を守るためなら、軍の誘致(基地化)のセールスポイントなど二の次でいい。伯爵の熱を帯びた言葉が、応接室に力強く響き渡る。
しかし、ルドルフ大佐は頭を抱えるようにして深く息を吐いた。
「伯爵の並々ならぬ覚悟は伝わった。……だが、私にも判断がつかんのだ」
大佐はテーブルに広げた広域地図を睨みつけた。
「我が軍の至上命題は『最速で強固な兵站ルートを確立すること』だ。だが、第一候補は川にたどり着くまでのアクセスに難(急勾配)があり、第二候補のバートン領は構造欠陥で論外。そして最後の頼みの綱だったこの第三候補地も、あの激しい蛇行による洗掘リスクを考えれば、通常の水中基礎工事では『何年かかるか分からない』という結論に達した」
つまり、カイトの提案を蹴ってしまえば、軍の架橋候補地は全滅。視察は完全に振り出しに戻ってしまう。
「だからこそ、この新工法に縋るしかないのだが……コンラッド中尉。貴官の率直な見解を聞きたい。通常の架橋工事と、今回の『陸上施工からの魔法爆破』……一体どちらが最速なのだ?」
手元の図面に素早く計算式を書き込みながら、中尉はバインダーを強く握りしめ、目を鋭く光らせた。
「……大佐。結論から申し上げますと、圧倒的に『後者(カイトの案)』です」
「ふむ、続けてくれ」
「黒竜川のような激流の中で基礎を打つには、水流を逸らす仮設工事だけで数ヶ月、そこから基礎打ちに数ヶ月。しかも秋の大嵐が来れば、すべてが水の泡になるリスクが常につきまといます」
コンラッドは、カイトが描いた真っ直ぐな線の図面を指差した。
「しかし、カイト君の仰る『陸上施工』ならば、水流との戦いは一切ありません。空堀の上に橋を作るだけなら、我が工兵隊の技術をもってすれば、『一ヶ月』で完璧な橋を組み上げられます」
「一ヶ月だと……!?」
大佐が驚愕の声を上げる。
通常なら年単位の難工事が、水がないというだけでそこまで短縮されるのだ。
「ええ。問題はその前、空掘を掘って新しい川を通す工程です。……もし、カイト君の言う通り『エクスプロージョン』によって岩盤を粉砕し、一気に吹き飛ばすことができるのなら……掘削工期すらも、大幅に短縮が見込めます」
応接室が、シンと静まり返った。
従来の常識か、前代未聞の非常識か、どちらが早く、確実かなど、比べるまでもなかった。
「……」
ルドルフ大佐は、口の周りをオレンジ色に染めて無邪気に果物を頬張る六歳児を見つめた。
「……大佐殿」
オデール伯爵が、再び熱の入った声で念を押す。
「分かった……。軍としても、この前代未聞の工法は無視できん」
大佐はついに腹を括り、力強く宣言した。
「まずは『魔法による山体爆破』が可能かどうか、早急に実証実験の準備に入る!」
かくして、利害が完全に一致した大人たちは、六歳児が描いた「ドカーンとやる計画」へと、全速力で突き進むことになったのである。
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