第9話 バートン子爵の涙とダム化した橋の真実
翌朝。
視界が開けた黒竜川の旧架橋ポイント。
そこには、川幅いっぱいにゆったりと流れる水面と、川岸に痛々しく残る決壊した堤防、そして川の中に点々と残る折れた橋脚の跡があった。
「おおおお! ルドルフ大佐殿ォォォ! お待ちしておりました!」
泥水を跳ね上げながら慌ただしい足音が近づいてくる。
擦り切れた古い貴族服を着た初老の男――バートン子爵が、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら駆け込んできた。
かつては恰幅の良かったであろう体は、心労からかげっそりと痩せ細り、ダボダボの服が悲しいほどに余っていた。それだけで、彼が橋を失ってから味わった絶望と苦労が痛いほど伝わってくる。
「何故、宿場町に寄ってくださらなかったのですか! 寂れてはおりますが、大佐殿方をお迎えする準備はしておりましたのに! それとご覧ください、この穏やかな流れ!」
朝から気合十分のバートン子爵が、ズボンをずり上げながら両手を広げて自慢げに川をアピールする。
「ここはかつて立派な橋が架かっていた由緒正しきルートなのです! 昨年の嵐という不運で流されてしまいましたが……平野部で足場も組みやすく、軍の工兵隊の皆様なら、すぐにでも以前のような立派な橋を再建できるはずです!」
「ふむ……」
ルドルフ大佐は腕を組み、静かに川を眺めている。コンラッド中尉も図面を広げて冷静に分析を始めていた。
そんな大人たちの足元で、カイトはトコトコと川岸ギリギリまで歩み寄ってしゃがみ込んだ。
(……なんじゃここは。アホか)
カイトは呆れて、ため息をついた。
(……堤防の高さに対して、橋の土台が明らかに低すぎる。昔に架けた橋をそのままにして、後から堤防だけをかさ上げした典型的な失敗パターンじゃな)
カイトはさらに目を細め、川底をじっくりと見つめた。
(しかも川底は削られやすい砂礫層……。やれやれ。こんな初歩的な欠陥を放置して、よく去年の嵐まで持ったもんじゃ。南部衆のところとは大違い……って待てよ……)
カイトはハッと息を呑み、堤防の切れ目から見える建物の壁に残る泥水の跡に視線を移した。
(そうか!このバートン領の東側の町が決壊し、大量の濁流を飲み込んだことで……ここが巨大な『遊水地』の役割を果たしたんじゃ。下流のオデール領はそのおかげで、去年の黒竜川の氾濫を免れたんじゃ……)
カイトは呆れと、同情と、深い感慨が入り混じった息をゆっくり吐いた。
(……なるほどな。あの南部衆が「奇跡の年」だと言っていた理由がこれか……。バートン領が身代わりになって、下流を守ったんじゃな……しかし、バートン子爵のオッサンには悪いが、ここは完全に『ハズレ』じゃ。検討する価値すらないわい)
カイトが内心で完全に見切りをつけた、まさにその時だった。
「――いかがですか、大佐殿! ぜひ我が領に再び橋を!」
期待に満ちた子爵の声を、大佐はピシャリと冷酷に切り捨てた。
「却下だ。コンラッド中尉、貴官の見立ては?」
「はい。川幅が広すぎるため、橋脚の数が膨大になります。しかも川底は砂礫層ですから、増水時の洗掘リスクが極めて高い。急ぎの兵站ルートとしては論外の候補地です」
「待っ……!? 大佐殿! コンラッド殿! なにゆえ即座にそのような……っ! 昨年の嵐は百年に一度の不運だったのです! それまでは何年も持っていた立派な橋で――」
絶望に顔を染めてすがりつこうとする子爵。
だが、その言葉を遮ったのは、足元でしゃがみ込んでいたカイトの声だった。
「あのね、おじちゃん。この橋がこわれたの、運がわるかったからじゃないよ」
「……な、なんだと小童?」
子爵だけでなく、ルドルフ大佐とコンラッド中尉もカイトに視線を落とした。
カイトは小さな指で、川岸に残る不自然にえぐれた堤防の跡と、石積みの橋脚を順番に指差した。
「土手より、橋の土台のほうがずっと低いところにあるでしょ? だから、お水がいっぱい来たときに、橋が『ふた』になっちゃったんだよ」
ピタリと、コンラッド中尉の動きが止まった。
カイトは石を拾い、地面に簡単な図を描きながら、説明を続ける。
「橋がお水のとおせんぼをしちゃったから、流れてきた木とかゴミが全部ここに集まって、大きな水たまりみたいになっちゃったの。それで、お水が『もう通れないよー!』って怒って、土手をバーンってこわしちゃったんだよ」
(……平野部の川で、橋の桁下が土手より低いなんてのは致命的な欠陥じゃ。橋そのものが巨大な『ダム』の役割を果たして、行き場を失った水が堤防を決壊させる。これは天災じゃない、人災じゃよ)
カイトの言葉を聞いたコンラッド中尉は、弾かれたように地形図と被害報告書、そして目の前の惨状を見比べた。
「……あっ!」
中尉が震える声で叫び、手にしたバインダーを強く握りしめた。
「た、大佐! カイト君の言う通りです! 堤防の決壊の仕方が不自然だと思っていましたが……この橋自体が水を堰き止め、耐えきれなくなった堤防を内部から破裂させたんです!」
「な……っ」
「もし同じ高さで橋を再建すれば、また必ず『ダム』になって決壊します! 堤防の高さを回復させて橋脚の高さを合わせるとなると、基礎から全面的にかさ上げしなければならない。工期も予算も、到底許容できるレベルではありません!」
(ほう、コンラッドの兄ちゃん、ワシのヒントですぐにそこまで計算したか。優秀じゃな)
カイトは内心でコンラッドを褒めながら、にへらと笑った。
だが、ルドルフ大佐は戦慄の入り混じった目でカイトを見下ろしていた。
工兵のエリートが図面と睨めっこして辿り着くような『崩落の真のメカニズム』と『構造的欠陥』を、この子供は現場をひと目見ただけで見抜いたというのか。
「つまり、ここに橋を架け直すのは……現実的ではない、ということだな」
大佐の声には、先ほどまでの義務的な響きとは違う、カイトの慧眼に対する明らかな『警戒と敬意』が混じっていた。
「そ、そんな……! お待ちを!もう一度再考を!」
絶望に膝から崩れ落ちるバートン子爵。
大佐は鋭い視線をカイトから子爵へ移し、冷徹に言い放った。
「本日の視察はここまでだ! これより我が部隊は、最後の候補地である『オデール伯爵領』へと向かう! 全軍、出発の準備を急げ!」
「はっ!」
号令と共に、軍の特装馬車が再び物々しい音を立てて動き始める。
「大佐殿ォォッ!! どうか慈悲を!!」
バートン子爵の悲痛な叫び声が虚しく平原に響き渡る中、カイトは特装馬車に乗り込んだ。
(……妥当な線じゃな。コンラッド中尉もなかなかの見立てじゃ)
カイトは窓枠に顎を乗せて遠ざかっていく決壊の跡を見つめた。
(さて。残る候補地は、オデール領か。あそこは粗朶道の技術を教えた縁もあるが……確か、川が大きく蛇行しとる天然の要害じゃったな。大佐殿たちが、その地形をどう評価するか、見物じゃわい)
かくして、カイトの片鱗を垣間見て空気が引き締まった大佐たちは、最後の目的地へ向けてさらに南へと舵を切った。
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