第45話 零命の精霊
場面はまた、少し戻る。
靭が自らの左腕を、琥珀の緋喰に与えようとしている。
「よし、やるよ!」
「ああ、思いっきりやってくれ」
「分かった!」
琥珀は目を瞑り、深呼吸をしてから目をかっぴらいた。
「緋喰!!」
心臓から飛び出した炎犬が、靭の左腕を丸ごと飲み込むように喰い千切る。血は出るが、噴き出すほどでない。靭は、左腕を炎犬に喰われたにも関わらず、深く息を吐いただけで、あとは平然としている。
それを信じられないような目で見ているのは、響だ。
「深海……痛くないの?」
「いや、滅茶苦茶痛い」
「……少しも顔に出ないのね」
「本日二回目だからな……まあ、慣れだ」
血は止まっている。すでに自己治癒力で出血を止めたようだ。
「ご馳走様!!!」
ボワ――琥珀が食事を終えたように手を合わせると、炎で創られたカチューシャや、マントとスカートの先端が勢いよく燃え上がった。色もオレンジから、輝くような緋色に変化している。
琥珀はたれ耳を器用にぱたぱたと浮かせながら、喜びと尊敬が交じり合っているような瞳で靭を見た。
「凄いね!! 靭隊長は、滅茶苦茶強いや!」
「分かるのか?」
「うん! 強い存在を食べると、炎の勢いと色が変わるんだって!!」
「そうなのか」
靭は左肩を抑えながら話を聞く。暴れまわらないだけで、痛いものは痛いらしい。その様子を見た琥珀がハッと目を開いてから、目を閉じる。そして、両手を合わせて祈るようなポーズを取った。
「炎雀!!」
琥珀の心臓からもう一度、炎が噴き出し、大きな炎の雀が創り出される。
炎雀は、中央で赤から黄色に移り変わるようなグラデーションの翼を広げた。すると、そこから光り輝く炎の粒が雪のように落ちていく。
炎の雪が靭に当たると、細かな傷から右腕の骨、断裂した筋肉、内臓が回復していくのが分かる。明らかに体が軽いからだ。違和感が一切ないのか、靭は立ち上がって、軽く体を動かす。
「痛くないな」
「凄いわね……痛みが引いてる」
「ふむ……なるほど」
皆が皆、痛みが引いているような反応を見せる。今まで以上に回復の効果が上がっているようだ。
「左腕、大丈夫??」
「ああ、痛みは無いから平気だ。ありがとうな」
「ううん、こちらこそ、ありがとうだよ!!」
靭と琥珀は互いに感謝を述べて笑顔を見せる。
そして、靭は片腕が無い状態で立ち上がった。
「ちょっと、何する気?」
「何って、戦うんだよ」
「無謀よ!!」
響からストップの声が掛かるが、靭は頬を掻いて困ったように笑う。
「無謀でもなんでもやらないといけない。戦況が良くなることはないし、もっと悪くなる。なら、今出ていかないと勝てるものも勝てない」
「……そうだけど」
「なら、やるしかない。ゼオンは俺たちを殺す気はまだないようだし、付け入る隙があるとすれば、そこだけだ」
「……分かってるけど」
響の顔色が青ざめる。理解はしていても、さきほど殺されかけた記憶がこびりついてしまったかのようだ。響に至っては、如月の能力で残酷な未来を視てしまった分、恐怖が上乗せされているように見える。
「未来はまだ、分からない」
靭の見立てでは、響は絶対に勝てないと思い込んでいる。
ただそれは、響だけの考えで、靭はそう思っていない。
ゼオンと直接拳を交えたか、そうではないかが、ここに来て差が生まれているようだ。
「やるだけやって、後悔しよう。やらない後悔より、やる後悔だ。まあ、よく聞く言葉だが、実際その通りだろ」
「……ええ」
靭は響だけでなく、全員に届くように言葉を投げかける。
「99.9%勝てなくても、0.01%に賭ければいい」
ギャンブルだ。けど、そんなことは、ゼオンと対峙した時から分かりきっていたことだ。
それでも、全員が立ち向かった。
靭にとっては、同じことをやればいいだけの話だ。
「絶対死ぬことはあっても、それ以外の絶対はほとんど存在しない。勝つか負けるかは、俺たちの行動で決まる。一つ言えるのは、行動しなければ絶対に負ける、ということだけだ」
行動しなければ、勝利を掴み取ることなんてできない。
根性論ではない。
これは、どんなことにも言える話だ。
「勝つために全力を尽くす。それ以外は、考えない」
負けたことを考えても始まらない。
なら、勝つことだけを考える。
最も難しいことではあるが、唯一の最善だから。
「それが、今すぐできる勝つための一手だ」
靭が言い切ると、吟時と琥珀が立ち上がり、靭の傍に立つ。
響は視線を下げる。
そして、顔を上げてもう一度、気合を入れ直す様に頬を叩いた。
「ふう……どうも駄目ね……ごめんなさいね」
「気にするな。誰でも落ち込むことはあるさ」
「ふふ、そうね……人間だし」
響が手を伸ばすと、靭は苦笑いしながら手を取った。
「さて、四人でどうするか考えよう」
靭がそう言って、全員を見た。
「五人で、大丈夫です」
「マモタ!! 起きて平気か!?」
涙を流しながら琥珀が守大の元へと駆け寄った。
立ち上がった守大の顔色は、全快している様子だ。ギュッと抱きつく琥珀に腕を回して、守大も愛おしそうな視線で彼女を見つめる。
「うん、琥珀ちゃんのおかげで、復活できたよ。ありがとうね」
「ふふん、どうしいたしまして! マモタも、守ってくれてありがとな!!」
「どういたしまして」
「守大さん、自分も。本当にありがとうございます」
「吟時くん、無事でよかったよ」
吟時と守大が、互いに硬く握手を躱す。
そして、守大は靭の目を見て、ハッキリと伝えた。
「靭さん、僕も戦えますから」
野暮なことは言うなよという視線。心配される
「ああ、頼りにしてる」
「はい」
「つうか、気絶してても動いてたから、十分頼ってたけどな」
「そうですか……安心しました」
気絶してもなお、仲間を守ることに執着している。守大もまた、この狂気の沙汰ではない世界で、狂気に染まることを選んだ。だからこそ、力を得て、こうして生き延びているのかもしれない。
ゼオンは、正攻法で勝てる相手じゃない。
その考えが、靭の脳裏によぎった。
「靭隊長、もうやる!?」
「行くなら覚悟はできています」
「僕も」
「私もよ」
「……ああ」
全員のやる気は十分だが、ゼオンはやる気だけあれば勝てる相手ではない。
とはいえ、響の能力底上げと能力低下の力に加えて、空気の振動を利用して、ゼオンを一瞬でも止めた力は正攻法のままでいい。
他の人間なら、倫理を捨てられれば、強力になる。
「もっと、狂うべきか……」
倫理観など捨て、勝つことだけ考えれば、見えてくる道筋もあるというもの。
自身が傷つくことで力を得て、血を吸収すると強化される妖刀を持つ吟時。
強者を喰らえば喰らうほど能力が飛躍的に上がる琥珀。
敵から受けた力を己の者に力に変える靭。
仲間のダメージを引き受ける守大。
靭の中で、着実にピースが揃い始める。
だが、それらを実行するには、どうしても必要不可欠な人がいた。
「……雫」
いまだに眠っている雫の存在だ。
「雫ちゃん大丈夫かな」
「心配だね」
「雫さんなら、大丈夫だとは思いますが……これからゼオンと戦うとなると心配ではあります」
琥珀、守大、吟時が各々、雫を心配する声が続く。
「心配なのもそうだけど……全てを捨てて勝利することだけを考えるなら、雫ちゃんは絶対に必要なピースよ」
ただ、響は靭の考えを読むように伝える。
「だよな……」
今やるのはハイリスクハイリターンではなく、ただの自殺行為だ。それをするなら絶対に止めるという響の覚悟を感じる。
先ほどとは違い、この方法では絶対に勝てないという圧だ。
「仕方ない。琥珀の回復を視野に考えてって……ん、なんだ、紫苑」
響に肩をつつかれて、靭は思わず響を見た。
「女神さまは、私たちに味方してるのかもねー」
響が微笑みながらそう言って、指さした。
「……ピースは……揃った……よね?」
ゆっくりと起き上がった雫が、いつもの表情が変わらない顔でそう言い放った。
「雫ちゃああああああん!」
「ふふ、おはよう、琥珀ちゃん」
ギュッと抱き合う琥珀と雫。雫は僅かに口角を上げながら琥珀を抱きしめて、靭を微笑むように見た。靭もまた、その微笑みを返す様に、雫に微笑む。
「みんな、待たせてごめんね」
その言葉に、全員が前に出る。
「かっこういい登場ね」
「目が覚めて良かった」
「ヒーローみたいな登場だね!!」
「待ってましたよ」
響、守大、琥珀、吟時が、雫に声をかける。
「おかえり、雫」
靭が声を掛けると、雫は靭と視線を合わせた。
涙目も、頬が赤くなることもない。
瞳を揺らして、気まずそうな空気も漂わせていなかった。
自然体とでもいうべきか。
雫は微笑んだまま、靭へ言葉を返した。
「ただいま、靭」
そして、靭へと近づき、無くなった腕を凝視する。
いつもなら怒る場面だが、雫は呆れた様に溜息を吐いた。
「また無理をしたのね」
「ああ、悪いな」
雫が別人のような態度でも、靭は気にせず謝罪するだけ。
「いいよ、今に始まったことじゃないし」
そう言って、雫は靭の肩に触れる。
すると、雫の心臓から青黒い水のような影が噴出し、失われた靭の腕の形を強引に創っていく。
靭の表情が僅かに歪むと、気付けば彼の腕が傷跡一つなく元通りに戻っていた。
「さすが、雫ちゃん!! 神ヒーラーだね!!」
欠損部位を治せない琥珀は、雫を尊敬の眼差しで見つめる。
雫は琥珀に微笑んだ後で、もう一度靭を見つめた。
「今度はどんな無茶をするつもり?」
「これから話そうと思ってたところだ」
「その前に、靭に伝えておきたいことがある」
真剣な表情で靭を見つめる雫に、靭もまた真剣な表情で頷いた。
「ああ、いいぞ」
雫と靭の話はそこまで長くは掛からなかった。
全員が雫と靭の話を聞いて驚いた表情を見せるが、誰も深くは聞かなかった。
靭と雫、互いに納得しているように思えたからだ。
「うし、じゃあ……聞いてくれ」
靭はニヒルに笑って、全員を見渡す。
「ゼオンに勝つために……俺たちは狂気を味方につける」
倫理などクソくらえの狂気的で、命懸けな作戦を伝えるのであった。
「うし、じゃあ、行ってくるわ」
「気を付けなさいよ」
「頑張って」
軽く微笑んだ靭は、一番に飛び出した。
「行ってきます」
「いってきまあああす!」
「いってらっしゃい」
「気を付けてね」
真剣な表情の守大と、笑顔を見せる琥珀も、その後に続く。
「雫さん」
「ん?」
吟時は雫を真剣な眼差しで見つめる。
「自分の命、預けさせていただきます」
「任せて」
雫は吟時の重たい言葉に対して、即座に頷く。
その様子を見た吟時は、しばらく雫を見つめた後で、満足そうに青年らしい笑みを見せた。
「ええ、お願いしますね……では、いってきます」
「頼んだわよ」
「気を付けてね」
吟時も、靭たち前衛組の後に続いた。
残ったのは、雫と響のみ。
二人は戦場を俯瞰できる場所で、サポートに徹すると決めていた。
前衛組の戦いを見守っていた時だ。
響が雫に声を掛ける。
「いいの、あんなこと言って」
「うん……わたしは、わたしでいたいからね。それは、靭も同じだったけど」
雫が目覚めて、靭が皆に作戦を伝える前のことを思い出す。
『わたし、靭のこと、愛してないみたい』
周りは、雫の突然すぎる告白に、思いっきり動揺する。
琥珀は目を見開いて口を大きく開けて、雫と靭を凝視。
守大は完全に固まっている。どういう反応をすればいいか困っているようだ。
吟時は、なぜか背中を向けた。そういう話は、得意ではないのかもしれない。
響は、ここで言うんだと、驚きの表情を見せていた。
『そうか』
『靭はどう?』
雫の問いかけに対して、靭は真剣に答えた。
『俺も……雫を愛してやることはできない』
靭の答えにも、周囲は信じられないような目を向けている。
けれど、当人たちは、当たり前のことを告げているような顔だった。
『……ふふ、そっか』
雫は満足そうに微笑んだ。
『一途だね、靭は』
『まあ、途中まで忘れてたから、そうとも言えないけどな』
自分自身に呆れたような瞳を見せながら、靭は頭を掻いた。
けれど、雫は首を横に振る。
『そんなことないよ……ちゃんと思い出せたんだから』
『それは、雫もだろ』
その言葉に対して、雫も困ったように微笑んだ
『そうだね。お姉ちゃんのことは大好きだけど……わたしはお姉ちゃんじゃないから』
『だな』
雫と靭だけが分かる会話だった。
けれど、周囲にいた琥珀たちも、なんとなく二人が言いたいことが伝わる。
影と話してきたことで、自分を取り戻せたのかもしれない。そのための、話し合いなのかもしれない、と。
全員が、同じ道を歩んできたから分かることだ。
話の内容こそ理解はできないが、納得はできたため、二人の話を深掘りする者はいなかった。
「まさか、愛せない告白をするなんて、思わなかったわ」
「わたしが、わたしでいるために必要だからね」
雫は、とても晴れ晴れとした気持ちのいい顔を見せる。
そして、響に向けて、いたずらに笑う。
「好きなら、ちゃんと好きって言った方がいいと思うよ」
「え」
響は固まった。大人の余裕はどこへやら、完全に硬直している。完璧な不意打ちを喰らった顔。恐ろしく整えられた美しいご尊顔にも、親しみやすさが現れる。
「ふふ、今までの仕返し」
「あ、ちょっと……もう、冗談キツイわよ」
響の困ったような顔を見て、雫は楽し気に微笑んだあと、真剣な表情をする。
「響ちゃん……」
「どうしたの?」
「本当の……わたしを見ててね」
雫の纏う空気が変わったことで、響もすぐに頷く。
切り替えの早さは、さすがである。
「ええ、もちろん」
「ありがとう」
雫は瞳を閉じて、慈しむように、両の手を重ね合わせて祈りの構えを取る。
雫は、心の中で思い返す。
眠りについてから、自らの中にいる影との会話を、フラッシュバックさせるように。
雫の脳裏に、次々に映像が思い浮かびあがっていく。
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響を庇って、鬼のXENOSの攻撃をもろに喰らって気を失った時からそれは始まった。
「ここは……」
雫は、自らの意思で自分の中に眠る影と対話を望んだ。
雫が目覚めると、周囲は殺風景な部屋だった。部屋にはフラワーボックスと本棚と、勉強机、ベッドのみ。フラワーボックスは置いてあるが、それも数えるほどしかない。それ以外には、面白味がない部屋だった。
「わたしの部屋」
何もない空っぽの自分を示すような部屋は、本来の雫の部屋だ。母に言われた通りの勉強道具を買い揃えて、それ以外に不要なものは買い与えられなかった。そもそも雫にも、物欲という物欲がないから余計に物が増えない。増えたとしても、本棚の中の本くらいだろう。
雫はゆっくりと自らの部屋を眺めた。
そして、フラワーボックスの置いてある場所へと進む。
「お姉ちゃんからの誕生日プレゼント」
数はそこまで多くなかった。けれど、毎年異なる綺麗なケースにたくさんの種類の花を美しく丁寧に飾って作ってくれるブリザーブドフラワーには、想いが詰まっている。草原の中に一輪の赤い花、四種類の色を見事に調和させた花々、小さい花から大きい花まで詰め込まれたもの、グラデーションが楽しめるもの。本当に丹精込めて、丁寧に作られていた。
雫の姉である【木花凛】からの大切な贈り物。
中でも、雫が好きだったのは、クリアケースの外側に雫のシールと、中央に咲いた青い薔薇、それ以外は白で囲われた綺麗なブリザーブドフラワーだ。シンプルなのに、とても華々しくて美しい。
これを見るたび、少し嫌なことがあっても頑張れた。
それくらい、お気に入りの物だ。
雫は、お気に入りのブリザーブドフラワーを見ながら、悲しそうに呟く。
「わたし自身が、花を好きだったわけじゃない」
雫が好きだったのは、姉である【木花凛】から贈られる、気持ちの籠ったプレゼント。決して、花が好きだという理由ではない。
「……今までが、歪だったんだ」
物が少なすぎるせいで、ポツリと呟いた言葉は妙に響いた気がした。
『ようやく……自分自身を見つめることができましたね』
子を諭すような優しい女性の声が、脳内に響いてくる。
「あなた……わたしに声を掛けた人ね」
雫は一度だけ聞いたことのある声に反応し、尋ねた。
『ええ、そうです。本来のご自身を見つける前に、嘘の自分を塗り固めて覚醒した稀有な貴女。わたしは、本来の貴女が、ここにたどり着くのを待っていました』
「そう、じゃあ、すぐに戻してもらえる? 回復役のわたしがいないと、みんなが大変なことになってしまうから」
『残念ですが、まだそれはできないみたいです』
「どうして?」
雫はムッとしながら、聞こえてくる声に尋ねた。ただでさえ、ここは戦場なのだ。本来であれば、気を失うことなどあってはならない。けれど、この対話をしなければ自分は前に進めないと直感した雫は、あえて気を失うように攻撃を受けた。
すぐに解放されると、信じて。
けれど、残念ながらそうはならなかった。
『貴女は、色々と欠けている。だから、このまま目を覚ましても、仲間の役には立てない』
「ならどうすればいい?」
雫はただ、姉からもらった青いバラの贈り物を見つめながら、問う。
答えは、すぐに返ってきた。
『自分が本当に好きな物や人、自分が何をしたいか考えること、自分のことを愛してあげること……それが、今の貴女には必要不可欠です』
「自分と向き合えと?」
『そういうことです』
「……ちょっと待って」
雫は悩んだ。焦る心を押さえつけて、息を深く吸っては吐いてを繰り返す。
「自分が……本当に好きなもの」
姉が作ったブリザーブドフラワー以外には特にない。本当に強いて言うなら、紅茶くらいだ。
『本当に、今思い浮かんだものが好きなの?』
「……それは」
優しい女性の声に言われると、自分のことなのに自信を無くす。
なにやら、変な違和感まで感じてしまう。
雫はもう一度、自分が好きだったものを見つめなおす。
「わたし……紅茶よりも、珈琲が好きだ」
父と一緒に飲んだ高い珈琲。あれ以来、本当は珈琲が好きだったはずだ。
けれど、今まで思い出せずにいた。
「そういえば……」
雫は部屋から出て、キッチンへと向かう。
そこには、長年愛用されているコーヒーミルが置いてあった。
「自分でも、これで淹れるようになった……ママとお姉ちゃんがいないとき」
そして、たまに、父が珈琲を内緒で淹れてくれたことも思い出す。
「……喫茶店に行くのが好きだった」
貯めたお小遣いで、喫茶店巡り。近場だけでは足りず、少し遠くの方まで足を運んだ記憶が蘇る。
「雨が降った日に喫茶店に行って、珈琲を飲んで本を読むのが好きだった……チョコレートのパフェも好き」
雫は、雨が好きだ。
雨が降る前の空気から流れてくる匂いと、雲から流れ落ちる雨音。誰もが嫌う雨を、雫は好いていた。その時に食べるチョコレートパフェも格別だ。夕飯が入らなくて数回母に心配をかけたが、父は分かってるのに黙ってくれている、そんな素振りを見るのも好きだったのかもしれないと思いながら。
「好きな小説家の本が出た日、公園で本を読むのも好きだった」
家ではなく、あえて広々とした青空の下で読む。自然の空気の香りも好きだったのだ。同級生が近づいてきて揶揄ってきたから、その趣味もやめてしまったことを思い出す。
「……どうして、忘れてたんだろう」
誰かと比較するあまり、自分の趣味など趣味ではないと思っていたのかもしれない。雫が【木花凛】を演じていたからではなく、人と比べられすぎてしまったから、自分自身に蓋をした。
もっと深い傷を負う前に、隠したのだ。
雫は、コーヒーミルを使って、珈琲を淹れる。
誰のためでもなく、自分のために。
そして、自分の部屋に戻って、珈琲を飲んで考える。
「自分が、好きな人」
まず頭に思い浮かんだのは姉である【木花凛】の顔。そして次は父、母へと変わっていく。母のことは本当に好きだったのかと言われれば少しだけ怪しくもあるが、それでも凛が高校に入るまでは、雫として可愛がってくれたと思うから。
それに、雫にとって家族は唯一の人との関わりで温かいものだった。
「でも……」
そんな家族はもういない。靭の反応から、姉である【木花凛】も死んだと雫は確信している。
「今は、どうかな……」
思い浮かぶのは、最初から最後まで天真爛漫な女の子。
「三峰琥珀ちゃん」
おどおどする必要のなくなった逞しい男の人。
「黄土守大さん」
悪戯好きだけど面倒見のいいお姉さん。
「紫苑響ちゃん」
自分と同じくらいコミュニケーションが下手くそな青年。
「黒曜吟時くん」
地獄のような場所でできた、唯一の仲間たち。最初は仲良くなれないと思った人もいたが、最終的には仲良くなれた。心の内を見せあえたから、信頼できる。
雫にとっても、とても大切で、大事にしたい仲間。
「わたしは、みんなが好き……」
最後に、思い浮かべるのは、冴えない顔の男だ。
いつもは冴えないくせに、命を懸けることになると、急に頼りがいのある存在へと変わる。
冴えないのに、格好良くて頼れる大人。
「深海靭」
【木花凛】と名乗っていたあの頃。靭を見るだけで、考えるだけで胸が高鳴り、自分だけに特別な姿を見せてくれる靭を愛していた。愛されなくてもよかったのだ。何をされてもいいし、なんだってしてあげたいという感情もあった。おかしなまでに愛していたはずの男。
それが、雫にとっての深海靭だった。
「今は……そんなことないな」
靭を見て、考えても、なんとも思わない。
頼れる大人であることは間違いないし、自分たちを守ってくれることには感謝もしている。先頭に立って、率先して面倒ごとを引き受けてもくれた。
けれど、好きではない。
人としては好きだが、狂ったように愛している感情はない。
ごっそりと心から何かが抜け落ちてしまったのかもしれないと、雫はそんな気分になる。
「でも……これでいいんだよね」
心の空っぽな自分。
それが、本来の木花雫だから。
「……思っていたより、好きな物も、人もいた」
珈琲、喫茶店、本、自然、雨に、チョコとパフェ。
家族と、部隊の仲間たち。
「わたしが、したいこと」
雫の中に答えは出ている。
仲間を助けたいのだ。
せっかくできた命を懸け合える仲間。地球が侵略されるまでは、絶対にできないと思っていた気の許せる友人たち。自分だけの、居心地のいい世界。
「わたしが、わたしでいられる場所を守りたい」
それが、木花雫がしたいことだ。
「そのために……自分を愛する……」
雫の言葉が止まった。
それは、雫が人生で一度も考えたことのない命題。
家庭の空気がおかしくなったから、雫は母の思い描いた【姉の代用品】であることを選んだ。そこに自分の感情はない。強いて挙げるなら、姉のようになれるかもしれないという傲慢な考え。
人を愛して、愛される人。そんな姉に強い憧れを抱いた。
自分自身を持っている姉に強い憧れがあったからこそ、母の示す道を歩いたのだ。用意されたレールの上を歩くのは簡単だった。障害はない。雫にとって頭に何かを入れることは、とても簡単なことだったから。
「わたしを愛する」
そこに、レールはない。
いままで用意されていたレールが消えた。歩く場所はない。見えるのは、何もない真っ白な背景。壁に見えるし、遠くに何かがあるような気もする。
真っ白な空間を歩く勇気が、雫にはなかった。
『難しい?』
「……とっても」
優しい女性の声が、雫に問いかけると、雫は素直に答える。
『じゃあ、このままでいいの?』
その問いに対する答えは、決まっている
「よく……ない」
なら、どうするべきか。
「歩くしか……ない」
雫は一歩、白い空間に足を踏み入れる。
けれど、足は一歩目で止まったまま動かない。
この先にある未来に何が待っているのか分からないから、身動きが取れなくなる。
雫にとっての未知は、恐怖の対象だった。
『何をそんなに恐れているの?』
「分からない……でも、怖い」
足が震えて、呼吸が乱れる。
『そんなに怖がらなくても大丈夫よ』
「……どうして?」
涙を溜めた雫は、脳内に響くような声に問う。
『だって、一人じゃないでしょ?』
「……え」
白い空間の先に、誰かが立っている。
それは、一人ではなく、複数人の気配だ。
『靭隊長、もうやる!?』
『行くなら覚悟はできています』
『僕も』
『私もよ』
何かに立ち向かう言葉だ。覚悟ができているという重たい言葉もでているから、雫も時間がないことに気付いた。
雫はギュッと拳を握りしめる。
「……みんな」
自分が必要な時に仲間の元へ行けない自分自身に、雫は強い苛立ちを感じる。ここに来るまでの雫という人間は、自分に苛立つことすら皆無だった。できる、できないを切り分けて考えて、できないことには執着しなかったから。
自分の願いすら気づかぬ人形だったからだ。
願いなんてなかった。
それは、自分以外が用意するものであって、自分には必要ないものだと本気で思っていたから。
「わたしは……みんなを助けたい」
そんな雫が、したいことを口にだす。
「今まで助けられた分、みんなを助ける……もっとすごい力が欲しい」
雫にとって、これが初めての自分自身の願い。
願いを、貪欲に欲する。
「それができないなら……わたしは、わたしを愛してあげられない!」
雫は叫んだ。
自分を見てくれる人たちを助けられない愚かな自分を、どうやって愛するんだと。
「だから、お願い……みんなのところへ戻して!!」
他人と、嘘の自分の操り人形だった雫は、自らその糸を引き千切る。
木花雫として自分の意見を述べて、自分のために願った。
まぎれもなく、木花雫としての言葉で。
『……ようやく、自分のやりたいことを見つけたのね』
嬉しそうな声だった。
それはまるで、姉である【木花凛】を思い出してしまうほど。
優しく、温かく、愛のある言葉。
『貴女の心からの言葉を聞けて、嬉しかったわ』
雫は不思議だった。
なぜ、声の主が泣きそうなのか分からなかったから。
『……必要になったら、私の名を呼んで。私は、いつでも貴女を待っているわ……シズク』
名前を呼ばれた時、心が温かくなるのを感じる。
「貴女の……名前は?」
雫もまた、瞳に涙をいっぱいに溜めて聞いた。
『私は……』
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全てを思い出した雫は、彼女の名を口にした。
「力を貸して……零命!!」
雫の心臓から、青黒い影が噴き出して、雫の全身を飲み込んだ。
青黒い色が徐々に澄み渡り、透き通るような純青へと変化すると共に、雫が新たな姿を現した。
煌めく青色の長髪は、まるで寄せては返す波そのもののように、優雅な軌跡を描いて靡いている。その瞳は、降り注ぐ太陽の光を一身に受け、透き通ったマリンブルーの輝きを放っていた。首元には、一連の真珠のネックレスが静かに光を添えている。
背中には、澄明な水が集まって形成された、ガラスのように透き通る一対の蝶の翅が開花した。その翅は陽光を複雑に透過し、蜃気楼のように揺らめいている。
身に纏うドレスは、清純な白から深淵なる青へと移ろう、美しいグラデーションを描いている。ふわりと広がった裾は足元まで伸び、その先には、光を反射して煌めくガラスの靴が覗いていた。そして胸元には、青い結晶の薔薇が、魂の輝きを放っている。
華奢な両手には、幾何学模様が刻まれた分厚い古書が抱えられている。驚くべきことに、彼女の周囲には、小さく美しい色とりどりの熱帯魚たちが、まるで水の中のように宙を泳いでいた。
ここに、零命の精霊が降り立つ。
「……これが、本当の雫ちゃん」
響の呟きに微笑み返すように、雫は静かに唇を開いた。
『治癒の雫』
仲間の命を繋ぐ力が、どうか全員に行き渡るように。
空っぽだった彼女が初めて見つけた、たったひとつの【願い】を込めて。
――戦場に、優しい雨が降り注ぐ。




