閑話 姉の代用品
「お姉ちゃんのようになるのよ」
それが、私が幼いころの母の口癖だった。
小さいころから、お姉ちゃんの木花凛は完璧な存在だ。一度学べば大体のことは理解できるし、運動も得意で、何をやらせても表彰台に上ることができた。ただ、お姉ちゃんは飽き性なのか、ある程度学べばすぐに別のことに手を出してしまう。本人のやりたいことをやらせるくらいの財力が家にあるおかげで、それも許されていたから問題ではなかったけど。
お姉ちゃんは、人格者でもあった。誰とでも仲良くなれるし、嫌いな人なんていないのだろうと思わせるほど、いつも笑顔を絶やさない。もちろん、お姉ちゃんを嫌いな人もいるらしいけど、お姉ちゃんの味方をする人が多いから、すぐに鎮静化するらしい。
お姉ちゃんは、感情が豊かだ。映画を見ているときは特にそうなる。怖い映画では青ざめて凄く怖そうな顔をするし、コメディちっくな作品では口角を上げてオーバーリアクションで大きく笑うし、感動する作品では涙をポロポロと零す。
完璧なのに嫌味がなくて、表情豊かなお姉ちゃん。
そんな姉と比較されるわたしは、ほどほどに優秀ではあったけど、完璧な存在ではなかった。好きなことには積極的に学ぶ姿勢はあったけど、運動は嫌いだから表彰台に上がったことはない。そもそも、わたしは運動音痴だ。それくらいなら、両親には許容範囲。まあ、ぎりぎりではあったと思うけど。小学校・中学校の先生には、お姉ちゃんとよく比べられていた。
わたしは、表情が顔に出ない。出すのが面倒だった。きっと、父に似たのだと思う。父も、あまり言葉や表情を顔に出す人ではなかったから。これが問題だったのだろう。人付き合いは、社会で生きていく上で必要不可欠な要素だ。だから、母はそのことを気にしていた。わたしは、周囲からの人望がなかったから。いつも一人。わたしは気にならなかったけど、母は気にしていたのだろう。
だからこそ、母はいつもの言葉を口に出す。
「お姉ちゃんのようになるのよ」
その言葉は嫌いだったけど、心の底から嫌悪はできなかった。
だって、わたしもお姉ちゃんが大好きで、心から尊敬しているから。お姉ちゃんは妹思いで、わたしを一番に考えてくれていた。わたしのしたいことにはいつも付き合ってくれたし、常に笑顔で優しくしてくれる。
そんなお姉ちゃんになりたいという気持ちもあったからだと思う。
その母の言葉を気にしてたのは、実はお姉ちゃんだ。母がお姉ちゃんの前でその言葉を口にすれば、普段怒らないお姉ちゃんもよく怒っていた。まあ、あまり怖くはなかったけど母には効果があったようで、お姉ちゃんの前では言わなくなったの。
それでも、お姉ちゃんはそれを分かっているように、わたしに話してくれる。
「雫は雫なんだから、心のままに生きていいのよ。私は、そんな雫が大好きだもの」
ぎゅっと抱きしめてくれるとき、お姉ちゃんからは花の蜜のような甘い香りがした。柔らかくて優しいソプラノの声。わたしが辛いときには、いつも傍にいて慰めてくれる。
お姉ちゃんと比較されるのは、あまりいい気分ではない。
でも、お姉ちゃんのようになりたい自分もいたから、得意なことはお姉ちゃんと並べるように努力することができた。まあ、人付き合いと運動に関しては、ダメダメなままだったけど。友達はおろか、人から好かれるタイプではなかった。
それでもよかったの。
お姉ちゃんが、優しく慰めてくれるから。
少し窮屈だけど、幸せな生活。
きっと、そこからだろう。何かが少しずつおかしくなっていったのは。
そう、お姉ちゃんが入学する高校の話から。
「あの私立なんて嫌よ。私は公立に行く」
父は何も言わなかったが、母は猛反対していた。信じられないような目でお姉ちゃんを見て、少しヒステリックになっていた。中学は社会勉強の一環として、地元の公立に父が入学させている。でも高校は私立にしてねと、母が言ったのだ。
その母の言葉を、お姉ちゃんは断った。あんなお姉ちゃんを見るのは初めてだったので、とても驚いた。
お姉ちゃんが行きたがってる公立高校は、偏差値もそこまで高くないし、部活動で有名なわけでもない。
特筆する部分がない、本当に普通の高校だ。
「大学は、どうするつもりだ?」
父は、お姉ちゃんを見ながらもうすでに大学のことを話していた。
「もちろん、名門大学を目指す。勉強するなら文句はないって、お父さん言ってたよね?」
「できるならいい。楽しめ」
「ありがとう!」
お姉ちゃんはご機嫌で、そのまま部屋を出ていった。
「ちょっと、あなた!」
「雫、部屋に戻ってなさい」
「うん」
どうやら、二人きりで話をしたいらしい。とはいえ、わたしも理由が気になったから、お姉ちゃんの後を追った。
「お姉ちゃん」
「雫、どうしたの?」
お姉ちゃんは平然としていて、少し驚いた記憶がある。このとき、お姉ちゃんは自分のしたいことをどこまでも通す人間なのだなと知った。親の敷いたレールは歩かないという強い意志を持っていて、さらに尊敬したことも覚えている。
そんなお姉ちゃんに、聞いてみた。
「どうして、そこの公立なの?」
「制服が可愛いから!」
お姉ちゃんは、それはそれは満足そうに笑った。
「ふぇ」
お姉ちゃんの言葉に、変な声がでた後、思わず固まった。何か理由があると思ったら、制服が可愛いという理由だけらしい。お姉ちゃんは、自分の手をギュッと合わせて、くるくると椅子を回る。
「高校選びの時にね、制服がすっごく可愛かったの。アレンジもしていいって聞いてね、絶対そこがいいと思ったのよ」
「それだけ?」
本当にそれだけか知りたくて、つい聞いてしまった。
お姉ちゃんは、ピタリと止まって、がしっと私の肩を掴んだ。その目は、とても真剣だった。
「雫……いい、よく聞いて」
「うん」
「せっかくの高校生活を、勉強一色で終わらせたくなかったの。映画みたいな青春を謳歌するのよ。帰宅部で、バイトもして、お友達と寄り道して帰って、色々な出会いがあって、それを楽しむの……はぁ、想像するだけで楽しみでしょ!」
「う、うん」
呆気にとられたとはこのことだ。お姉ちゃんは、青春を謳歌するためだけに高校を選んだというのだから。
「高校はいろんな人がいるって聞くから、本当に楽しみ。本物のギャルもいるらしいわ」
「ギャル……?」
「そう、ギャルよ。ふふ、わくわくするでしょ」
「そ、そうだね」
お姉ちゃんは本当に楽しそうに話していたけど、わたしはただただ呆気に取られるだけだった。でも、お姉ちゃんが心の底から楽しそうで良かったな、とも思っていた。
そんなお姉ちゃんが、私の目を見ながら言う。
「雫、人生は楽しんだもの勝ちなんだから、あなたも楽しいことをして生きてね」
「……うん」
「なにかやりたいことがあったら、私に教えてね」
「うん」
「私は、雫の味方なんだから」
「うん、ありがとう、お姉ちゃん」
いつになく真剣な表情だったから、わたしは頷くことしかできなかった。
「いってきまーす!」
それから、お姉ちゃんは、宣言通り、高校生活を謳歌していった。
化粧もして、制服を着崩して、バイトをしたり、帰りが遅い日もあったりと。とにかく、高校生活を満喫していた。お姉ちゃんが楽しそうだと、わたしも嬉しい。だって、寄り道して買ってきてくれたクレープのお土産の味は、今でも忘れないほど嬉しかったのだから。
「あの子……今日も遅いのね」
「警察のお世話にならない時間に帰ってくるんだからいいだろう」
「あなたは、あの子に甘すぎるわ」
お姉ちゃんが自由を楽しんでいると、その分、母の機嫌が悪くなる。父も、お姉ちゃんのように中学・高校は普通の学校だったから、気持ちが分かるのかもしれない。
ただ、母はお嬢様育ちだ。清く正しい育ちをしてきたからこそ、許せなかったのかもしれない。たまに意地悪で、お姉ちゃんの分の料理を作らなかったり、意味のない嫌味を吐いたりと散々だった。
でも、お姉ちゃんは折れない。本当に気にしてないのか、それとも強がってるだけなのか、わたしには分からないけど、それでもやっぱり自分を優先させた。
「お姉ちゃんのようにはなっちゃだめよ」
それが、母の口癖になるのは、想像に容易いだろう。
だけど、わたしはお姉ちゃんに憧れてしまったのだ。
自分のやりたいことを貫いて、自由に生きる。優しくて、思いやりがあるのに芯の通った人。カッコいいと思った。だって、楽しむ分、ちゃんとやるべきこともやっているから。
全力で遊んで、全力で勉強して。
お姉ちゃんは、常に全力だったんだと気付いた。
「雫は、お姉ちゃんと違って、私立の高校に行くわよね?」
「……うん」
わたしは、お姉ちゃんのように自由を勝ち取るために反発することもなく、母の言うままに敷かれたレールの上を歩く人間だった。ただ勉強だけが取り柄の人間だ。
この時、さすがのわたしでも理解していた。
今のわたしは、母にとって【お姉ちゃんの代用品】なのだと。
母は、自分がさせたかったことや【理想のお姉ちゃん像】を、わたしに押し付けている。
たただ愚かなことに、当時のわたしはそれでいいと思っていたのだ。お姉ちゃんには自由に人生を楽しんでほしかったし、何よりわたし自身が、母の望む【完璧な姉の代わり】をそつなく演じ切れると本気で思い上がっていたのだから。
家の中での「お姉ちゃんの代わり」として、わたしは生きていくことを決めた。
だからこそ、余計にお姉ちゃんが輝いて見えたのだろう。
憧れは強くなるのに、歩む道は正反対になってしまったのだ。
そんな怒涛というか、少しばかり家の空気がおかしくなっていた頃。お姉ちゃんの様子もちょっぴりおかしくなっていた。
「ふふ」
「どうしたの?」
確か、この日はバイトの日だった。週二回のバイトで、いつも楽しそうに出かけていくけど、いつもより嬉しそうだ。だから、気になって声をかけた。
お姉ちゃんは、わたしの質問に小さな声で答えてくれたの。
「実はね……好きな人ができたんだ」
「え」
意外だった。お姉ちゃんは人が好きだけど、異性が好きというわけではなかったから。異性との距離感を間違えるような人ではなかったけど、よく告白されて困っているのも聞いていた。
「どんな人?」
「んー、そうねー。真面目で、人には流されなくて、たまに見せる笑顔が可愛いくて、わたしが、わたしでいられる人かなー」
本気で好きなんだろうと思った。お姉ちゃんが好きになった人だし、きっと顔が良くて、清潔感もあって、お姉ちゃんと同じくらい完璧で、自由を楽しめるような人なんだろうって。
お姉ちゃんは、自分がしたいことは自分から動く。お姉ちゃんに告白されたら、絶対に首を縦に振るに違いない。だから、すぐにでも付き合うんだろうなと思ってた。少し寂しいし、ちょっぴり嫉妬してしまうが、お姉ちゃんが幸せならわたしの幸せでもあるから、心から祝福したい。
まあ、この時のわたしの予想は、大きく外れたけど。
お姉ちゃんが高校二年生に進級したある日のことだ。その日は、珍しく落ち込んで帰ってきた。翌日には、スッキリした表情を見せてたけど。
「え、振られた?」
気になったので聞いてみたら、なんとお姉ちゃんが告白して振られたらしい。もしかしたら、すでに付き合ってる人がいるのかもしれないって思ったけど、そうではないという。
「そうなの。でもね、わたし、絶対諦めない!!」
結局、高校では付き合うことができず、20歳になってようやく付き合い始めたようだ。その日は浮かれに浮かれていたからすぐに分かった。それに、見たことない青い綺麗なへアクリップを付けていたから。
お姉ちゃんは、本当は花が好きだ。人前では隠しているようだけど、部屋にはドライフラワーや、お手製のフラワーボックス、ケースに入った青薔薇、とにかくいろいろ飾ってる。花のような笑顔を見せるお姉ちゃんらしい趣味嗜好が凝っている部屋。
わたしの部屋とはまったく違う。わたしの部屋は物凄く殺風景。目立つのはたくさんの本棚があるくらい。お姉ちゃんが誕生日にくれたお手製のフラワーボックスは置いてあるけど、それだけだ。趣味という趣味もない。強いて言うなら、雨音を聞きながら本を読むくらいだろう。自分でも変わってると思ってる。
わたしは雨が好きだけど、他の人は雨を嫌う。そういう人とは相容れないところも、わたしが人間関係を疎ましく思っていることに関係している気がする。
まあ、そんなことはいいか。
今、気になるのは他の事。
お姉ちゃんは『自分のキャラじゃないから』と、花が大好きなことを表に出さなかったけど、それすら気にしないほど舞い上がってるんだもの。
自分の素を見せてもいいくらい好きなんだと思った。
だからこそ、お姉ちゃんを虜にできるくらい素敵な人を想像していたのだ。
写真を見せてもらった時は、正直言ってかなり驚いた。
「この人が……お姉ちゃんの彼氏」
まず思ったのは、冴えない人だなということ。あと、自撮りで映っている姿が、なんとも下手くそな笑顔だった。お姉ちゃんが幸せそうな笑みを浮かべてるから、余計に目に映ったのだろう。
「そうだよー」
お姉ちゃんはにっこにこだ。もはや単なる彼氏彼女ではなく、人生を共に歩みたいと本気で思っている目だった。わたしのことも、写真を見せているという。自慢の妹だと。かなり嬉しかったけど、いくらお姉ちゃんの自慢の彼氏とはいえ、写真を見せるのはやめてほしいとだけ思った。
「靭くんはねー」
聞いてもいないのに、お姉ちゃんは【深海靭】についてぺらぺらと幸せそうに話し出す。話によれば、この人はすでに働いているという。ということは、いい生まれの人でもないし、名門大学を卒業しているわけでもない。
これは、母が納得しないだろうというのは、目に見えていた。
そして、案の定、喧嘩だ。
「お泊りなんて、許せるわけないでしょう!!」
「なんでよ! 私はもう子供じゃないのに!!」
「まだ、子供よ! それになんなの、この人は!!」
「靭くんのこと、馬鹿にしないで! 何も知らないくせに!!」
そこから、怒涛の喧嘩だ。
とにかく酷い言い合いだったが、父は気にしていないのか、呑気に珈琲を飲んでいる。わたしもわたしで、お茶菓子を食べていた。似た者同士ということだろう。
父のことは嫌いじゃない。
でも、普段から会話をしないから、特別好きというわけでもない。父はやるべきことさえやっていれば、何も口を出さない寡黙な人だ。
ただ、ずっと気になってはいた。
その日は珍しく母が出かけていて、お姉ちゃんはいつも通りデート。
家には、父と二人きりだった。
「パパは……いいの?」
「なにがだ?」
「お姉ちゃんのこと」
そう言うと、父はタブレットを置いて、珈琲を飲んでから答える。
「ああ。やるべきことはやっている。なら、文句を言うのは違うだろ」
「じゃあ、なんでお姉ちゃんのこと、助けてあげないの?」
「凛は、自分で自分のことは解決できるからな。口を挟む必要はないんだ」
確かに、その通りだった。お姉ちゃんは、中学三年生から自分を通している。これからもきっと、お姉ちゃんは自分で解決するのだろうと。
驚いてしまった。わたしより、父の方がお姉ちゃんのことを贔屓目無しで見ていたから。
「そっか」
だから、わたしは、それ以上何も言えなかった。
「雫は……どうしたいんだ?」
「え」
それは、唐突な質問だった。
「雫自身は、何がやりたいんだ。本当に、母さんの言いつけ通りの人生でいいのか?」
「なんで」
突然そんなことを言うものだから、わたしは思わず固まってしまう。
父はわたしを見てタブレットを置き、尋ねてきた。
「今日予定は?」
「何も……ないけど」
「なら、少し出かけるぞ」
「え……うん」
そういうと、父は車のカギを取った。車に乗るのなんて、塾の送り迎えくらいだったから、なんだ緊張したのを覚えている。車を走らせて、30分くらいだったと思う。
連れてきてくれたのは、高級感のある喫茶店だ。
「好きなもの、頼んでいいぞ」
「うん」
一杯1000円以上の珈琲、2000円のパフェ。
高い。お姉ちゃんの時給を聞いてからか、余計に高いと思ってしまった。
「甘いものは、嫌いだったか?」
「ううん、好き」
「なら、好きに頼んでいい」
「うん」
父は珈琲だけ。
わたしは珈琲と、お高いパフェ。なんだか、とっても悪いことをしている気分だ。
「お待たせいたしました」
でも、お高いパフェが出てきたらすぐに目を奪われて、そんなことは気にならなくなった。
パフェ専用のグラスに、色々なチョコレートのお菓子やクリームが層になって綺麗に重なっている。グラスから飛び出しているチョコレートのソフトクリームも美味しそう。ソフトクリームの周りにはチョコ菓子が飾られている。
「いただきます」
「ああ」
絶品のチョコパフェを食べてる途中、父は話しかけてこない。けど、わたしを見て微笑んだ。意外な一面もあると思っているのかもしれない。親子だけど、お互いのことをよく分かってないのだ。
これからはもう少し、父とも話そうと思った。
「……珈琲、美味しい」
「そうか、雫は珈琲が好きなんだな」
「うん」
甘いチョコ菓子と、苦い珈琲の相性は抜群だ。
でも、珈琲の苦みも好きだった。
結局、わたしがパフェを食べ終わるまで父との会話はなかったけど。
食べ終わってから少しして、父が話しかけてきた。
「雫は、母さんのいいなりは辛くないのか」
「別に何とも思わない」
気付いていたのかと思った。でも、もう辛くない。
やるべきことをやればいいだけなのは楽だったから。
「そうか。やりたいことも?」
「特に……」
なかった。わたしには、やりたいことなんてない。いい大学に入って、それなりに有名な企業に入れればいいと思っている。
「そうか。なら、これから見つかるといいな」
普段父から出ない言葉ばかりで、心底驚かさせれる。
だから、わたしもつい聞いてしまう。
「ねえ、どうして急に出かけたの?」
わたしがそういうと、父は笑った。久しぶりに見た父の笑顔に、なんだか胸が温かくなる。
「凛の時も、連れて行ったんだ」
「え」
知らなかった。お姉ちゃんも、特にそういうことは言ってなかったから。
「母さんと雫が、出かけていた日かな。凛が俺の方を気にしている様子だったから話を聞いてみた。家じゃ嫌だというからここに連れてきた。そしたら、やりたいことがある、私立の高校には行きたくないって初めて我儘を言われたよ。悪いと思ったんだ。中学生の娘は思春期だから過度に接しないほうがいいと思っていた……いや、違うか。どう接するべきなのか分からなかったんだ。コミュニケーションエラー、というやつだ」
父は視線を下げて、肩を落として苦笑いした。
「じゃあ、お姉ちゃんが公立の高校に行けたのって」
「そうだな、俺が母さんを説得させた」
意外だとは思わなかった。
そういえば、過去に父が母を説得していたことを思い出したから。
「雫は、不満を持っているようには見えなくてな。凛にも、もし雫が悩みを抱えていたら教えてほしいと言ったんだ。でも、そういう話も聞かなくてな。もし、あったのなら謝る」
「いや……ないよ」
「そうか。まあ、でも、何かあったら言いなさい。俺は、雫の父親だ。力になれることはあるだろう」
「……うん、ありがとう」
分からなくなってしまった。
わたしは、【お姉ちゃんの代用品】でいいと思っていたし、父もそうだと思っていたから。
でも、父は、わたしのことをちゃんと見てくれていた。
木花雫として、見ていたのだ。
だけど、何もかもが分からなくなってしまったわたしは、勉強に逃げた。
勉強をしている時だけは、心が落ち着くから。
数年後、結局わたしは、わたしの理想とするお姉ちゃん像と母の言いつけ通り、名門大学の医学部へと入学を決めた。意味は特にない。母がそうしろというからそうしただけだ。
そして、春休み。
事件が起こった。
お姉ちゃんが、説得に説得を重ねて、深海靭宅にお泊りをしている日。
夜中に目が覚めた。
「きゃあああああああ!」
原因は、寝室から聞こえた母の悲鳴だ。
何かが起こった事だけは理解できた。
両親のいる寝室へと駆け込んだ。
「雫!!」
「え」
大声を出したことのない父が、声を張り上げてわたしを庇うように前に出ていた。
「ぐあ」
父が悶絶するような声を出しながら、わたしを押しのけた。
見えたのは、大きな包丁のような刃物が、父の背中から腹を貫いて突き出ているところ。
「にげ……ろ」
そういって、父は前のめりに倒れて、動かなくなった。
「!!」
気付けば、階段を降りていた。
「おね、えちゃん」
気付けば、わたしは、姉の名前を呼んでいた。
暗くて、よく見えなかったけど、人間ではない何かが脳裏に焼き付いている。それが、父と母を殺して、今度はわたしを殺そうとしていることだけは、理解したくなかったけど、理解できた。
恐怖で、足がすくんで、階段から転げ落ちてしまう。
打ち所が、良くなかったのか、わたしの意識は、そこで途切れている。
「……ここ、は」
気が付けば、わたしは知らない場所で、白い服を着ていた。
不気味すぎるほど白一色の部屋から急いで抜け出し、無機質な廊下を歩いて、大きな扉の部屋に入る。
そこで目にしたのは、ドームにいる、わたしと同じような服を着た知らない人々。
同年代の輪に入れてもらえなかった記憶が蘇り、同年代の集まりには近づけない。
必死に頼れる人を探した。
いや、お姉ちゃんを探したのだ。
わたしが生きているなら、お姉ちゃんだって生きていると思って。
「……あ」
そこで、わたしは見つけた。
何の因果か、わたしは彼を見つけてしまったのだ。
深海靭を。
お姉ちゃんの恋人で、お姉ちゃんが愛する人。ああ、助かった。彼ならきっと、お姉ちゃんの妹であるわたしを守ってくれる。そう思って、すがりつくように声をかけた。
「わたし、このはな……」
しかし深海靭は、ひどく警戒したような冷たい目でわたしを見たのだ。
『誰だ、お前は』
彼にとって、わたしはただの【見知らぬ他人】だった。
お姉ちゃんは、わたしの写真を彼に見せていると言っていたのに。彼はわたしの顔を見ても何も反応しなかった。記憶障害なのか、それとも元からわたしのことなんて記憶の片隅にもなかったのか。
理由は分からない。でも、ただ一つだけ理解してしまった。
――このまま【雫】だと名乗れば、わたしは見捨てられる。
頼れる親はもういない。一番の味方だったお姉ちゃんも、ここにはいない。圧倒的な孤独と恐怖が、わたしの首を絞め上げた。怖い。一人でこんな場所にいたくない。誰かに守ってほしい。
その時、母の呪いのような言葉が脳裏に蘇ったのだ。
『お姉ちゃんのようになるのよ』
そう、わたしは空っぽだ。
お姉ちゃんのように何でも出来るわけじゃないし、人から愛されるわけでもない。
でも、【木花凛】になら、なれる。
わたしが【木花凛】になれば、この人は愛するわたしを守ってくれる。
お姉ちゃんになりきれば、わたしも、誰かに愛される人生を始められるかもしれない。
恐怖が、孤独が、わたしをおかしくしてしまった。
だからわたしは……息を吐くように、その【嘘】を口にしたのだ。
「木花凛。木々の木と、お花の花で木花。りんは凛々しいの凛」
その名前を聞いた瞬間、深海靭はひどく頭を痛めるような仕草をした。
それでも結局、彼はわたしを【木花凛】として受け入れたのだ。
わたしは、私自身を、生き残るための【姉の代用品】として差し出した。
『あなた……木花雫は、本当にそれでいいの?』
頭の中で、優しく諭すような、人ならざる者の声が聞こえた気がした。
けれど、わたしが答えることはない。
だって、わたしはもうすでに、【木花凛】なのだから。
雫……
次回より、最終章です。
よろしくお願いいたします。
本作は【毎日18時】に最新話を更新しています。
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