第28話 深海靭
「まいったなぁ……」
周りを見て一人、無傷の靭はポツリと呟いた。その声は、誰にも届かない。周囲には、靭以外の人影がないからだ。他の人間は、影を発現したか、結晶頭の化け物に殺されたかの二択だ。
「はぁ」
なので、詳細に言えば、人影はあるが、遺体として残っているというべきか。人の血が水たまりのように点々と広がっているが、不思議と濃い鉄の臭いはしない。靭の鼻が血の臭いに慣れてしまったのだろう。自分の化け物じみた順応の早さに、溜息が漏れるのも無理はない。
『あらら、一人になっちゃったね』
いや、先ほどの発言は撤回すべきだ。管理人と名乗った十善寺花火は、おそらく靭の声が届いている。
「そうだな……どうっすか」
今までは全体に向けている言葉だったが、一人になった今、十善寺の声に答えるように呟いた。
『残り3時間。ねぇ、何をすれば、君はこちら側に来てくれる?』
今までのふざけた口調はどこへやら。十善寺は、真剣な声色で靭に尋ねてきた。ふざけた言葉ではなく、真面目な質問に、靭は戸惑いながら頭を掻く。
「さあな……俺にも分からんよ」
靭は、壁に向かって歩きだす。いつもの定位置に着くと、「あーあー、疲れた」とダルそうな声を発しながら、壁に寄りかかるように座った。近くに置いてあるタバコを咥えて火を点ける。ジュっとタバコに火が着く音が、靭の耳に届いた。今までは、戦闘音があったので聞こえなかったが、今は一人。静かな音が聞こえるようになった。
『どうしようー。ボクは、いや、ボクたちは、君がどうしても欲しい。でも、影を発現してくれないと、さすがにどうしようもない。君の力はとても魅力的だけど、本来の力が出せないんじゃ意味がないんだ。君はどうすれば、影を発現してくれるんだろうね』
もはや隠し事は不要なのか、十善寺はぺらぺらと今まで知りたかった情報を教えてきた。だが靭は十善寺の質問には答えず、自分で吐いたタバコの煙を眺めている。もうその情報は不要だと言わんばかりに、無視を決め込んだ。いや、無視というより、考え込んでいるというべきか。
『まぁ、とにかく、頑張ってよ!ボクは、キミが本気で欲しいからさ! 影を発現させなかった場合、君の大事なパートナー、木花ちゃんを殺しちゃうかも』
その声は真剣そのものだ。ある程度まともな人間であれば、パートナーを殺すと言われたら、本気で怒って声を大にして叫ぶだろう。多少なりとも絆はあるはずだからだ。
けれど、靭はそうではなかった。
(嘘だな)
靭の経験がそう伝えてきた。凛の力というより、回復を持つ能力者は靭が見た限りほとんどいなかった。最初に集められた1000人中、靭が目撃したのはたったの三人。かなりレアな能力と言えよう。影まで発現させておいて、そんなことをするはずがないのだ。
「それは、困ったね」
『あはは、嘘の脅しは効かないかー。さて、本気で困ったなー。もう、結晶頭は残ってないし……どうすればいいのかなー』
十善寺はあっさりと白状した。なにがどうしても、靭が欲しいようだ。靭だって生き残りたいとも思っている。凛だけでなく、吟時や、響にも、クリアしろと言われているのだ。必要とされているなと感じるのは嬉しいし、思いに応えたいと思っている。
だが、どうしても発現できない。
今の靭は、結晶頭の化け物を軽々と蹂躙できる力を持ってしまっている。緊張で心拍数を上げるのでさえ難しい。だから、違う方法でアプローチした。息を止めて無理やり心拍数を上げるようなアプローチも試したが、何の意味もなかった。
答えの無い問い。
靭は、タバコを吸いながら考え続ける。
でも、答えは出ない。
なら、どうすべきか。
考えた末に、靭が出した答え。
「ちょっと寝るか」
考えることを放棄したのであった。
『え、寝るの!? 本気で言ってる!?』
靭は十善寺の言葉を無視して寝転んだ。久しぶりに寝転がったせいか、体が疲れ切っていたことを今さらながら実感する。靭が目を瞑ると、十善寺がギャーギャーと騒ぎ立てた。割と、本気で焦っているような声だ。靭の口角がニヤリと上がる。ざまあみろと、言っているような表情だ。
「まあ、落ち着け。少し休ませろ。寝ずに、69時間だろ。どうせ、30分経てば起きるし」
『いや、それはね!』
「わかった。分かったから……ちょっと、待ってくれ……」
靭は、結局、気を失うように眠った。目を瞑って、一分も経たずに、心地よさそうな寝息といびきが、静かなドームに響いた。
『ほんとに寝ちゃった……嘘じゃーーーん!』
あれほど呆れた行動を取る管理人の十善寺を、初めて困惑させた靭であった。
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「……うわ、真っ暗だ」
目を覚ました靭が、あたりを見渡す。先ほどまで明かりが灯っていたドームではない場所。そこは、恐ろしいほどの闇。自分の手すら見えないほどの暗闇に飲み込まれているような場所だった。
「え、もしかして、そのまま死んだ?」
30分では目が覚めずに、そのまま殺されてしまった可能性が思い浮かぶ。不眠のまま、断水断食をしていたのだ。それも、無理はないのかもしれない。
「うわー……マジかよ。こんな最後ってあり?」
最後の最後で、いい感じにまとまりつつあったメンバーとの突然の別れ。靭は自分がいなくなった時の凛と、地獄で殺すと言った響の言葉を思い出して、冷や汗を垂らしそうになる。『肝が冷えるとは、このことか』と感じながら。
「……まあ、そん時は、そん時か」
靭は反省の色も見せずに開き直った。冷や汗すら垂れていないので、元から反省していないようだ。
「つうか、こんな場所で起きて、どうしろと。これはあれか、異世界転生とかする系のやつ? そういうのって、大体が白い空間なんだけど。待ってれば、声が聞こえてくるのか?」
ひとまず、寝転ぼうとして気付いた。寝転ぶ体がないことに。見えないだけかと思ったが、どうやら体がないようだと知った。
「んー……どうしよう」
困り果てた挙句、結局その場で立ち尽くした。いや、立ち尽くす足もないため、呆然としているというべきか。
『あ゛あ゛、ようやく繋がったか……ここまで来るのに苦労したぞ。ようやく夢にアクセスできたと思ったら、今度はこれか』
困り果てていた時、アナウンスのような声が暗闇に響いた。アニメボイスの十善寺の声ではない。気苦労の絶えないおっさんが、愚痴を零しているような声だ。とても疲れている。
「……声は聞こえるんだけどな」
声はたしかに聞こえるが、周りには誰もいない。動けはしないが、周囲が見えることに気づいた靭は、周りをぐるっと見渡す。すると、一瞬だけ、わずかにぼやけている箇所を見つけた。声の主は、これだろうかと思い、靭は恐る恐る聞いた。
「えっと、閻魔様的な方だったりします?」
女の閻魔なぞ、聞いたことはないが、ひとまず聞いた。天国とは思えないような空間だし、自分自身が、天国に行けるほどの人格者ではない。なので、地獄の支配者である閻魔かどうか聞いたようだ。
『閻魔様……ああ、地獄の長とかいうあれだよな。あと、えっと、どれだっけな……ああ、そうそう、神様とか、大天使とか、そういう面白おかしな存在ではない』
「なんだ、違うのか」
ひとまず、地獄でも天国でもないようだ。なら、ここはどこだと考えようとしてやめた。答えてくれそうな人物かどうかは怪しいが、存在しているようなので、質問する。
「じゃあ、あなたはどちら様? それで、ここは、どこ?」
『お前たちの言う影って存在だな。ここは、深海靭の精神世界。ああ、そうだな……まあ、意識のある夢の中とでも思ってくれればいい。そんなことより、我はまだ、こんなところで死ねない。早く、我を呼び覚ませ』
素直に答えてくれて助かるが、スルーしたくはない情報だ。少しの間だけ、靭は考えた。つまり、ここは自分の心の中で、影もまた同じ意識を共有しているということ。焦っているのは、靭の影が発現しないと、この影すらも死んでしまうようだ。そして、これが初めてではないらしい。
姿は見えないが、割と本気で焦っていることが分かる。原因を聞きたいところではあるが、靭も影である目の前のおっさんを、呼び起こしたいのだ。
目的は一緒だ。なら、直接本人にお願いすればいい。
「じゃあ、発現してもらえると助かるんだけど」
そういうと、なぜかおっさんは黙り込んだ。何かを考えている様子。いや、迷っているという感情に近い。心の中に、存在しているからか、彼の感情も手に取るように分かった。
『……我もそうしたいが、できない。お前さんの心が壊れ過ぎて、発現のトリガーがないのだ』
とんでもないことを言われた気がした。ただ、それはおかしいとも言える。
「心が壊れているなら、ここだって、存在しなくないか?」
『あー、そうか、そうなってしまうか……壊れてることと、存在しないことは別なのだが。いや、しかし、このままだと時間が……あー、いや、そうか。ここまで来れたから、可能なのか?』
よく喋るなーと思っている靭だが、靭の心も常にこんな感じではあるので、心の読める響からしてみれば、似たようなものだろう。
『ちょっと、試す。しばし、待て』
「あ、ああ」
何を試すか分からないが、ひとまず待てばいいようだ。
靭は、名前も知らない姉御の言うとおり、おとなしく待つことにした。
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「んー、期待外れだったかなー。いや、絶対そんなことないと思うんだけど……どうしよう、もう少し待ってみるか……次に期待して殺すか」
十善寺花火は、寝ている靭を前にしてブツブツと呟いていた。靭が眠りについてから、あと5分で3時間が経つ。もう少しで規定時間をオーバーしてしまう状況だ。
「ああー、どうしよう……でもなぁ……72時間のうちに暴走化まで発現しないと、見込み無しなんだよなー。今までもそうだったし。たぶん、例外があるはずなんだけど、おっちゃんを誤魔化せる自信がないよー。あの人、すぐにここに来るだろうし」
しくしくと泣いた振りをする十善寺。誰も突っ込んでくれないため、すぐに飽きた様に真顔に戻った。
「仕方ない……殺そう。勿体ないけど、サンプルは取ったし、似たような適合体も探し直せば……ああ、でも、どうだろうな……。まあ、今はいいか。それより育成を優先させないと。敵さんも、次はガチで来るって未来ちゃんが泣いてたし。最終局面だからこそ、君みたいな力が必要だったんだけど」
本気で残念そうに肩を落とす十善寺は、靭と腕時計を交互に見ながら時間を測った。
まもなく、3時間が経つ。
「悲しいよ……深海靭。今後、君ほどの適合者が見つかるとは思えないし、次の戦いに勝てるかも分からないのに。まあ、でも……規定だし、そんな余裕もないから許してね」
右手を上げると、白い火の玉が浮かびあがる。
「最後は、綺麗な火で殺してあげる。ボクを楽しませてくれたお礼にね」
三時間まで、残り十秒。十善寺は時計を確認することをやめて、遊んでいたおもちゃを没収された子供のような顔をしながら、靭を見つめていた。
「ん?」
その時だ。
靭の体が一瞬にして、影を纏った。
「んん?」
時計を見れば、今がちょうど三時間。
そして、それと同時に、新たな人物がドームに入ってきた。
「花火、終わったか?」
「あ、おっちゃん。いやー、それがさぁ」
十善寺花火は、満足そうに靭の影を指さしながら、嬉々として事の顛末を語り始めるのであった。
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『ふう……ギリギリだったな……』
「なあ、おい。どうした?」
ひとまず事態は収拾した様だが、なにかヒヤリとした感情が伝わってきた。現実世界で何かあったのだろうが、おっさんの口調から解決の方向に向かったのだと靭は理解する。
『お前さん、死ぬところだったぞ。我に感謝してほしいくらいだ』
「あ、ああ。ありがとうございます」
ふんと自慢気な感情が届く。靭は、おっさんの感情にいちいちくすぐったさを感じていた。今まで、感情が抑制されていた分、何かを感じるごとに気恥ずかしさを覚えるようだ。
『なあに、照れてんだよ』
「いや、お前さんの感情が伝わってきて、なんか照れくさいんだよ」
『はっはっは、まあ、久しぶりの感情だろうからな。それは、仕方がないか』
詳しい事情を知っているような口ぶりだ。というか、本当に知っているような態度だった。靭本人ですら、気づいていない何かを、彼女は知っている。それだけは、感じ取れた。
『では、気を取り直そう。たしか……お前さんの心が壊れているという話だったか』
「あ、ああ、そうだ。断じていうが、俺の心は壊れていない。さっきは、存在しないとは違うと言っていたが、だとしても、心が壊れてるなら、わずかな感情も感じないはずだ」
『はは、まあ、そう思いたい気持ちも分かるがね。だとしたら、我を少しでも顕現できたはず。しかし、できなかった。お前さんの周りはできたのに』
真実を告げられると弱いが、逆に言えば、それは自分だけのせいではないと、靭は少し感情的になる。
「それは、お前の心臓が動かないからと、他の者に聞いたが?」
『我のせいか!』
ガハハハッと豪快な笑い声が、暗闇に響く。靭は、ただ、じっとぼやけた存在を睨むだけだ。
『いや、すまない。そうだな、分かるわけがない。しかし、良い兆候だ、本来のお前さんらしくなってきた』
「本来の俺?」
またしても、無視できないワードが飛び出てくる。本来の自分。けれど、靭はいつも通りだ。たしかに、ここにきて、肉体改造を施された影響か、かなり感情が抑制されている。自分らしくないと感じる場面は、多々あった。
『他の人間が影を発現できたのは、感情のまま、心のままに従うからだ。でも、お前さんは違う。本来の自分を見失ってる。木花凛。彼女の姿を見た時、名前を最初に聞いた時、無視できない頭痛がしたはずだ。そこで、もっと考えるべきだった。気のせいだと思わずに、必要以上に考えるべきだったのだ』
「そういえば……そんなこともあったけど……」
今となっては、過ぎたことだ。今では頭痛なんて起きない。凛を見ても何も思わないし、名前を呼んでも何ともないのだから。
『まあ、そうだな。思い出せるはずがない。お前さんは深淵に封じ込めたんだ。思い出したくない記憶を。これ以上先は、お前さんの覚悟次第。恐怖を乗り越えられるなら、思い出してみろ』
怖くないも何も、自分の記憶を見て怖がることなんてない。胸糞悪くなることはあるし、恥ずかしい思い出もあるが、怖がることはない。
「……」
煽られた靭は、昔を振り返る。今まで起きた出来事を。保育園でいじめられたこと、小学校、中学時代はいじめられないように、色々と見て見ぬふりしてきたこと。高校、専門学校、バイト先では、立ち回りを変えて、のらりくらりと面倒な人間関係を避けてきた。社会生活も、それなりに上手くやって、社畜ではあるが、まあつまらない日々を生きてきただけだ。
それなりに恋や友情なんてものも楽しんでいたし、嫌だったこともある。ただ振り返れば、つまらない人生だな、という総評で終わるくらいの人生だった。
「つまらない人生だったよ」
『本当にそうか?』
「……ああ」
仄かに光る影から、舌打ちが聞こえた。どうやら、違うらしい。けれど、靭の中ではそれが全てだ。
『心の防衛本能だ。だからここにたどり着くのも、苦労した』
「防衛本能って、何から守ってるんだよ」
『トラウマだ。今はそんなことはいい、早く思い出せ。木花凛。木々の木に、花畑の花、凛々しいの凛。そら、我に続け』
なんで急にそんなことを、と苛立ちながらも、靭は素直に従う。目の前の自分の影を発現できなければ、死ぬだけだからだ。
「木花凛。木々の木に、花畑の花、凛々しいの凛。」
『ハハ、素直でいいな。それで、彼女とは、いつ出会った?』
「いきなり質問かよ。何日か前なんて覚えてないぞ……寝る時間が30分だし……まあ、一、二週間くらい前じゃないか」
『違う。もっとよく思い出せ。木花凛だ、分かるか? 彼女について詳細に、口に出して言ってみるといい』
どうやら、そういうことではないらしい。ただ、違うと言われても、靭には理解できなかった。彼女に出会ったのは、このゲームのはずだから。
「急に下の名前で呼んでくるし、距離感が近い。初めは感情が分かりにくかったけど、ここ最近はよく笑うようになった。ただ、同年代に好かれてなくて、年上の俺に話しかけてきて、流れでペアになったんだ。共同生活は、それなりに楽しかったし、同棲ってこんな感じかというのも理解できた。凛は料理も手伝ってくれたし、私生活もちゃんとしていた。一緒に住んでて、嫌な感じはなかったよ。二人で頑張ってどうにかここまで来た。本当に、それだけだ」
『おうおう、いいじゃねぇの。じゃあ、もう一度、ゆっくり同じことを言ってみな』
何がしたいのか分からないし、従う理由もないはずなのに、靭は影の言うことに従った。
「急に下の名前で呼んでくるし、距離感が近い。初めは感情が分かりにくかったけど、ここ最近はよく笑うようになった。」
『ええええ、深海先輩、笑ってたんですか? てっきり、私、深海先輩は冷笑系かと思ってましたよ。それなら、もっと感情を表に出さないと!! え、これが限界? あははは、そんなわけないじゃないですか! え、表情筋硬っ。え、これどうなってるんだろ? あ、ごめんなさい、勝手に触って。え、これで手を拭けって? わたし、潔癖症じゃないですよ?』
元気な女性の声が、突然暗闇に響いた。その声の主は、大げさに驚いたり、大きな声で笑ったり、急に真顔になったり、首を大きく傾げたりと、随分と感情が分かりやすい。
「え?」
靭の中で、あるはずのない女性の記憶が鮮明に浮かんできた。ただ、口元は見えるし、表情も分かるのに、姿がボヤけて見えない。
「なんだ……?」
『続けろ』
有無を言わさぬ口調に、靭は素直に従う。
「……同年代を好いてもないし、好かれてもない。年上の俺に話しかけてきて、流れでペアになったんだ」
『友達が多くて疲れないかって? まったく、疲れませんよ! わたし、人が好きですから! あ、もちろん、深海先輩も好きですよ。え、男にそんなこというなって? 嫌だなぁ、深海先輩にしか言ってないですよ! え、ちょっと、なんで呆れた溜息を吐いてるんですか? あ、もう帰るんですか。じゃあ、私も。え、他の子待ってたんじゃないかって? いやいや、深海先輩を待ってたに決まってるじゃないですか!! 高校生は、早く帰りなさいって? 子ども扱い禁止です! というか、深海先輩だって、高校生じゃないですか!!』
そこは、靭が働いていた飲食店バイトの事務所だ。靭の記憶では、のらりくらりと面倒な人間関係を避けていたはずだった。でも、ここを切り取る限り、そういうふうには思えなかった。さっきと同じ子が、靭に楽しげに話し続けているのだから。
「俺は……何を」
本当に自分の記憶なのかと疑いはするものの、なぜかは分からないが、見たことがある気がする。例えるならデジャヴのような、そんな感じの曖昧な記憶だ。
『まだ、終わっていないぞ』
急かしてくる影の存在に、靭は何も言わずに従う。
「……共同生活は、それなりに楽しかったし、同棲ってこんな感じかというのも理解できた。凛は料理も手伝ってくれたし、私生活もちゃんとしていた。一緒に住んでて、嫌な感じはなかったよ」
『あーあー、早く同棲したいね。え、ちゃんと大学卒業してからにしなさいって? もう、両親と同じこと言わないでよ!まあ、靭くんが同意してくれたからこそ、ママとパパも来年には同棲許してくれるから、いいけどさー。来年同棲したらさ、家事は分担ね! 靭くんは料理で、わたしは他の事! え、バランスがおかしいって? わたし、料理全くできないから、本当に頼むよ! なに、頭はいいし、なんでもそつなくこなすのに、料理ができないのは変? いや、本当に、わたしもそう思うよ。あ、こら、笑わないでよー!!』
男の一人暮らしにはちょうどいい1K。でも二人になると、かなり手狭だ。そんな小さな部屋で、靭の肩に寄りかかる女性。楽しそうに未来のことを話しながら、感情をコロコロと変えている。
「なんだよ……これ」
靭から涙が零れる。懐かしい記憶、忘れてはいけなかったことを思い出したような。意味不明な感情に襲われた。人が目の前で死んでも、死にかけても、恐怖で泣いたことなんてないのに。その人を思い出すと、涙が溢れて止まらない。
「あれ……体が」
いつの間にか、体が存在していた。暗闇のはずなのに、体が見えている。顔に触れば、たしかに存在を感じた。
『これで最後だ。深海靭、最後の言葉を』
影の存在がそういえば、靭は呼吸を整えてからまっすぐと仄かに光る影に言う。
「二人で頑張ってどうにか、ここまで来た。本当に、それだけだ」
『これから大変なこともたくさんあるだろうけどさ、二人で頑張ろうね、靭くん』
「凛……このはな、りん」
女性の姿から、靄が晴れる。
女性にしては背が高い。めちゃくちゃ痩せてる訳でもないし、ふくよかでもない。髪はショートボブ。愛嬌があり感情表現豊か。映画を見れば、ジャンルに合わせた表情を見せる。アクションでは目が釘付けに、感動モノでは人一倍泣いて、恋愛ではニマニマと笑い、コメディは大爆笑、サスペンスでは息を飲み、ホラーは常に怯えるくらいに、分かりやすい。
甘え上手だと思ったら、弱さをひた隠す。我慢強さは人の何倍もある。理不尽があっても、絶対に泣くもんかという強い意志で、一文字に口を結ぶ。でも、時折、我慢の限界を迎えて、一人静かに涙を流す。コミュニティに入るのがうまいのに、変なところには深くは関わらない線引きがある。自立した二個下の女性。
もう一人の、木花凛との記憶が蘇る。同じ高校の三年生と一年生。学校内で関わることはほとんどなかったが、バイト先でよく絡んできた子。彼女が高校二年生の時に告白されたが、「20歳になるまでは」と断った。それでも交友関係は保ったままという歪な関係。さすがに、靭もいずれ諦めると思っていた。連絡も少なくなっていたから。ただ、彼女が本当に20歳になってから改めて告白してきたときは、驚きと笑いが我慢できなかった。その時彼女はとても怒っていたが、最後に靭が真剣に応えると、泣いて喜んでくれた記憶。
どんどん思い出される、彼女との日々。
彼女こそが、本物の【木花凛】だ。
「どうして……忘れてたんだろ」
靭は、ポツリと呟いた。何もなかった靭にとって、【木花凛】は特別な存在だ。自分の全てを懸けてもいいと思えるほどの存在。表には出さないようにしていた独占欲や醜い感情も、それなりにあった。それらもまた、彼が自制していた感情の一つだ。
ここ最近まで、忘れていた負の感情だ。
『これなら……問題なさそうだ』
「……原因か」
『そうだ。お前が【木花凛】をひた隠しにしていた理由、知りたいか?』
「……」
靭の手は震えていた。久しぶりに本来の自分と対面しているような、そんな気分だ。見たくない現実が待っていると、本能が告げている。
でも、それを無視することは、今の靭にはできなかった。
覚悟を決めた靭は、まっすぐに影を見つめ返す。
「……頼む」
声まで震えていた。でも、それでいい。本来の自分は弱い人間だから、あるべき姿に戻るだけだと。
『いい覚悟だ、ジン。お前さんのそういうところ、好ましく思う』
仄かに光っていた影が、人の形を成す。
姿はまだ分からないが、人間ではないことは理解できた。
影の存在が横に手を広げると、床に世界が創造されていく。
下を向けば、過去の靭と【木花凛】が、カフェでお茶をしている光景が広がっていた。
『お前さんが壊れた原因は、そこから先にある』
スン――足場が消えたような感覚。そこから、靭は落ちていった。
『本来のお前さんを取り戻せ、深海靭』
影の言葉を最後に、意識が遠ざかっていった。




