第403話 悪役令嬢のとっておき
悪役令嬢を見事に演じ切り、ゼファーにお預けを言い渡したあの日から五日後。
その日は突然やってきた。
弾むような足音を鳴らし、勢いよく扉を開けたゼファーは歓びの声を轟かせる。
「マーガレットっ! オーロラの実を持って来たよ‼」
ゼファーの手には、硝子の小瓶が掲げられていた。小瓶には、透明な液体に浸された七色に輝くオーロラの実が輝いている。その輝きはまるで、水晶の採光のように美しい。
「これはオーロラの実の砂糖漬けだよ。北部の伯爵から、今しがた献上されたものだ」
椅子から立ち上がったマーガレットは、透明な小瓶を熱心に見つめた。
この七色の輝き。確かにオーロラの実だわ。
季節の外れた稀少価値の高い果物を、こんなに早く探し出すだなんて…………あと半年はいけると思ったのに、予想外よっ。
伯爵が献上したと言ったけど、そんな都合の良いことってあるのかしら?
ま・さ・か、大々的に布告を出したんじゃないわよね。幽閉した私のために、そんなこと……しない、わよね……?
思案に沈んだマーガレットは気づいていないが、硝子の小瓶を通してゼファーが熱い眼差しを送っていた。その眼差しは徐々に熱を孕む。
そしてついに、我慢の利かなくなったゼファーは両手を大きく広げ、マーガレットをひしと抱き寄せた。力強く抱き締めるその腕に、マーガレットの身体は悲鳴を上げる。
うっ……くるじぃ……い、息が……っ…………。
腕を振り解こうにも、賜物の使えないマーガレットの力など男のゼファーに叶うはずもない。マーガレットは対抗するべく顔を上げた。
すると、瞼を閉じた美しい顔立ちのゼファーが唇を寄せていて――声を上げる暇もなく、後方へと仰け反った。
「んなっ、何をするつもりですっ!?」
「何って……皆まで言わせるのかい? ふふ、そんなに驚いた顔をして、君は本当に可愛いな。可愛すぎて、このまま食べてしまいたいくらいだ……ねえ、僕に身を委ねて。悪いようにはしないから」
耳元で蜂蜜のように甘い言葉を囁きながら、ゼファーはマーガレットを見つめ、その高貴な紫色の瞳を水に濡れた宝石のようにとろかせた。
臆することなく、唇を重ねようともう一度近づけてくる。
くっ、このままだと……
こうなったら、また悪役令嬢作戦を決行するしかないわ。
身動きの取れない抱擁の中、ゼファーの腕の隙間から右手だけが自由を手に入れた。右手はそのまま、ゼファーの顎に手を添え、悪役令嬢の如く毅然とした態度で告げる。
「私の許可なく触れるなんて、百年早いわ。また引っ叩かれたいのかしら? オーロラの実を持参したら、お茶会をしましょうとは言いましたが、唇を許すとはひと言も口にしておりません!」
「マーガレット、そんな意地悪を言わないでくれ。あの日触れた君の唇が忘れられないんだ。一瞬だけでいい。君のそのぬくもりに触れることを許してほしい……どうか、僕を拒まないで」
その王家の証たる紫水晶の瞳を涙で濡らし、声を震わせながら縋るように懇願した。だがゼファーは、隙あらば唇を奪おうと獣のように目を光らせる。
下心を察知したマーガレットは、凍てつくような視線を返すのみだった。
『あの日触れた君の唇』って、私が弱っていた時に無理やり奪ったアレのことを言っているの?
腰の芯からぞわりとした寒気が駆け上がり、蠢く恐怖に背すじが震える。
結局、私が悪役令嬢を演じてみても、都合の良いようには変わらない、か……。賜物を封じられた私の力では、ゼファーの腕を振り解くことはできないし。
うーん、一体どうやってこの危機を乗り越えればいいの…………うーん、うぅーん。
悩んだ末、覚悟を決めたように、大きく目を見開く。マーガレットは、唇を歪めて不敵な笑みを浮かべた。
「ねえ、ゼファー? もし、腕を解いてくれるのなら……私があなたに、とっておきのご褒美を差し上げましょう」
「……え、ごほうび?」
胸の奥に、言い知れぬざわめきが走った。ゼファーの淡い隙を見逃さず、まるで畳み掛けるようにマーガレットはさらに言葉を重ねた。
「そうですわ。あなたもきっとだぁいすきな、私からのとっておき……欲しくありませんこと?」
マーガレットの甘やかな囁きに、ゼファーは身をよじらせる。
だぁいすきなマーガレットのとっておき――未知の言葉に紫の瞳を細め、陶酔に浸るような表情が覗く。
マーガレットのぬくもりを手放したくないという葛藤に抗いながら、ゆっくりと、ゆっくりと、腕を解いていく。唇を結び、瞳に涙を浮かべる様子は、まるでお気に入りの玩具を奪われた幼子である。
ゼファーの胸に手を当て、マーガレットは無慈悲に突き放した。女王の如く威厳を纏った笑みを、口元に刻んだ。
「ふふ、よくできました、ゼファー。ではさっそく、そこの椅子に腰掛けなさい」
女王のような振る舞いに、胸が高鳴る。ゼファーはその場に跪きたい衝動に駆られたが、マーガレットの指示した椅子へと腰を下ろした。
そんな元婚約者を嘲笑うようにマーガレットは目を細め、ホワイトブロンドの髪にそっと手を滑らせた。そして、髪を梳くように優しく撫で始める。
「オーロラの実をこんなに早く探し出すなんて、偉いですわ。いい子、いい子……とってもいい子で私も鼻が高いです」
瞬間、ゼファーの瞳の奥で、星が爆ぜるように煌めいた。興奮のあまり、身体が小刻みに震え出す。
ああっ、マーガレットがっ……マーガレットが僕の頭を撫でながら「いい子いい子」と褒めてくれている。
こんなのまるでっ…………僕が彼女に恋に落ちたパーティの夜のようだ……!
あの時とは違う、大人になったマーガレットに撫でられて……。
僕は僕は、僕はっ……ふぅふふっ……。
それは荒ぶる鼻息とともに、見えない尻尾でも振っていそうなほど、ご機嫌であった。
あ、どうやら満足したみたいね。
それじゃあ……。
ホワイトブロンドの髪からそっと手を離した。すると、ゼファーは名残惜しそうに顔を曇らせ、切なさを滲ませた。
「あ、もうやめてしまうの……僕はもっと、ご褒美が欲しいな。ねえ、マーガレット。もっと撫で、て……?」
涙を潤ませ、恥じらうように上目遣いで必死に訴えている。二十六歳の成人男性が口にしたとは思えぬ言葉に、マーガレットは氷像のように硬直した。
ん、んんん―――?
ゼファー殿下ってこんな人だったかしら。まるで人が変わったみたいに別人で、悪役令嬢を演じている私のほうが困惑するのですけど。
ゼファーの懇願虚しく、悪役令嬢の仮面を被ったマーガレットはぷいっと顔を背けると、突っぱねるように言い放った。
「ダメですわ! 私にくちづけをしようとした罰です。あれがなければ、もう少し撫でて差し上げましたのに……あなたのせいですわよ、ゼファー?」
この世の終わりのように、ゼファーは肩を落とした。
「うう……わかった。ごめん、マーガレット。どうか機嫌を直して? そうだ、オーロラの実を食べようか……じゃあお茶の準備を」
ゼファーは両手を打ち鳴らす。
すると半分開いていた扉から、ミモザとメアリーが顔を覗かせ、ティーワゴンを引いて入室した。
室内は、みるみるうちに茶会の装いへと変化していく。




