第8話 熱帯夜のサイレン
七月下旬。
連日三十五度を超える凄まじい猛暑日が続いていた。
街全体が逃げ場のない熱気に包まれている。
病院の外の幹線道路からは、絶え間なく救急車のサイレンの音が響き渡っている。
中庭のセミたちが命を振り絞るような蝉時雨を容赦なく降り注いでいる。
四階の緩和ケア病棟の中はエアコンが効いているものの、厳しい暑さは患者たちの体力をじわじわと削り取っていた。
発汗による脱水や皮膚のかぶれ、褥瘡リスクの増加、体位変換のケアが急増した。
ナースステーションは朝から目まぐるしい忙しさだった。
「陽子さん、306号室の北村さん、昨夜はあまり眠れなかったみたいです。汗もお伺いするたびにびっしょりで・・」
あゆみが朝の申し送りで報告すると、実務リーダーの藤井陽子がカルテをめくりながら頷いた。
「北村さんは元長距離トラックのドライバーさん。若い頃から我慢強い方だから痛みを口に出さないのよね。でも、骨転移の痛みは我慢でどうにかなるものじゃないわ。今日のバイタルチェック、注意して見てあげてね」
木下あゆみは、検温用のバイタルカートを押し、額の汗を拭いながら『306号室』の引き戸を開けた。
カートの車輪が床を転がる音と、エアコンから吹き出す微かな冷気の音が部屋の中に吸い込まれていく。
病室の中では、前立腺がんの多発性骨転移を抱える北村繁(六十四歳)が、ベッドの上で脂汗を浮かべ、歯を喰いしばって耐えていた。
大腿骨と腰椎に転移したがん細胞が骨膜を刺激し、身体をわずかに動かすだけでも電気が走るような激痛が襲う。
あゆみは一瞬、息を詰めて足を止めた。
病室に満ちているのは、単なる病状の重さだけではない。
痛みに耐える患者の孤独な戦いと、それを見守るしかないご家族の張り詰めた緊張感が、部屋の空気を重く押し潰していた。
「北村さん・・痛みはどうですか?」
あゆみが声をかけても、北村は答えることができなかった。
激しい痛みに耐えるように固く目を閉じ、浅く荒い呼吸を繰り返していた。
シーツを握りしめる北村の手指は白く強張っている。
ギリ・・と歯を噛み鳴らす音が聞こえる。
バイタルを測定した。
激痛による交感神経の緊張で血圧は160/95mmHg、脈拍は110回を超えていた。
ベッドの脇には、一晩中眠れずに看病していた疲れ切った表情の妻・和江(六十歳)と、長女の美咲(三十二歳)が寄り添っていた。
「看護師さん・・夫の痛み、何とかしてあげられませんか。体を少し拭いてあげようとするだけでも『痛い!』って叫ぶんです。可哀想で・・」
和江が泣き出しそうな声で訴え、あゆみは胸を痛めた。
「佐藤先生と乾薬剤師を呼んできます。痛みを和らげるお薬の調整を行いますから」
ナースステーションに戻ったあゆみは、病棟医長の佐藤健介と、薬剤師の乾達也に北村の骨転移痛の増悪を報告した。
佐藤医長と乾薬剤師は、北村のオピオイド投与履歴と痛みスケール(NRS 8)を確認し、すばやく方針を検討した。
「ベースのフェンタニル持続皮下注の投与量を、現在の1.5倍にタイトレーション(漸増)しましょう。さらに骨転移痛に対する補助鎮痛薬として、破骨細胞を抑えるゾレドロン酸の点滴と、ステロイドの静注を併用します」
佐藤医長が指示を出し、乾薬剤師がアンプルケースから医療用麻薬のガラスアンプルを取り出そうとしたその時だった。
病室からナースステーションへ追ってきた娘の美咲が、スマートフォンを固く握りしめ、震える声で叫んだ。
「待ってください! お薬を増やすのは絶対にやめてください!」
ステーションの空気が凍りついた。
キーボードを叩いていた陽子や瀬戸も手を止め、振り返った。
あゆみが振り返ると、美咲はスマホの画面を掲げ、涙を浮かべながら佐藤医長に強く抗議した。
「医療用麻薬をこれ以上増やしたら、父の意識がなくなって、ずっと眠らせられたままになってしまうじゃないですか! ネットで調べました・・『麻薬の増量は命を縮める』『意識を奪ってお別れもできなくなる』ってあります! 私たちはまだ父と話したいんです! 父の意識を奪わないでください!」
美咲の切実な訴えに、佐藤医長も乾薬剤師も静かに耳を傾けた。
痛みを完全に消すために麻薬を増やせば、一時的な傾眠(眠気)が出やすくなる。
だが、麻薬を控えれば激痛で会話どころではなくなる。
「痛みの緩和(QOLの維持)」と「意識の清明さ(家族との会話)」の狭間で揺れる家族の葛藤。
それは、緩和ケアの現場で幾度となく繰り返されてきた切ない板挟みの構図だった。
美咲は泣いていた。
和江も夫の病室の方向を向きながら肩を落とした。
あゆみはどう言葉をかけていいのか分からず、立ち尽くすしかなかった。
(家族にとって、麻薬の増量は『お別れの始まり』に見えてしまう・・その恐怖は、いくら医療者が正論を言っても拭えない・・)
その時、ナースステーションの奥から、すっと静かな足取りで一人の女性が現れた。
メディカルソーシャルワーカー(MSW)の市川沙織(三十三歳)だった。
フォーマルなジャケットを上品に着こなし、柔らかな笑みを絶やさない市川は、家族のケアや退院調整、経済的支援を担当する専門職のプロだ。
市川は美咲の肩に優しく手を置いた。
「美咲さん、お母様。少し静かな面談室で、お話を聞かせていただけますか」
市川は二人を静かな相談室へ促し、温かいカモミールティーを淹れた。
あゆみも市川に目配せされ、同席することになった。
エアコンの静かな風が流れる相談室。
市川は手元のお茶から立ち上る湯気を静かに見つめた後、美咲と和江の目をまっすぐに見つめ、穏やかな声で語りかけた。
「美咲さん、お父様と話せなくなるのが怖いというお気持ち、痛いほどよく分かりますよ。ネットの情報を見て、不安になられたのですね。お父様を心から愛していらっしゃるからこその大切なご不安です」
美咲は涙を拭いながら、うつむいて絞り出すように言った。
「・・だって、麻薬って怖いじゃないですか。ネットにも『意識を失う』って書いてありました・・眠らせて、そのまま父が遠くへ行っちゃうなんて嫌です・・本当は、父が冷たくなっていくのが怖くてたまらない・・」
市川は優しく頷き、しばらく黙っていた。
美咲の胸の奥にある悲しみと恐怖を受け止めるための温かい沈黙だった。
「そう思われるのは、とても自然なことです。でもね、美咲さん。今のお父様のご様子を見てあげてください。激しい痛みに耐えるあまり、お父様は会話をする余力すら奪われてしまっていますよね?」
美咲と和江がハッとしたように顔を上げた。
「激しい痛みそのものが、実はお父様の体力を激しく削り、脳を疲弊させて会話の自由を奪ってしまうのです。私が以前担当した患者様でもね、麻薬を怖がって我慢された結果、最期まで痛みに苦しんでお話しできなかったご家族がいらっしゃいました。医療用麻薬を適切に増量して痛みをゼロにしてあげれば、お父様は眠りこけるのではなく、むしろ痛みの恐怖から解放されて、穏やかにお二人と会話ができる時間を取り戻せるのですよ」
市川は手元の資料を示しながら、丁寧に言葉を重ねた。
「痛みを我慢させることが、お父様への愛ではありません。痛みをしっかり取り除いて、ご家族で話し合える貴重な『今』を作ること。それが、私たちが目指す緩和ケアです。乾さんというお薬のプロが、意識が朦朧としないギリギリの量をミリ単位でコントロールしてくださいます。私達を信じて、お父様を痛みから解放してあげませんか」
市川の温かく確信に満ちた言葉に、美咲と和江の瞳からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
不安と恐怖に固まっていた二人の心が、市川の説明で優しく解きほぐされていくのをあゆみは実感していた。
「・・わかりました。お願いします。父を、楽にしてあげてください・・」
美咲が深く頭を下げた。
すぐに北村の病室で、麻薬のベースアップと補助鎮痛薬の投与が開始された。
乾薬剤師はガラスアンプルの首を折り、専用ポータブルシリンジポンプの投与速度を精確に再設定した。
血中濃度が急激に上がりすぎないようタイトレーションを施す。
高橋医師はゾレドロン酸の点滴ラインを確保した。
佐藤医長とあゆみは、北村の大腿骨と腰椎に負担がかからないよう、体圧分散クッションを使い、丁寧なポジショニングを行った。
三十分後。
劇的な変化が訪れた。
あれほど脂汗を流し、身体を強張らせていた北村の表情から、激しい苦痛の色がすーっと去っていった。
固く結ばれていた眉間の皺が解け、深くて静かな呼吸が戻ってきた。
血圧も125/78mmHg、脈拍も72回と、正常範囲へと落ち着いていく。
十五分後、北村はゆっくりと目を開けた。
意識は途絶えるどころか、むしろハッキリとしていた。
痛みの引いた穏やかな瞳でベッド脇の妻と娘を見つめた。
大腿骨の激痛が消えたことで、身体の位置を少し動かす余裕すら生まれていた。
「・・和江・・美咲・・」
「あなた、 痛くない!?」
和江が驚いて駆け寄ると、北村は穏やかに微笑んだ。
「ああ。不思議なくらい、痛みが消えた。身体が軽くなったみたいだ・・」
「お父さん・・!」
美咲が北村の手を両手で握りしめ、ボロボロと嬉し涙をこぼした。
北村は力強く娘の手を握り返した。
「心配させてごめんな。昔、みんなで行った夏の伊豆の海・・白い砂浜と波の音、覚えてるか。美咲が小さかった頃、スイカ割りしたな」と優しく語りかけた。
美咲は泣きながら、「覚えてるよ、お父さん・・またみんなでお話ししようね」と頷いた。
病室には、さっきまでの重苦しい緊張が嘘のような、温かく穏やかな家族の時間が流れていた。
あゆみは病室のドアの脇で、その光景を胸を熱くして見つめていた。
痛みを消すことによって生まれた、愛おしい家族の時間。
市川MSWの粘り強い対話と、乾薬剤師の完璧な投薬コントロールが、この時間を作り出した。
あゆみは窓のカーテンの隙間を少し整え、沈みゆく夏空の茜色を見つめながら、静かに息を深く吐いた。
夕暮れ時。
外の酷暑が少しずつ和らぎ、空が深い群青色へと染まり始めていた。
ナースステーションでは、瀬戸が買ってきてくれたアイスキャンディーをかじりながら、スタッフたちが束の間の安らぎを分かち合っていた。
「北村さん、痛みが引いて本当によかったですね! 奥さんも娘さんも笑顔になって」
あゆみが嬉しそうに言うと、瀬戸がガリガリとアイスをかじりながらニッと笑った。
「だろ? 現場は戦場だけど、あの笑顔見られたら疲れも吹き飛ぶよな!」
あゆみはベランダに出て、市川MSWに温かい缶コーヒーを手渡した。
「市川さん、今日の面談、本当にすごかったです! ご家族の不安をあんなに丁寧に解きほぐして、北村さんとご家族の笑顔を取り戻すなんて・・」
あゆみが興奮気味に言うと、市川は缶コーヒーを受け取り、目元を和ませて楽しそうに笑った。
「ふふ、ありがとう木下さん。でもね、医療用麻薬への恐怖や抗議って、ご家族が患者さんを心から愛しているからこそ生まれる『心の叫び』なのよ」
市川はベランダの向こうに広がる夜景を見つめた。
「医療の正論を押し付けるのではなく、ご家族の『置いていかれる恐怖』に寄り添うこと。身体の痛みは佐藤先生や乾さんが治し、心の痛みは私たちがケアする。それが、私たちのチーム医療でしょ」
「はい・・!」
あゆみは力強く頷いた。
遠くの幹線道路から、再び熱帯夜のサイレンの音がかすかに聞こえてきた。
激しい夏の暑さと多忙さの中、この病棟では、チームのプロたちがそれぞれの持ち場で全力を尽くし、命と家族の絆を守り続けている。
あゆみは冷たい缶コーヒーを一口飲み、北村の病室から聞こえる穏やかな笑い声に耳を澄ませた。
そして、ふたたび過酷な現場へと踏み出していった。




