第7話 春の終わりに
五月の上旬。
八十八夜を過ぎた。
病院の中庭を彩っていた新緑は、日ごとに深く濃いものへと色を変えていた。
開け放たれた病棟の窓から吹き込む風には、初夏の訪れを告げる青葉の力強い匂いと、爽やかな光の粒子が満ちている。
四階の緩和ケア病棟『302号室』。
春の終わりとともに一つの大きな命の節目が訪れようとしていた。
あゆみは、朝の申し送りを終えたナースステーションにいた。
真山拓海(25歳)の最新の血液データと看護記録を見ていた。
画面には、急激に進行している病状の悪化を示す数値が並んでいる。
『302号室 真山拓海様(25歳)。胃がん腹膜播種の進行に伴い、難治性腹水貯留著明。腹囲前日比+4cm。黄疸(総ビリルビン値6.8mg/dL)、AST/ALT上昇、肝不全・腎不全症状進行。少尿傾向(24時間尿量150ml)。意識レベルJCS II-10(傾眠傾向)。難治性の腹部苦痛および呼吸苦に対し、病棟医長・佐藤医師の指示にて、オピオイド増量およびミダゾラム(持続皮下鎮静)の導入を決定』
「拓海さん・・こんなに急に・・」
あゆみは胸の奥がギュッと締め付けられるような激しい痛みを覚えた。
二週間前、オピオイドの持続投与で痛みが和らいでいた。
手ぬぐいの温もりを喜んでくれたあの笑顔。
しかし、がんの進行は若さゆえに容赦なく、彼の身体を侵食していた。
申し送りの後、緩和ケア医長の佐藤健介、担当医の高橋律、薬剤師の乾達也、実務リーダーの藤井陽子、そしてあゆみがナースステーション奥のカンファレンスルームに集まった。
難治性の腹部苦痛と横隔膜圧迫による呼吸不全について、苦痛緩和を目的とした終末期鎮静(持続皮下鎮静)の導入についての倫理カンファレンスが行われた。
「拓海さんは、すでに多臓器不全の段階に入っています。意識を人工的に穏やかな眠りに導くミダゾラムの持続投与を行い、苦痛を完全にゼロにしましょう。ご家族にもすでにご説明し、同意をいただいています」
佐藤医長の落ち着いた言葉に、高橋医師とあゆみは真剣な表情で頷いた。
全員で302号室に入った。
春から初夏へと移り変わる柔らかな日差しが注いでいた。
佐藤医長は大造の時と同様、穏やかな目で拓海のパンパンに膨らんだ腹部をそっと触診し、胸の音を聴診器で確かめた。
「拓海さん、少しお腹が張って苦しいよね。楽になるお薬を追加して、ぐっすり眠れるようにしようか」
ベッドの上の拓海は、皮膚が黄色みを帯び(黄疸)、薄く目を開けてうっすらと頷いた。
意識は朦朧としていたが、佐藤医長の声に安心したように表情を緩めた。
「ミダゾラムの持続皮下注ラインを確保します。乾さん、調剤をお願いします」
「了解しました、高橋先生。鎮静薬ミダゾラムアンプル、流量計算完了しています」
乾薬剤師が手際よくアンプルから無色透明の薬剤を吸い上げ、専用のシリンジポンプにセットする。
高橋医師は拓海の胸元の皮下に新しい専用針を慎重に刺入し、透明なテガダームフィルムで固定した。
あゆみはその横にいた。
拓海の血圧、心拍数、酸素飽和度を注意深くモニター観察しながら、点滴の速度を記録した。
チチチ・・とポンプが小さな駆動音を立て、鎮静薬が拓海の身体に注入されていく。
「木下さん・・」
掠れた声で名前を呼ばれた。
あゆみは弾かれたように拓海の顔を見つめた。
「はい! 拓海さん、ここにいますよ」
拓海は力なく上がらない右手を、ベッド脇のサイドテーブルへ向けた。
そこに、最初に出会った時からずっと置かれていた読みかけの文庫本と、使い込まれた革のしおりがあった。
あゆみはそっと文庫本を取り、拓海の細くなった手に持たせた。
拓海は愛おしそうに本と革のしおりを撫で、小さく微笑んだ。
「これ・・母さんに・・手渡して・・。僕が病気になる前に・・母さんからもらった・・大切な本・・」
「わかりました。絶対に、お母様にお渡ししますからね。約束します」
あゆみが静かに答えると、拓海は安心したように重い瞼を閉じた。
鎮静薬の効果とともに深い眠りへと落ちていった。
それから数時間後の午前十時前。
拓海の容体が急速に沈降した。
病室には急報を受けて駆けつけた拓海の母親(四十八歳)とあゆみ、高橋医師が立ち会っていた。
拓海の呼吸は下顎呼吸へと変わり、一定の間隔を空けて肩で息を吸い上げる。
母親は拓海の冷たくなった手を両手で強く握り締めた。
涙をボロボロとこぼしながら声をかけ続けていた。
「拓海、よく頑張ったね・・えらかったね・・もう苦しまなくていいんだよ・・お母さん、ずっと側にいるからね・・少年野球の時も、高校の時も、拓海はいつもお母さんの自慢の息子だったよ・・」
あゆみは拓海の足元に立ち、涙で視界が歪むのを必死でこらえた。
パルスオキシメーターの波形と心拍数の低下をじっと見守っていた。
下顎呼吸の間隔が、十秒、二十秒、三十秒とゆっくり伸びていく。
病室を静寂が包み込んだ。
午前十時四十五分。
拓海は母親の手の中で、静かに、まるで深く眠るように最後の息を吐き出した。
ラスト・ブレスだった。
その瞬間、拓海の閉じられていた瞼が微かに開いた。
母親とあゆみの姿をその瞳に映したような気がした。
高橋医師がペンライトで両眼の瞳孔散大(径5.0mm・固定・対光反射消失)を確認した。
ステトスコープ(聴診器)を心尖部に当てて一分間の完全な心音停止を確かめた。
それから、静かに死亡宣告を行った。
「十時四十五分、真山拓海さん、ご臨終です」
母親が拓海の胸に顔をうずめて泣いた。
あゆみは深々と頭を下げた。
胸の奥から激しい悲しみと虚無感が湧き上がった。
病室をそっと出た。
ナースステーションの奥にある静かな備品庫に入った。
引き戸を閉め、あゆみはその場にしゃがみ込んだ。
両手で顔を覆って泣いた。
拓海は自分と同世代の二十五歳だった。
最初に出会った時の怯え、手に触れた時の温もり、足浴の挫折・・すべての記憶が怒涛のように押し寄せてきた。
涙が溢れた。
「看護師なのに・・プロなのに・・こんなに泣いちゃダメなのに・・」
そのとき、備品庫のドアが静かに開いた。
「木下さん」
落ち着いた柔らかい声が聞こえた。
あゆみが顔を上げると、そこに立っていたのは臨床心理士(公認心理師)の穂高彩香だった。
穂高は、温かいカモミールティーの入った紙コップを持っていた。
あゆみの隣にそっと腰を下ろした。
「穂高先生・・すみません、私、看護師失格です・・患者さんの前で泣いちゃいけないのに、こんな風に崩れてしまって・・」
あゆみが涙を拭いながら消え入るような声で言った。
穂高は温かいハーブティーをあゆみに手渡し、穏やかな目であゆみを見た。
「木下さん。自分を責めないで」
穂高の声は、あゆみの心を優しく包み込んだ。
「看護師だって、一人の人間よ。拓海さんの痛みに本気で向き合って、彼の人生の最後の伴走者として一生懸命ケアをしてきたからこそ、涙が出るの。その涙は、決して間違いでも、未熟さの証でもないわ」
「間違いじゃない・・ですか?」
「ええ。患者さんを看取った時に流す涙はね、その患者さんが確かにこの世に生きて、あなたと心を触れ合ったという『命の証』を、あなたの胸に刻むための大切な涙なのよ。悲しむ自分を許してあげなさい。グリーフワークを経て、看護師はもっと優しく強くなれるの」
穂高はあゆみの肩を優しく撫でた。
「大切なのは、泣いた後に、悲しみを抱えながら患者さんの最期を美しく整えてあげることよ。それが、残されたご家族への最大のグリーフケアになるのよ」
穂高の言葉が、あゆみの胸に染み渡った。
固まっていた心がすーっと解けていった。
あゆみは深呼吸をし、紙コップの温かいハーブティーを飲み干した。
そして、涙を拭った。
「穂高先生、ありがとうございます・・拓海さんのエンゼルケアに行きます」
あゆみは302号室に戻った。
恵子師長、そして拓海の母親とともに、拓海のエンゼルケアを始めた。
温かいお湯で拓海の細い身体を丁寧に拭った。
皮膚の乾燥を防ぐ保湿クリームを塗った。
あゆみは、拓海の母親と一緒に、彼が病気になる前に愛用していたカジュアルなチェック柄の長袖シャツとジーンズへ着替えさせた。
拓海の顔に、電気シェーバーで綺麗に身だしなみを整えた。
そして、自然な肌色を取り戻すエンゼルメイクを施した。
やつれていた頬にほんのりと赤みが戻った。
口元を穏やかな微笑みに整えた。
すべての処置が終わった。
拓海はまるで今にも「木下さん」と声をかけてきそうなほど、爽やかで透明感のある青年の姿に戻っていた。
母親は涙を拭いながら、息子の顔を愛おしそうになでた。
「拓海・・すごくカッコいいよ。木下さん、本当にありがとうございます。拓海はね、木下さんが担当になってくれて、すごく安心していましたよ」
「ありがとうございます。お母様・・これ、拓海さんからお預かりしていたものです」
大切に抱えていた拓海の文庫本と革のしおりを、母親にそっと手渡した。
母親はその本を胸に抱きしめた。
そして、深く頭を下げた。
「ありがとうございます・・拓海が大切にしていた本です。宝物にします」
午前十二時過ぎ。
ストレッチャーに乗せられた拓海がご家族とともに病棟を出発する時刻となった。
ナースステーションの前には、恵子師長、陽子、瀬戸、高橋医師、乾薬剤師、そしてあゆみが一列に並んだ。
深く静かに頭を下げて見送った。
「拓海さん、ありがとうございました・・」
あゆみは心の中で深く感謝を捧げた。
拓海のいなくなった302号室は、綺麗に清掃された。
南向きの大きな窓から初夏の眩しい太陽の光が降り注いでいた。
あゆみは病棟の東側にあるベランダに出た。
爽やかな初夏の風が吹き抜けていた。
中庭のソメイヨシノの枝には、青々とした葉が力強く繁っている。
桜はすっかり散ってしまったが、命のバトンは確実に次の季節へと受け継がれた。
ベランダの手すりに両手を置き、初夏の眩しい青空を見上げた。
一年前、不安と恐怖で氷のように冷たかった自分の両手。
今、その手には、拓海や大造から受け取った「沈黙の温度」と「命のぬくもり」が、確かに残っていた。
「拓海さん・・明日も、私、笑顔で頑張ります」
爽やかな初夏の風を全身に浴びながら、力強く呟いた。
春の終わり。
新人看護師としての最初の季節を駆け抜けた。
看護師としての誇りと、病棟の日常へ向かう静かな決意が満ちていた。




