第6話 夜のしずく
四月も最後の夜を迎えていた。
窓の外は深い深い深夜の静寂に包まれている。
時折吹き抜ける春の夜風が、病院の中庭に茂る新緑の葉をさやさやと繊細な音で揺らしている。
深夜一時。
四階の緩和ケア病棟のナースステーション。
木下あゆみは担当患者である宮本大造のモニター数値を見つめていた。
血圧は80/40mmHgまで低下し、脈拍は50回の徐脈。
パルスオキシメーターの波形は平坦化し始めている。
身体の深部から命の灯火が少しずつ引き潮のように遠のいていく、後戻りのないプロセスが始まっていた。
「あゆみちゃん、宮本さんのバイタル落ちてきたわ。今夜が峠かも・・」
実務リーダーの藤井陽子が、静かな声であゆみの肩に手を置いた。
「ご家族にはすでに連絡入れたわ。でも、到着されるまでもう少し時間かかりそう。あゆみちゃん、お部屋についてあげてね」
「はい、行ってきます」
あゆみは、処置室からステンレス製のガーゼ缶、微温湯を入れた容器、口腔保湿用グリセリン、そして綿棒と柔らかいガーゼなどを用意した。
静かに『307号室』の引き戸を開けた。
病室の中は、張り詰めているけれど、どこか静謐な空気に満たされていた。
部屋の照明は落とされている。
足元を照らすフットライトと、間接照明の柔らかな琥珀色の光だけが室内を静かに照らしている。
ベッドの上では、元宮大工の宮本大造が、静かに横たわっていた。
二日前まであゆみや高橋医師に向かって「触るな! 帰れ!」と怒鳴り散らしていた。
あの声はいまは影を潜め、身体の深部から命の灯火が静かに遠のいているようだった。
あゆみはベッドサイドの丸椅子を引き寄せ、大造の傍らに身を寄せるように座った。
ピンセットでガーゼを微温湯に浸し、軽く水分を絞るった。
大造の乾いてカサカサになった唇と口腔内をそっと拭った。
ポチャ・・と、水面が揺れる小さな音が病室の沈黙に落ちた。
大造の呼吸は、一時間ほど前から『下顎呼吸』と呼ばれる終末期特有のパターンに変わっていた。
胸や腹部の上下運動はほとんど消えていた。
顎を小さく上下させるように肩でかすかに空気を吸い上げる。
すう・・ふう・・。
ぽかり、ぽかりと、数秒の間隔を空け、呼吸の音が静まり返った病室に一定のリズムで聞こえた。
「木下さん、オピオイドの持続投与量を少しだけ微調整したよ。痛みのシグナル(表情の強張りや脈拍の跳ね)は出ていないね」
静かな足音とともに病室に入ってきたのは、緩和ケア医の高橋律と、薬剤師の乾達也だ。
乾はペンライトで、ポータブルシリンジポンプの積算量と投与速度を静かに確認した。
輸液ラインの途中に気泡や屈曲がないかを目で確かめた。
チチチ・・というシリンジポンプの極めて小さな駆動音が、病室の静けさに溶けていた。
高橋医師は大造の胸元にそっと手を当てた。
心拍の不規則なリズム、手足の先から始まりつつある皮膚の温度低下を静かに察知した。
「高橋先生・・宮本さん、苦しくはないでしょうか」
あゆみが声を潜めて尋ねると、高橋医師は穏やかな目をして首を振った。
「大丈夫だよ。脳の酸素代謝が低下して、今は意識の深い眠りの中にいる。痛みも息苦しみも、乾さんが微調整してくれた薬で完全にコントロールされている。彼は今、とても穏やかな時間にいると思うよ」
乾も静かに頷いた。
「手足の先から少しずつ冷たくなっているのは、命が自然に巡りを終えようとしている証しだよ。木下さん、ずっと側にいてあげてね。人間の聴覚は最期まで残ると言われているから、声をかけてあげて」
「はい・・」
二人はあゆみに優しく目配せをすると、音を立てずに病室を出て行った。
引き戸がカラカラと静かに閉められた。
部屋には再びあゆみと大造の二人だけの時間が訪れた。
深夜二時半。
病室の静けさは、さらに深みを増していった。
壁掛け時計の針が刻むチクタクという小さな音。
大造の静かな下顎呼吸の音だけが、夜の空気の中に浮かんでいた。
あゆみは大造の右手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
長年の看護観察の教えに従い、末梢循環の観察を行う。
足先や指先はすでに冷たく、爪床は紫色を帯びていた。
膝頭には網状皮斑と呼ばれる紫色の斑点が現れ始めていた。
命の終わりが刻一刻と近づいていることを示していた。
五十年の間、鉋を引き、ノミを振るい、巨大な寺社の木組みを支えてきた職人の手。
皮膚は硬く乾き、爪の根元には無数の作業傷が刻まれている。
その手のひらは、あゆみの手よりも少しだけ冷たくなっていた。
肌の奥には確かな生きてきた人間のぬくもりが、確かにに残っている。
あゆみは濡らしたガーゼで、大造の唇をもう一度優しく湿らせた。
「宮本さん・・お茶、美味しかったですね。師長と一緒に飲んだお茶・・」
語りかけると、大造の喉の奥から、かすかな空気が漏れるような音が返ってきた。
昼間、恵子師長に「木の心を知るのが大工よ」と誇らしげに語っていた大造の横顔。
あゆみの脳裏に鮮やかによみがえった。
あの時、彼が見せた職人としてのプライドと優しい笑顔が、この静かな病室を温かく満たしているように思えた。
呼吸の間隔が、さらにゆっくりになっていく。
十秒に一回。
十五秒に一回。
二十秒に一回。
息を吸い込み、吐き出すまでの時間が、時計の針がゆっくりと速度を落としていくように引き延ばされていく。
(旅立とうとしている・・)
あゆみの胸の奥が激しく波打った。
恐怖や焦りではない。
その場にいることの尊さに、息を呑むような静謐な感情が込み上げていた。
午前四時十五分。
決定的な瞬間が訪れた。
大造の呼吸が、止まった。
十秒、二十秒・・三十秒。
静寂が部屋を満たしていた。
息を詰めて見つめていると、大造の胸が最後に一度だけ、大きく上がった。
そして、すうーっと長い息が吐き出された。
ラスト・ブレス(最後の呼吸)だった。
そのとき、大造の閉ざされていた目が、かすかに開いた。
色素の薄れた灰褐色の瞳。
ベッドの脇で手を手繰り寄せているあゆみをまっすぐに捉えたような気がした。
大造の口唇がかすかに動いた。
喉の奥からしずくのような声がこぼれ落ちた。
「・・あり・・がとう・・な・・」
大造がこの世に残した最後の言葉だった。
静かに瞼が閉じられ、大造の胸の動きが完全に停止した。
流れていた時間が、ぴたりと静止したかのような圧倒的な静けさが訪れた。
涙が、あゆみの頬を伝って一滴、大造の手の上にこぼれ落ちた。
そこには叫びも、苦悶の表情もなかった。
ただ、一つの仕事をやり遂げた後のような、静かで深い安らぎが広がっていた。
あゆみは静かにナースステーションへ向かった。
高橋医師と山中恵子師長に看取りを伝えた。
高橋医師、恵子師長、あゆみが307号室に入った。
高橋医師はポケットからペンライトを取り出した。
大造の両目の瞳孔対光反射を確認した。
瞳孔は左右ともに散大し、径5.0ミリで固定、光に対する反応はない。
続いて、ステトスコープ(聴診器)のアタッチメントを胸元に当てた。
心音と呼吸音の完全な停止を、一分間じっと耳を澄ませて確認した。
橈骨動脈や頚動脈の脈拍触知もない。
診察を終えた高橋医師は、腕の腕時計に視線を落とし静かに告げた。
「午前四時二十一分。宮本大造さんの死亡を確認しました」
高橋医師は大造に向かって深く頭を下げた。
大げさな悲鳴や取り乱す声はない。
すべてが静かだった。
連絡を受けて駆けつけた大造の長男夫婦が病室に到着した。
息子は大造の穏やかな寝顔を見た。
感極まったようにベッド脇にひざまずき、大造の手を握りしめた。
「親父・・苦しくなかったか。いい顔してる・・」
息子夫婦が涙を拭う中、恵子師長があゆみの肩に優しく手を置いた。
「木下さん、ご家族と一緒にエンゼルケアに入りましょう」
「はい・・」
部屋の照明が明るくされた。
恵子師長とあゆみによるエンゼルケアが始まった。
恵子師長の手つきは、どこまでも優しく、そして丁寧だった。
まず、腕に留置されていた点滴の針を慎重に抜き取った。
アルコール綿で圧迫止血した後、目立たない小さな保護テープを貼った。
電気シェーバーを取り出し、大造の顎や鼻下の伸びた白髪の髭を丁寧に剃った。
チリチリ・・という小さなシェーバーの音が響いた。
大造の顔立ちが引き締まった。
温かいお湯を張った洗面器とバスタオルを用意し、全身を清めていく。
あゆみは恵子師長の手順に合わせた。
大造の顔や首筋、耳の後ろ、胸部、そして長年の職人仕事で硬くなった両手を温かいタオルで優しく拭いた。
「宮本さん、お疲れ様でした。本当に見事な人生でした・・」
恵子師長は大造の顔を拭きながら、生きている人に語りかけるのと同じように優しく声をかけた。
鼻腔や口腔内に衛生的な青綿を詰めて液体の漏出を防いだ。
顎が下がらないようにあごバンドで固定した。
口元を微かに引き上げた。
穏やかな微笑みを浮かべているようなエンゼルメイクを施していく。
血色のなくなった頬に、ほんの少しだけ自然な赤みを差した。
大造の表情が生き生きと蘇った。
ご家族が用意した、大造が昔よく着ていたという紺色の紬の和服に袖を通した。
足袋をはかせ、胸の上で静かに両手を組ませた。
すべての処置が終わった。
ベッドの上の大造は、まるで今にも「おい、若いねえちゃん」と声をかけてきそうなほど、穏やかで誇らしい姿に戻っていた。
息子夫婦は涙を流しながら、恵子師長とあゆみに深々と頭を下げた。
「こんなに綺麗にしていただいて・・本当にありがとうございました。親父も喜んでいます」
「あゆみちゃん」
恵子師長が、あゆみの顔を見つめて静かに言った。
「死はね、悲しくて冷たいだけのものじゃないのよ。その人が命を精一杯生ききったという、最も尊い瞬間よ。看護師はね、その最期の姿を美しく整えて、ご家族にお返しするという大切なバトンを持っているの」
あゆみは大造の穏やかな顔を見つめた。
初めて体験した看取り。
そこにあったのは、恐怖や暗闇ではなかった。
澄み切った『死の静けさ』と、人間が生き抜いたことへの温かいぬくもりだった。
午前五時半。
ストレッチャーに乗せられた大造が、ご家族とともに病棟を出発する時刻となった。
ナースステーションの前に、夜勤帯の陽子、瀬戸、高橋医師、乾薬剤師、恵子師長、そしてあゆみが一列に並んだ。
ストレッチャーが静かに廊下を進んだ。
スタッフ全員が深く、静かに頭を下げて見送った。
「宮本さん、ありがとうございました・・」
あゆみは心の中で深くつぶやいた。
ご家族を見送った後、あゆみはベランダへ続く廊下の窓辺に立った。
病室の窓の外から、薄桃色と黄金色の朝焼けの光が静かに差し込んできた。
中庭の新緑の葉が朝露を弾き、光を浴びてキラキラと眩しく輝いている。
あゆみは朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
大造の手に触れた時の温もりと、最後に残してくれた「ありがとうな」というしずくのような言葉が、あゆみの心の中で確かに灯っていた。
(私、逃げずに頑張ります。宮本さん、ありがとうございました・・)
あゆみは朝焼けの空に向かって静かに誓い、深く頭を下げた。
巡っていく生と死の中で、また新しい一日が、静かに始まろうとしていた。




