第5話 頑固なじいさまと、師長の魔法
四月も終わりに近づき、病棟の窓から見える木々の緑はいっそう鮮やかさを増していた。
窓を開けると、風に乗って爽やかな青葉の香りが廊下を吹き抜けていく。
ナースステーションから少し離れた『307号室』。
その病室には、朝から重苦しい空気が漂っていた。
「いらん! 何もするなと言っとるだろ! 痛かろうが苦しかろうが、自分の身体のことは自分が一番よく分かっとる! 帰れ!」
病室の中から、怒声が響き渡った。
ガラス引き戸越しに緊迫した様子が窺える。
あゆみが恐る恐る病室を覗くと、ベッドの上に浅黒い顔の高齢男性が腕組みをして座っていた。
宮本大造、七十八歳。
末期の肺がんを患い、二日前に一般病院の呼吸器内科から転院してきたばかりだった。
パジャマの袖を固く捲り上げ、白髪頭を逆立てる姿は、近寄りがたい拒否のオーラを放っている。
そのベッド脇に若手専攻医の高橋律が立っていた。
採血データやレントゲン写真が入ったファイルを手にしたまま途方に暮れていた。
高橋は元々、大学病院でガンガン手術を執刀していた外科志望の医師だ。
三ヶ月前から研修の一環としてこの緩和ケア病棟に赴任している。
「治す医療」から「苦痛を和らげる医療」への頭の切り替えに、まだ葛藤している最中だった。
「宮本さん、落ち着いてください。画像を見ても、右肺の腫瘍が気道を圧迫していて、炎症反応(CRP)も上がっているんです。今、抗生剤の点滴と酸素吸入を始めないと、呼吸さらに苦しくなってしまいます」
高橋は生面目な顔で、医学的に順序立てて説明しようとした。
だが、大造はフンと鼻を鳴らし、ぷいっと横を向いてしまった。
「医者の言いなりになって、管だらけにされてたまるか! わしはな、点滴も酸素も一切お断りだ! てめぇみたいな若造にわしの気持ちが分かるか!」
「ですから、これは治療ではなく痛みを予防するための・・」
「うるさい! 出てけ!」
大造が枕元のティッシュ箱を投げつけ、高橋は間一髪それをかわした。
高橋の顔に焦りと困惑の色が浮かんだ。
医学的に正論を話しているのに、なぜ伝わらないのか分からなかった。
肩を落として病室を出てきた。
「木下さん、弱ったよ・・」
高橋は処置室の前で、あゆみに向かって深いため息をついた。
白衣のポケットに突っ込んだ手が、諦めきれないように握られている。
「宮本さんは、指示された処置をすべて拒否するんだ。血圧測定も、体位変換も、看護師の清拭すら拒否してる。データ上は明らかに呼吸状態が悪化しているのに。これじゃ必要な緩和ケアすらできないよ・・」
あゆみも心配そうに病室を見つめた。
「今朝、お熱を測らせていただこうとしたんですが『若いねえちゃんに身体を触らせるか!』って怒鳴られてしまって・・どうしたらいいんでしょう」
二人が頭を悩ませていると、後ろから静かな足音が近づいてきた。
「どうしたの、二人とも。難しい顔して」
声をかけてきたのは、看護師長の山中恵子だった。
白髪の混じった髪をきっちりとまとめ、手に持ったカルテを胸に抱えている。
恵子の表情には、大造の怒声など意に介さないような、穏やかな笑みが浮かんでいた。
高橋はすがるように恵子に向き直った。
「師長、307号室の宮本さんですが、こちらの提示する医療行為やケアを完全に拒否されてるんです。このままでは今夜にも低酸素血症を起こす可能性が高いので・・」
恵子はカルテの表紙をそっと撫でながら、ふふっと優しく微笑んだ。
「高橋先生。宮本さんはね、ただ医療を拒否しているんじゃないの。自分の『プライド』を守ろうとしているのよ」
「プライド・・ですか?」
「ええ。宮本さんのフェースシート(患者背景記録)は読んだかしら?」
高橋とあゆみが顔を見合わせると、恵子はカルテをめくり、一枚の古いメモを指し示した。
「宮本さんはね、五十年間、寺社仏閣の建築や修復に携わってきた、根っからの『宮大工』なのよ。伝統ある技術を守り、自分の手一つで巨大な木木を組み上げてきた誇り高い職人さん。そんな人が、病気になったからといって、若造の医者や看護師に指示されて手出しされるのが、どれだけ自尊心を傷つけられることか・・わかる?」
高橋が息を呑んだ。
恵子は二人に向かって、目元を和ませて言った。
「ちょっと私に任せてみて。あゆみちゃん、温かいお茶を二人分淹れて持ってきてちょうだい」
「あ、はい! すぐ持って行きます!」
恵子はあゆみが淹れた緑茶のお盆を受け取って、静かに307号室の引き戸を開けた。
病室の中では、大造が相変わらず苦しそうな呼吸をしながら壁に向かっていた。
「出て行けと言ったろうが! 誰も入れるな!」
大造が怒鳴り散らしたが、恵子は動じなかった。
静かにパイプ椅子を引き寄せ、大造のベッド脇に腰を下ろした。
温かいお茶を頭床台に置いた。
「宮本さん。喉が渇いてらっしゃるでしょう。お茶を淹れてきましたよ」
「いらんと言っとる! お前たちの顔など見たくもない!」
大造が吐き捨てるように言った。
恵子は怒るどころか、大造がベッドに置いた手に視線を落とした。
長年の過酷な現場作業で節々が太く削れていた。
無数の小さな傷跡が刻まれた、ゴツゴツとした無骨な手だった。
「宮本さん・・本当に、立派な手ですね」
恵子の低く穏やかな声が、病室のピリついた空気を優しく包み込んだ。
大造がピクリと肩を揺らし、驚いたように振り返った。
「・・何だと?」
「長年、立派な木を削り、素晴らしいお寺や神社を建ててこられた、本物の職人さんの手ですもの。一目で分かりますわ。この手で鉋や鑿を身体の一部のように使いこなして来られたのでしょうね」
恵子は温かい眼差しで、大造の手を見つめた。
大造は毒気を抜かれたように口を閉じ、自分のゴツゴツした両手をじっと見つめた。
「・・ふん。お前みたいな看護師に、大工の仕事の何が分かる」
「詳しいことは分かりません。でもね、我が家の近くにある古いお寺の柱が見事な木組みになっていて、いつも散歩のたびに感嘆しているんです。釘を一本も使わずに、木と木を隙間なく噛み合わせる技術は、まさに神業ですよね」
恵子が微笑みながら語りかけると、大造の頑なだった眉間の皺が、ほんの少しだけ緩んだ。
「・・当たり前だ。木の癖を見極めて、ミリ単位の狂いもなく削るのが宮大工の意地よ。最近の若い大工はプレカットだの機械任せだので、木の心を知らん」
「やっぱりそうなのですね。木の心を知る・・深いお言葉です」
恵子は深く頷き、大造の話にじっくりと耳を傾け始めた。
道具の手入れのこだわり。
檜や杉の香りの違い。
冬の寒さの中で棟上げを行った時の武勇伝・・大造は最初はボソボソと語った。
それは次第に熱を帯び、自分の職人人生を語り始めた。
あゆみは病室のドアの影から、その様子を息を呑んで見ていた。
恵子師長は、大造に病気の話も、処置の話も一切していない。
彼が人生をかけて築き上げてきた誇りと歴史にただ敬意をもって寄り添っている。
三十分後。
恵子はナースステーションの多目的カンファレンスルームに、高橋医師、あゆみ、介護福祉士の小野寺、理学療法士の上野を集めた。
「高橋先生。宮本さんへのアプローチを変えましょう」
恵子は静かに切り出した。
「彼は『治療される患者』として扱われることを激しく拒否しています。でも、『自分の身体という最高の建築物を、最後まで自分の意志で管理する棟梁』として扱えば、必ず心を開いてくれます」
高橋医師は真剣な表情で頷いた。
「棟梁・・ですか」
「ええ。検査データや医学的数値をそのまま話して『こうしなさい』と指示するのではなく、彼の職人としてのプライドを刺激する提案をするの。例えば、『お庭の素晴らしい新緑の木々を、大工の目で見る体力を保つために、少しだけ点滴の手助けを借りませんか』というように」
上野PTも笑顔で膝を叩いた。
「なるほど・・。 『リハビリをしましょう』じゃなくて、『足をしっかりさせ、もう一度木組みの柱を見に行きましょう』って誘ってみようか」
小野寺も「お風呂も、職人さんらしいさっぱりした手ぬぐい清拭を提案してみます」と言った。
高橋医師は深く息を吐き出し、眼鏡をかけ直した。
「分かりました・・僕が間違っていました。データばかり見て、宮本さんという『人』を見ていなかった。もう一度、話してきます」
高橋医師は再び、一人で307号室の引き戸を開けた。
病室の中では、大造が先ほど恵子とお茶を飲んだ後、遠くを見るような穏やかな目をしていた。
高橋は大造のベッドの脇にかがみ、腰を低くしてまっすぐに大造の目を見た。
「宮本さん。先ほどは、僕の説明が不躾で大変失礼いたしました」
大造が驚いたように高橋を見た。
高橋は真摯な声で続けた。
「宮本さんが長年、素晴らしい木々と向き合ってこられた宮大工の棟梁だと伺いました。僕なんかが口を挟むのはおこがましいのですが・・窓の外に見える中庭の木々の新緑、素晴らしい枝ぶりですよね」
「・・ふん。まあ、悪くはない木立ちだな」
「あの木々の生命力を、宮本さんのそのプロの目で、これからもじっくり診ていただきたいんです。そのために、少しだけお身体の水分と栄養を補給して、呼吸を楽にするお手伝いをさせていただけないでしょうか。ご自身の身体の棟梁として、僕たちを利用していただきたいんです」
高橋は深く頭を下げた。
病室に静かな沈黙が流れた。
大造は黙って窓の外の新緑を見つめ、それから自分のゴツゴツとした手を見つめた。
やがて、長いため息とともに、大造の口からボソリと言葉が漏れた。
「・・まったく。若造のくせに、知ったような口をききおって」
その声には先ほどのような攻撃的な怒りはなかった。
大造はゆっくりとパジャマの袖を自ら捲り上げ、無骨な腕を高橋の前に差し出した。
「・・手早くやれ。長引かせたら承知せんぞ」
「はい! ありがとうございます!」
高橋の顔に、心からの明るい笑顔が弾けた。
その後、あゆみと小野寺が手際よく点滴の刺入と温かい手ぬぐいでの清拭を行った。
大造は「くすぐったい」「下手くそ」などと口悪く文句を言っていた。
しかし、表情はすっかり柔らかくなった。
あゆみが手渡したお茶を「美味いな」と満足そうに飲み干した。
夕暮れ時。
西日が病室を琥珀色に染めていた。
大造は点滴チューブを繋いだまま、穏やかな寝息を立てて眠っていた。
その顔には、自分の尊厳を守り抜いた男の誇らしげな安らぎが漂っていた。
ナースステーションに戻ってきた高橋医師は、あゆみに向かって感慨深そうに呟いた。
「木下さん・・緩和ケアってすごいね。病気を治すことだけが医療じゃないんだね。その人がどう生きてきて、何を大切にしているかを知ること・・それが、こんなにも患者さんを救うんだね」
「はい・・恵子師長の『魔法』、本当に素敵でしたね」
あゆみが答えると、近くでカルテを書いていた恵子師長が、目尻に深い皺を寄せて楽しそうに笑った。
「魔法なんかじゃないわよ。誰だって、自分を尊重してくれる人の言葉しか聞こえないものよ。明日も、宮本さんの『木の心』を大切にしていきましょうね」
窓の外では、夕闇がそっと中庭に降り、木々の枝先が風にやわらかく揺れていた。
病棟を満たす静かな気配の中で、あゆみは看護というものの奥行きと、人が人をいたわるぬくもりを、胸の深いところで感じていた。




