番外編 あゆみの休日 陽だまりと珈琲、そしてささやかな日常
分厚い遮光カーテンの隙間から、細い光の帯がフローリングの床に伸びていた。
あゆみは、重たいまぶたをゆっくりと押し上げた。
視界の端で、デジタル時計の赤い数字が「10:42」を示しているのがぼんやりと見えた。
目覚まし時計の無機質な電子音に急き立てられることなく、自然に目が覚める休日。
それは、今の彼女にとって何よりも贅沢な時間だった。
「・・よく、寝た」
声に出してみたものの、喉の奥はひどく乾燥していて、かすれた音しか出なかった。
掛け布団を跳ね除けようとしたが、まるで全身が鉛でできているかのように重い。
特に、ふくらはぎから足首にかけての鈍い疲労感は、昨日の夜勤の激しさを如実に物語っていた。
ナースコールの連続、急変した患者の対応。
息をつく暇もなく廊下を走り回っていた感覚が、まだ足の裏にこびりついているようだった。
あゆみは仰向けのまま、しばらく天井の木目をぼんやりと見つめていた。
緩和ケア病棟に配属されてからというもの、彼女の日常は常に「死」という圧倒的な現実と隣り合わせにある。
シリンジポンプの一定の駆動音や、医療用麻薬の厳密な管理。
患者たちが発する微かな痛みのサイン。
神経を張り詰め、少しでも患者の苦痛を取り除こうと奔走する日々の中で、あゆみの心身は確実にすり減っていた。
ゆっくりと深呼吸をする。
吸い込んだ空気が、胸の奥深くまで満ちていく。
静か。
ここには、人工呼吸器の規則的なアラームも、誰かのうめき声も、忙しなく行き交う看護師たちの足音もない。
ただ、遠くの道路を走る車のエンジン音が、くぐもった音として聞こえてくるだけ。
あゆみは意を決して上半身を起こし、ベッドの端に腰掛けた。
冷たいフローリングに裸足を下ろすと、ヒヤリとした感触が足の裏から伝わり、ようやく意識が現実の世界へと引き戻された。
よろけるような足取りでキッチンに向かい、冷蔵庫の扉を開ける。
中には、数日前に買った卵と、半分残っている食パン、そして少ししなびたほうれん草が入っていた。
フライパンを火にかけ、バターをひく。
ジュワッという軽快な音とともに、動物性の甘い香りが狭い部屋に広がった。
卵を割り入れると、白身が縁からチリチリと音を立てて固まっていく。
トースターに食パンをセットし、ダイヤルを回す。
ジリジリと焦げ目がつくのを待ちながら、あゆみは電気ケトルでお湯を沸かし、お気に入りのマグカップにドリップパックのコーヒーをセットした。
トーストの焼き上がるチンという音と、お湯が沸き立つコポコポという音。
日常の些細な生活音が、今のあゆみにはとても優しく響いた。
小さなダイニングテーブルに、目玉焼きを乗せたトーストと、湯気を立てるブラックコーヒーを並べた。
「いただきます」誰に言うでもなく小さく手を合わせ、トーストをかじる。
サクッとした食感の後に、半熟の黄身がとろりと口の中に広がった。
熱いコーヒーを一口すすると、焙煎された豆の深い苦味が舌の上を滑り、胃の腑へと落ちていく。
温かい飲み物が食道を通っていく感覚が、はっきりと分かる。
美味しい。
ただそれだけのことが、奇跡のように思えた。
病棟には、一口の水すら飲み込むことができず、点滴で命を繋いでいる患者が大勢いる。
食欲という人間の根源的な欲求が満たされる喜び。
それは、健康な体があればこその特権なのだと、緩和ケア病棟に来てから痛いほど思い知らされていた。
あゆみは、コーヒーの湯気越しに窓の外を眺めた。
雲一つない青空が広がっている。
今日は、貴重なシフト休み。
命の重さに押し潰されそうになる自分を、もう一度「木下あゆみ」という一人の人間に戻すための、大切な時間。
ゆっくりと咀嚼を繰り返しながら、あゆみは今日の予定を頭の中で組み立て始めた。
昼過ぎ、あゆみは身支度を整えてマンションを出た。
仕事着であるスクラブの締め付けから解放された彼女は、柔らかいオフホワイトのタートルネックセーターに、履き慣れたデニムという身軽な格好だった。
足元は歩きやすいローヒールのパンプス。
薄く引いたコーラルピンクのリップが、休日の気分をほんの少しだけ華やかにしてくれている。
外の空気はひんやりとしていたが、日差しには確かな春の温もりが混じっていた。
あゆみは鞄からワイヤレスイヤホンを取り出し、耳に装着した。
スマートフォンを操作して再生したのは、クラシックギターの穏やかなインストゥルメンタル。
弦を弾く繊細な音が、周囲の雑踏を柔らかくマスキングしてくれる。
駅前の繁華街は、週末の買い物客やカップルで賑わっていた。
すれ違う人々の顔はどれも明るく、楽しげな話し声が音楽の隙間から漏れ聞こえてくる。
あゆみは、その平和な風景の中を歩きながら、ふと不思議な感覚に陥った。
ほんの数十時間前まで、自分は死の淵にある人々のベッドサイドに立っていた。
そこは、時間が重く、ゆっくりと、しかし確実に終わりに向かって流れる世界だった。
だが、一枚扉を隔てた外の世界には、こうして無数の「未来」を持った人々が、何事もないように歩いている。
その圧倒的なコントラストに、時折、自分がどちらの世界の住人なのか分からなくなるような眩暈を覚えることがあった。
あゆみは軽く首を振り、雑念を追い払うように足早に歩き出した。
向かった先は、大型書店だった。
自動ドアを抜けると、紙とインクの独特の匂いが鼻をくすぐる。
あゆみはこの匂いが昔から好きだった。
膨大な知識と物語が整然と並ぶ空間は、彼女にとって最高のシェルターだ。
医学書のコーナーには目もくれず、あゆみは文芸書とエッセイの棚へと向かった。
背表紙を指先でなぞりながら、ゆっくりと通路を進む。
仕事のプレッシャーや命の重圧を忘れさせてくれるような、全く別の世界に没入できる物語を探していた。
ふと、平積みされた一冊の紀行エッセイに目が止まった。
北欧の小さな街でのスローライフを綴った本。
表紙には、雪景色のなかで暖かな灯りが漏れるログハウスの写真が使われている。
パラパラとページをめくると、焼き立てのシナモンロールの描写や、静かな森の散歩の話が、美しい写真とともに綴られていた。
「これいいな・・」
小さく呟き、本を小脇に抱える。
今の自分には、こういう温かくて遠い世界の話が必要な気がした。
レジに向かおうとしたその時、コートのポケットの中でスマートフォンが短く振動した。
画面を見ると、「母」という二文字が表示されている。
あゆみは足をとめ、人通りの少ない通路の隅に移動して通話ボタンを押した。
「もしもし、お母さん?」
『あ、あゆみ? 今、大丈夫だった?』
電話の向こうから聞こえてきたのは、故郷で暮らす母の、少し間延びした長閑な声だった。
その声を聞いた瞬間、あゆみの肩からすっと力が抜けた。
「うん、今日は休み。今、本屋さん」
『そう。ちゃんと休めてる? ご飯、しっかり食べてるの? あんた、昔から仕事にのめり込むと周りが見えなくなるから心配よ』
「大丈夫だよ。さっきもちゃんとご飯食べたし。・・そっちこそ、変わりない?」
『こっちは相変わらず。あ、そうそう、遥のやつね、大学のサークルで合宿に行くからってお小遣いせびってきてさ。お父さんったら、甘いからすぐにお金渡しちゃうのよ』
妹の遥の自由奔放なエピソードに、あゆみは吹き出した。
「遥らしいね。お父さんも相変わらず親バカなんだから」
『本当にね。あの子にも、あゆみのしっかりしたところを少しは分けてあげたいわ。・・でも、あゆみ』
母の声が、ふっと真剣なトーンに変わった。
『無理だけは、しないでね。看護師の仕事が大変なのは分かってるけど、あなたの体が一番大事なんだから』
その飾らない、心底からの愛情がこもった言葉に、あゆみの胸の奥がじんわりと熱くなった。
病棟では、自分が患者や家族を「支える」側だ。
誰かに寄りかかり、甘えることなど許されない。
しかし、この電話越しに繋がっている故郷には、無条件で自分を心配してくれる家族がいる。
「・・うん。ありがとう、お母さん。無理しないようにする」
『そう。ならいいのよ。たまにはこっちにも顔を出しなさいよ。美味しいもの、たくさん作って待ってるから』
「うん、連休取れたら帰るね。じゃあ」
電話を切った後、あゆみはしばらくその場に立ち尽くしていた。
スマートフォンの黒い画面を見つめながら、小さく息を吐く。
家族との何気ない会話が、枯れかけていた心に潤いを与えてくれたような気がした。
本を購入し、書店を出ると、午後の太陽が少しだけ西に傾き始めていた。
午後三時。
あゆみは、駅近くの路地裏にあるこぢんまりとしたカフェのドアを押した。
カラン、とアンティーク調のベルが鳴る。
店内には自家焙煎のコーヒー豆の深い香りが漂い、オレンジ色の間接照明が温かな空間を演出していた。
「あゆみ! こっちこっち!」
窓際の席から、大きく手を振る女性がいた。
看護学校時代の同期であり、一番の親友である香奈だった。
香奈は現在、大学病院の小児科病棟で働いている。
「ごめん、待った?」
あゆみが向かいの席に座ると、香奈は首を横に振って笑った。
「ううん、今来たとこ。それにしてもあゆみ、少し痩せた? ちゃんと食べてる?」
今日二度目となるそのセリフに、あゆみは苦笑しながらアールグレイの紅茶を注文した。
「食べてるよ。ただ、ちょっとバタバタしてたからかな」
「緩和ケア病棟、やっぱり大変?」
香奈の問いかけに、あゆみはティーカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ視線を落とした。
「大変・・というのとは、少し違うかも。体力的な忙しさもあるけど、それ以上に、精神的な部分で削られることが多いというか・・」
あゆみの脳裏に、担当の患者たちの顔が次々と浮かんだ。
「小児科も大変だけどさ」と、香奈は自分のアイスラテのストローを回しながら言った。
「うちは、治して退院していく子も多いから。未来に向かっていくエネルギーをもらえるというか。あゆみのところは・・その、「治る」ことはないじゃない?」
香奈の言葉は悪意のあるものではなかった。
ただ、医療の現場における残酷な事実を口にしただけ。
あゆみは静かに頷き、紅茶を一口飲んだ。
ベルガモットの爽やかな香りが鼻に抜ける。
「そうだね。最初は私も、その現実に押し潰されそうになった。『治せない医療』に何の意味があるのかって、泣いてばかりいたし・・」
あゆみは、窓の外を行き交う人々に目を向けた。
「でもね、香奈。最近、少しだけ分かってきた気がするの」
「分かってきた?」
「うん。治すことはできなくても、痛みを和らげて、その人が『今日をどう生きるか』を選ぶお手伝いはできる。最期の瞬間に、少しでも『いい人生だった』って思ってもらえるような・・そんな時間を作ることはできるんかもって・・」
あゆみは、佐藤医師が語った『希望の再定義』という言葉を思い出していた。
「悲しいことや、無力感を感じることは数え切れないほどあるわ。でも、患者さんがふと見せてくれる笑顔とか、ご家族が最後に言ってくれる『ありがとう』とか・・そういうささやかな光みたいなものが、すごく温かくて。だから、私はここで逃げずに、患者さんたちと向き合っていきたいって思ってる・・」
香奈は少し驚いたような、それでいて眩しいものを見るような目であゆみを見た。
「・・香奈?」
「あゆみ、変わったなあって思って・・」
「変わった?」
「うん。学生の頃のあゆみって、もっとこう、感情の起伏が激しくて、すぐピーピー泣いてたじゃない? でも今は・・なんていうか、すごく強くなった。目が、前よりずっと深く、優しくなってる感じ」
香奈の言葉に、あゆみは一瞬、息を呑んだ。
強くなった。
優しくなった。
自分では毎日必死にもがいているだけで、成長している実感など全くなかった。
しかし、親友の目には、今の自分がそのように映っているのか。
あゆみの胸の奥の、張り詰めていた糸がふっと緩んだ。
「・・そう、かな」
あゆみは視線を落とし、両手でティーカップを包み込んだ。
温かい陶器の感触が、手のひらから伝わってくる。
不意に、視界が滲んだ。
悲しいわけではなかった。
苦しいわけでもなかった。
ただ、自分が無我夢中で歩んできた日々が、無駄ではなかったのだと肯定されたような気がして、安堵の涙が静かに溢れた。
「あ、ごめん。なんか・・」
あゆみは慌てて目元を指で拭ったが、香奈は優しく微笑んで、テーブル越しにあゆみの手をぽんぽんと叩いた。
「いいよ。泣きたい時は泣きな。あゆみが毎日、どれだけ真剣に命と向き合ってるか、その涙を見れば分かるよ」
香奈の温かい言葉に甘えるように、あゆみはほんの少し静かな涙を流した。
カフェの穏やかなBGMが、二人の間の沈黙を優しく埋めていた。
カフェを出る頃には、空はすっかり茜色に染まり始めていた。
「じゃあね、あゆみ。また近いうちに飲みにでも行こう」
「うん、ありがとう。香奈も仕事、無理しないでね」
駅の改札口で香奈と別れ、あゆみは一人、夕暮れの街を歩き出した。
昼間とは違う街の表情があゆみの全身を包み込む。
ビルの窓や街灯に明かりが灯り始め、家路を急ぐ人々の足音がアスファルトに響く。
どこかの家から漂ってくる、夕食のカレーの匂い。
すれ違った高校生たちの、他愛のない笑い声。
あゆみは、ポケットに両手を突っ込み顔を上げて歩いた。
香奈との語らいで流した涙が、心の中に溜まっていた澱をすっきりと洗い流してくれたようだった。
帰り道、駅前の花屋の店先に、可愛らしいピンク色のスイートピーが並んでいるのが目に入った。
あゆみは少し迷った後、それを一束だけ購入した。
殺風景な自分の部屋に、少しだけ春の彩りを添えたくなった。
花束を抱えながら、スマートフォンを取り出して画面を見る。
時刻はまだ夕方の六時前。
明日は早番だ。
あの生と死が交錯する病棟での、激しくも愛おしい日常が始まる。
「よし」あゆみは茜色から群青色へと変わりゆく空を見上げ、大きく深呼吸をした。
冷たい空気が肺を満たし、全身の血が巡っていくのを感じる。
生きている。
自分は今、確かに生きている。
明日もまた、笑顔で患者たちに会うために。
あゆみは、街の灯りの中へとゆっくりと歩みを進めた。




