第4話 ナースコールの嵐
深夜一時。
四階の緩和ケア病棟は、昼間の穏やかな静けさが嘘のように、緊迫した空気と疲弊感で満たされていた。
深夜勤の看護師は、リーダーの藤井陽子と新人の木下あゆみの二人。
そして介護福祉士の小野寺まどか一人の、計三人体制だった。
昼間のフルメンバーとは異なり、深夜はこの少人数で病棟全二十室の患者の命と安眠を守らなければならない。
外は漆黒の闇に包まれ、病院の周囲は静まり返っていた。
しかし、ナースステーションだけは、まるで戦場のようなピリついた緊張感が漂っていた。
あゆみはナースステーションの麻薬金庫の前で、陽子とともに厳重なダブルチェックを行っていた。
鍵を開け、医療用麻薬の金属製アンプルとシリンジポンプの残量を指差し呼称で確認する。
「フェンタニルアンプル、残数五本。照合よし」
「はい、照合よしです」
麻薬帳簿に二人の印鑑を捺印した直後だった。
ナースステーションの壁に設置された巨大なナースコール表示盤が、けたたましい音を立てて点滅し始めた。
ピンポーン、ピンポーン、ピッポン、ピッポン!
高音の呼び出し音が、静まり返った廊下に交錯して跳ね返る。
緑色のランプが次々と赤く点滅に変わり、表示盤の液晶画面に数字が躍った。
『305号室』『308号室』『301号室』。
三つの部屋からの呼び出しが同時に重なっていた。
「木下さん、あわてないでね! プライオリティを決めて分担よ!」
テキパキと指示を出したのは陽子だった。
二人の幼い子どもの育児と連続する過酷な夜勤で、体力的には限界ギリギリのはずだ。
目の下には薄い隈が浮かんでいたが、陽子の眼差しにはプロとしての強い光が宿っていた。
「瀬戸くんは今304号室のオムツ交換中ね! インカムで呼ぶわ。瀬戸くんと小野寺さんは305号室の佐藤様へ! 脳転移の夜間せん妄で点滴ラインを抜こうとしてるから、安全確保に入って! 私が医師の指示受けでセレネース静注する! 木下さんは308号室の呼吸苦、すぐ走ってバイタルと酸素チェック!」
「は、はいっ!」
あゆみは走るのを必死でこらえ、足早に廊下を駆け出した。
インカムに応答した男性看護師の瀬戸大介が、隣の病室から飛び出して小野寺とともに305号室へ入った。
あゆみが飛び込んだ308号室では、肺がん末期の女性患者が、ベッドの上で激しく肩を上下させ、息が苦しそうに悶絶していた。
顔色は青白く、苦しさのあまり、装着されていた酸素マスクを力任せに外そうと両手を振り回している。
「息が・・吸えない・・助けて・・苦しい・・!」
「大丈夫ですよ! 私がいます、マスク外さないで! 深く息を吸いましょう!」
あゆみは脈拍と酸素飽和度を測定するため、パルスオキシメーターのプローブを患者の指先に装着した。
SpO2が83パーセントまで低下している。
心拍数は130を超えている。
「酸素流量を三リットルから五リットルへ上げます!」
壁面の流量計のダイヤルを回し、酸素の供給量を増やした。
さらにベッドの背もたれを四十五度まで起こし、呼吸が少しでも楽になる体位(ファウラー位)を整えた。
喉の奥からゴロゴロと痰の絡む音がした。
あゆみはすばやく吸引カテーテルを準備した。
口腔内と上気道の吸引を行った。
ズズズ・・と音を立てて粘稠な痰が引けた。
患者の呼吸がわずかに落ち着きを取り戻した。
その時、胸元のインカムから瀬戸の切迫した声が響いた。
『ステーション、瀬戸です! 305号室の佐藤様、せん妄が強くて「壁から巨大な虫が出てくる! 家に帰る!」と暴れています! 腕のCVポートのラインを引っ張って出血しかけてます! 陽子さん、セレネースの静注、早めにできますか!』
『了解、すぐ向かうわ! 木下さん、308号室落ち着いたら、302号室の真山さんのコール対応お願い! 今ナースコール入ったわ!』
「はい! 308号室、吸引と酸素増量でSpO2が90まで持ち直しました! 302号室向かいます!」
あゆみは肩で息をしながらインカムに応答した。
308号室の患者の背中を優しく擦って「またすぐ来ますね」と声をかけ、廊下へ飛び出した。
夜の廊下には、あちこちの病室から漏れ出るナースコールの電子音、吸引器の駆動音、生体情報モニターの電子アラームが複雑に交錯していた。
昼間の平和で静かな緩和ケア病棟しか知らなかったあゆみに、この深夜の光景は衝撃だった。
ここは「静かに最期を待つだけの穏やかな場所」などでは決してない。
一般病棟や救急病棟と変わらない、いや、それ以上に密度の濃い生命の危機と、精神症状の嵐に立ち向かう激しい消耗戦の現場だった。
あゆみは302号室の引き戸を素早く開けた。
「拓海さん! どうしました!?」
病室の中では、拓海がベッドの端に腰掛け、両手で腹部を強く抱え込んでいた。
顔色は土気色で、額からはボタボタと大粒の汗が落ちている。
「木下さん・・すみません・・気持ち悪くて・・それと、背中が激しく痛んで・・」
フェンタニル持続皮下注を行っているものの、夜間の強い身体の強張りにより、背部の痛みがブレイクスルーペイン(突出痛)として激化していた。
「すぐ楽にしますからね! レスキューのPCAボタン押しますよ!」
あゆみは手元のポンプ操作でレスキュー麻薬の追加投与を行い、ガーグルベースン(受け皿)を拓海の口元に当てた。
そこへ、305号室でのせん妄患者の安全確保を終えた瀬戸が、汗だくになりながら駆け込んできた。
スクラブの袖を捲り上げ、大きな身体を丸めて拓海に声をかける。
「真山さん、夜遅くに大騒ぎしてごめんね! 背中、相当痛かっただろ。クッション入れ直して体位変えよう。ほら、俺の腕にしっかり捕まって!」
瀬戸は持ち前の力強い腕力と巧みな体位変換の手際で、拓海の華奢な身体をふんわりと抱え上げた。
背中の下に柔らかいクッションを差し込んだ。
拓海の体にかかる負担を最小限に抑える、無駄のないプロの介助だった。
「瀬戸さん・・ありがとうございます・・」
「いいって! 男同士、遠慮なんていらないからさ!」
瀬戸の飾らない明るい声に、痛みに耐えていた拓海の表情がほんの少しだけ和らいだ。
深夜三時半。
ようやく怒涛のようなナースコールの連打が収まり、病棟に静寂が戻り始めていた。
脳転移によるせん妄で暴れていた305号室の患者は、陽子が静注した抗精神病薬セレネース(ハロペリドール)の効果で穏やかな睡眠に入った。
308号室の患者も酸素供給が安定して静かに眠りについた。
拓海もレスキュー麻薬が効き始め、呼吸が整っていた。
ナースステーションに戻ってきた陽子は、パイプ椅子に深く腰掛け、深いため息をついた。
白衣の胸元を少し緩め、おでこに手を当てて目を閉じている。
育児と連続する夜勤の疲れが、彼女の表情に深い陰を落としていた。
「ふう・・なんとか、大きな波を越せたわね・・」
「陽子さん、お疲れ様です。 お茶どうぞ!」
あゆみが給湯室から持ってきた温かい緑茶を差し出した。
陽子は「ありがとう」と受け取り、両手でコップの温もりを確かめるようにしながら一口飲んだ。
「陽子さん・・大丈夫ですか? すごく疲れていらっしゃいますけど・・」
「あはは、やっぱり顔に出てる? 実はね、昨日の昼間、下の子が三十九度の熱を出して小児科へ走ってさ。ろくに眠らないまま、そのままこの深夜勤に入ったのよ。家では子どもに泣きつかれ、病院に来たらナースコールに追われ・・時々ね、『私、母親としても看護師としても中途半端なんじゃないか』って泣きたくなる時があるわ」
陽子は自嘲気味に苦笑しながら、ぽつりと本音を漏らした。
完璧で超人のように見えていた先輩看護師の陽子さん。
彼女は、私生活と過酷な現場の狭間で、身体と心をすり減らしながら必死に戦っていた。
瀬戸が隣の椅子を引き寄せて座った。
栄養ドリンクのキャップをキュッと開け一気に飲み干しながら笑いながら言った。
「陽子さん、俺たちがついてるんですから、もっと頼ってくださいよ! それにしても、今日の305号室の佐藤さんのせん妄はすごかったな。『天井から巨大なカブトムシが降ってくる!』って大真面目に叫ぶんだもん。俺、必死でカブトムシ捕まえるフリしちゃいましたよ」
「ちょっと瀬戸くん、笑い事にしないでよ。患者さんは真剣に恐怖を感じてるんだから」
「分かってますって! でも、真剣な顔でカブトムシと戦ってる佐藤さん見てたら、不謹慎だけどちょっと愛おしくなっちゃって」
瀬戸の軽妙な語り口に、陽子もあゆみも思わずクスッと声を立てて笑った。
死や病気と向き合う厳しい現場では、こうしたちょっとした可笑しさや切なさを同僚と分け合うことが、疲れた心を救ってくれるのだと、あゆみは感じていた。
深夜四時過ぎ。
東の空がゆっくりと薄紫色のグラデーションに染まり始めていた。
陽子はあゆみを病棟の東側にある小さなスタッフ休憩室へ誘った。
窓から差し込む静かな夜明けの光の中で、陽子は自動販売機で買った温かい缶コーヒーをあゆみに手渡した。
「木下さん、今日の夜勤、よく頑張って動いていたわ。落ち着いて対処できてたわよ」
「いえ・・私、コールが鳴り響くたびにパニックになりそうで・・陽子さんや瀬戸さん、小野寺さんがいなかったら、完全に立ち往生してました」
あゆみがうつむくと、陽子は缶コーヒーのプルトップを開け、静かな声で語りかけた。
「緩和ケア病棟ってね、外から見ると静かで穏やかな時間が流れている場所に思えるでしょ? でも実際は、今夜みたいに患者さんのせん妄や急変、強い痛みが重なって、とても慌ただしい現場になることがあるの。スタッフはみんな、汗だくになりながら必死で走り回ってる」
陽子は窓の外の朝焼けを見つめた。
「どれだけ疲れても、どれだけ自分の心がすり減りそうになっても、患者さんの病室に入る時は、穏やかで温かい笑顔でいなきゃいけない。それが私たちのプロとしての誇りよ。でもね、それを一人で背負い込もうとしちゃダメ。私だってこうして、瀬戸くんやあゆみちゃんに愚痴を吐いて、なんとかバランスを取ってるんだから」
「陽子さん・・」
「私たちはチームなの。お互いの弱さや疲れを補い合って、笑い合いながら、患者さんの今日という一日を支えるのよ」
陽子の温かい言葉が、夜勤の激しい疲労で冷え切っていたあゆみの胸の奥を、じんわりと満たしていった。
あゆみは缶コーヒーを両手でしっかりと包み込み、力強く頷いた。
「はい! 私、もっと知識も技術も身につけて、陽子さんたちの力にしっかりなれるよう頑張ります!」
「頼りにしてるわよ、あゆみちゃん」
病棟にまぶしい朝の光が差し込み、新しい一日が始まろうとしていた。
嵐のような夜を乗り越えた病棟は、再び穏やかな静けさを取り戻していた。
あゆみたちスタッフに、チーム一丸となって命を守り抜いた確かな手応えが残った。




