第3話 届かない手のひら
四月も下旬を迎えた。
病院の中庭に咲いていた桜はすっかり葉桜へと姿を変えていた。
窓から見える枝には若々しい青葉が青空に映えていた。
風が吹き抜けるたびに柔らかな新緑の匂いを運んできた。
木下あゆみは、朝の申し送りを終えたナースステーションで、拓海の電子カルテを凝視していた。
画面に並ぶバイタルサインと看護記録。
彼の身体の中で静かに、しかし確実に進行している変化を告げている。
『302号室 真山拓海様。下肢全般に著明な浮腫出現。圧痕性浮腫(+++)。がん悪液質および低アルブミン血症の進行に伴う血管外水分貯留と思われる。倦怠感増悪。悪心に対してプリンペラン静注施行するも、食事摂取量は主食1割、副食数口にとどまる』
「むくみが、そんな・・」
あゆみは胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
痛みがオピオイドで和らいだのも束の間、今度は身体の水分代謝が落ち、全身の倦怠感と吐き気が拓海を苦しめているのか。
あゆみは検温用のバイタルカートを押し、静かに『302』の引き戸を開けた。
「拓海さん、おはようございます。朝のバイタルチェックに伺いました」
「あ、木下さん・・。おはようございます」
ベッドの上の拓海は、横になったままかすかな声で応えた。
パジャマの裾から覗く彼の足を見て、あゆみは息を呑んだ。
もともと痩せ型だった彼の足首から足の甲にかけて、まるでパンパンに膨らんだ風船のように皮膚が突っ張り、重度の浮腫が生じていた。
指でそっと触れると、押した跡が深く凹んだまま戻らない。
「足、重くて痛いですよね・・。吐き気もまだ残っていますか?」
「ええ・・足がだるくて、自分の足じゃないみたいで。少し動かすだけでも、すごく重くて・・」
拓海は力なく微笑もうとしたが、表情には強い疲れの色が滲んでいた。
何かをしてあげたい。
この辛さを、少しでも和らげてあげる方法はないのだろうか。
あゆみの胸の中で、焦りにも似た強い思いが湧き上がっていた。
あゆみはナースステーションに戻ると、通りかかった理学療法士(PT)の上野駿の袖を掴んだ。
上野はリハビリ用の用具を抱え、穏やかな笑顔であゆみを見下ろした。
「上野さん、302号室の真山さんですけど・・足の浮腫がすごく強くなってて、ご本人もだるくて辛そうなんです。温かいお湯で足浴して、リンパを流すようなマッサージをしてあげたら、少しは楽になるでしょうか?」
あゆみの前のめりな問いかけに、上野は少しだけ首をひねり、持っていたカルテに目を落とした。
「真山さん・・確か、ここ数日でがん悪液質が進んで、全身の倦怠感も強くなっているよね。足浴で温めたり、やさしい愛撫抹消(軽擦マッサージ)をすれば血液循環を促すし、気分のリフレッシュにはなるよ。でも、今の彼の体力で、どこまで耐えられるか、だな」
「何もしないで放置するのは辛すぎます。私がついて、お湯の温度も気をつけて短時間でやりますから!」
あゆみの必死な眼差しに、上野は「分かった」と優しく頷いた。
「じゃあ、僕も一緒に入って、負担にならないやり方を教えるよ。お湯はぬるめで、長時間は絶対に避けること。いい?」
「はい、 ありがとうございます!」
あゆみは急いで準備に取りかかった。
保温用の洗面器にぬるめのお湯を張った。
肌に優しい石鹸と、気分を和らげるラベンダーの精油を数滴垂らした。
アロマの甘く清々しい香りが湯気とともに立ち上った。
あゆみは「これで拓海さんが少しでも笑顔になってくれれば」と願った。
洗面器とバスタオルを抱え、上野とともに302号室に入った。
「拓海さん、足元を少し温めて、軽めのマッサージをしてみましょうか。足が軽くなりますよ」
あゆみが声をかけた。
拓海は「ありがとうございます・・お手数かけます」と申し訳なさそうに頷いた。
上野の手ほどきを受けながら、あゆみは慎重に作業を進めた。
拓海のパジャマの裾を膝まで静かに捲り上げた。
温かいお湯が入った洗面器に、そっと彼の足を浸す。
「あ・・温かい・・すごく気持ちいい」
拓海の口から安らかな吐息が漏れた。
ラベンダーの香りが病室に広がり、さわやかな春の風と混ざり合う。
あゆみは安堵し、お湯の中で拓海の足を優しく石鹸で洗った。
タオルで拭いた後、上野の指示通りに足の甲から撫で上げるように優しく指先を滑らせた。
皮膚を引っ張らないよう、撫でるような力加減。
拓海は目を閉じ、気持ちよさそうに身を委ねていた。
(よかった・・やって正解だった)
あゆみは心の中で胸を撫でおろしていた。
しかし、ケアを始めて十分ほどが経過した頃だった。
拓海の呼吸が、急にハッハッと浅く荒くなり始めた。
額からツーッと大量の冷や汗が流れ落ちた。
顔色が土気色へと変わっていく。
「拓海さん・・? どうしました?」
あゆみが慌てて顔を覗き込むと、拓海は喉をゴロゴロと鳴らし、胸元をかきむしるようにして体を激しく丸めた。
「う・・くっ・・気持ち、悪い・・」
「えっ・・!?」
拓海は強い吐き気に襲われ、ベッドの上で激しく嘔吐した。
あゆみはパニックになりながら、急いでベッド脇のガーグルベースン(受け皿)を構え、拓海の口元に当てた。
吐瀉物はほとんどが胃液と水分だった。
拓海の華奢な身体は大きく波打ち、苦しそうに咳き込んだ。
上野が素早くあゆみの背後から手を出して拓海の身体を横向きに支えた。
気道を確保しながら背中をさすった。
「木下さん、足浴は中止! すぐに足をお湯から上げて、タオルで拭いて! 脈拍と酸素飽和度を測って!」
「あ、はい・・、 はいっ!」
あゆみの手は激しく震えていた。
タオルでお湯を拭き取る指先が上手く動かない。
拓海は嘔吐の後、全身の体力を使い果たしたようにぐったりとベッドに倒れ込んだ。
あゆみを振り返る気力すら失っていた。
パルスオキシメーターの表示数値は、脈拍が120を超えていた。
血圧は著しく低下していた。
「ごめんなさい・・拓海さん、ごめんなさい・・っ」
あゆみは蒼白な顔で何度も謝った。
拓海は固く目を閉じたまま、荒い息を繰り返すだけだった。
処置を終え、拓海に酸素投与と制吐剤の追加が行われた。
あゆみはナースステーションの陰でひとり立ち尽くしていた。
手すりに預けた自分の両手を見た。
拓海の足を温め、楽にしてあげるはずだった自分の手。
かえって彼を打ちのめし、貴重な体力を奪ってしまった。
「あゆみちゃん」
後ろから声をかけてきたのは、実務リーダーの中堅看護師・藤井陽子だった。
陽子はあゆみの青ざめた顔を見ると、処置室の奥にあるスタッフ用の休憩スペースへあゆみを促した。
あゆみはパイプ椅子に腰掛け、うつむいて涙をこらえた。
陽子は温かい緑茶の入った紙コップを差し出した。
「・・ショックだったわね」
「私・・拓海さんの足を楽にしてあげたくて・・少しでも笑顔になってほしくて・・私のせいで、拓海さんをあんなに苦しませてしまって・・」
あゆみの声が途切れ、ぽろぽろと涙が膝の上にこぼれ落ちた。
陽子は怒るでもなく、困ったような、けれど包み込むような優しい目であゆみを見つめた。
「あゆみちゃん。あなたの『楽にしてあげたい』っていう気持ちは、嘘じゃないし、とても温かいものよ。でもね・・」
陽子は静かに言葉を区切った。
「緩和ケアでは、私たちの『何かしてあげたい』という思いは、時に患者さんの残された貴重な体力を奪ってしまう『エゴ』になっちゃうことがあるの」
「エゴ・・」
「そう。がん悪液質が進んでいる患者さんはね、私たちが想像する以上に、ただ横になっているだけでも全身のエネルギーを激しく消費しているの。足浴やマッサージは確かに気持ちがいいけれど、皮膚を刺激したり、体位を変えたりするだけで、彼らにとってはフルマラソンを走るくらいの負担になることもあるのよ」
陽子の言葉が、あゆみの胸に重く突き刺さった。
「自己満足で手を出しすぎちゃいけないのよ。『何もしないで、静かにそばで見守る』というのも、患者さんを守るための立派な看護なの。引き算の看護って、引き受ける私たちにとっても一番勇気が要ることなのよ」
陽子はあゆみの肩を優しく撫でた。
「手を伸ばせば届くように思えても、患者さんの身体の叫びには届かないことがある。自分の手すり(手出し)の限界を知ること。それが、プロの看護師として患者さんの命と向き合うってことじゃないかしら」
夕暮れ時。
病棟の廊下には、琥珀色の柔らかな光が伸びていた。
あゆみは一人、ナースステーションで拓海のカルテを開いた。
今日の経過と自分の反省を静かに打ち込んでいた。
キーボードを叩く指先は、朝のような焦りや気負いから解放されていた。
『302号室 真山拓海様。足浴試みるも、全身倦怠感および悪心増悪あり中止。患者のエネルギー消費に配慮し、今後は無理な介入を避け、愛撫抹消や体位変換の頻度も最小限の負担にとどめる方針とする』
打ち込みを終え、あゆみは再び302号室の前に向かった。
引き戸を数センチだけ静かに開け、中の様子を覗く。
拓海は酸素カニューレを装着し、静かな寝息を立てて眠っていた。
窓の外からは、夕闇に染まりゆく葉桜の枝が、風に静かに揺れているのが見える。
あゆみは部屋に入らず、ドアの隙間からその穏やかな寝顔をじっと見つめた。
今、自分にできる最大の看護は、中に入って声をかけることではなく、彼の眠りを邪魔せずにここで静かに見守ること。
伸ばしかけた自分の手のひらをそっと見つめる。
患者の苦痛をすべて取り除くことはできない。
届かない想いもある。
けれど、その届かなさを知った上で、それでも寄り添い続けること。
あゆみは静かに引き戸を閉め、夕暮れの廊下を静かに歩き始めた。




