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第2話 沈黙の温度

 四月中旬の朝。

 四階の緩和ケア病棟に差し込む陽光は、日ごとに柔らかさと温もりを増していた。

 窓枠の向こうに見える病院の中庭では、ソメイヨシノが葉桜へと移り変わり、その下でツツジが小さな紅色の蕾をふくらませ始めている。


 木下あゆみは、ナースステーションのカウンターで早番の申し送りノートを開いていた。

 ナースステーション内には、電子カルテを打ち込むキーボードの規則的なカタカタという音や、スタッフ同士が交わす低い打ち合わせの声が流れている。

 一般病棟のような切迫した怒号や走る足音はないものの、毎朝の申し送りには独特の静かな緊張感が漂っていた。


 あゆみの目が、担当患者である真山拓海の欄で止まった。

『302号室 真山拓海様(25歳)。昨夜未明より、上腹部から背部にかけての持続的な鈍痛が著しく増悪。NRS(痛みスケール)6〜7。夜勤帯にてレスキュー麻薬を2回使用するも、鎮痛効果は一時的。睡眠障害あり。今朝より、病棟医長・佐藤医師の指示にてフェンタニル持続皮下注射を開始予定』

「昨日の夜、そんなに痛んでいたんだ・・」

 思わず口の中で小さなつぶやきが漏れた。

 配属されて二週間。

 あゆみは毎日拓海の病室を訪れていたが、彼はいつであゆみが部屋に入ると「大丈夫です」と透明な微笑みを浮かべるばかりだった。

 だが、それは痛みがなかったわけではなく、あゆみの焦りや緊張を察して、気を使って耐えていただけなのだと思い知らされた。

 自分の目がいかに表面しか見えていなかったか、胸の奥がチクリと痛んだ。


 申し送りが終わると、ナースステーションの奥にある処置室で、緩和ケア医の佐藤健介と薬剤師の乾達也が静かに準備を進めていた。

 佐藤医師は眼鏡の奥の目を穏やかに細め、乾薬剤師がアンプルケースから取り出した医療用麻薬のガラス容器を検品している。

 カチリ、と小さなガラス同士が触れ合う澄んだ音が処置室に響いた。

「乾さん、ベースの投与量は0.5ミリグラム/日から始めましょう。痛みのピークが落ち着くまで、刺入部の皮膚状態も注意して見てあげてください」

「了解しました、佐藤先生。持続皮下注用の専用翼状針と、透明保護フィルムのテガダーム、ポータブルシリンジポンプの準備は完了しています」


 乾は手慣れた無駄のない手つきで、ガラスアンプルからシリンジへ透明な薬液を吸い上げ、気泡をひとつ残さずにシリンジの筒から抜いていく。

 筒をコンコンと指先で叩くその動作には、長年の経験に裏打ちされた絶対的な正確さがあった。

「木下さん、一緒に302号室へ行きましょうか」

 佐藤医師に優しく声をかけられ、あゆみはハッとして姿勢を正した。

「あ、はい! よろしくお願いします!」

 あゆみは真新しいナース服のポケットの中で、メモ帳を強く握りしめた。

(今日こそ、ちゃんと拓海さんの力になりたい。私にできるケアを見つけなきゃ)

 強い気負いが、あゆみの肩や背中に固い力を入らせていた。


『302』の木製引き戸をそっと開けると、病室の中には重苦しい沈黙が満ちていた。

 昨日までの静かだが穏やかだった空気とは、明らかに一変している。

 南向きの大きな窓から注ぐ午後の柔らかな日差しの中で、拓海はベッドの上で左側を下にして横向きになり、両膝を胸元へ深く折り曲げるようにして身体を小さく丸めていた。

 浅く早い呼吸。

 薄いパジャマ越しでも、背中から肩にかけての筋肉がガチガチに強張っているのが分かる。

 額には細かな汗の粒がびっしりと浮かび、固く閉じられた瞼の端には苦痛に耐える深い皺が刻まれていた。


「拓海さん・・」

 あゆみはたまらずベッドサイドへ駆け寄った。

「大丈夫ですか? 痛みますか? どこが一番辛いですか? 背中ですか? お腹ですか? クッション持ってきましょうか!?」

 矢継ぎ早に言葉を投げかけながら、あゆみは拓海の肩に手を置こうとした。

 だが、あゆみの声と気配に驚いたのか、拓海の身体が一瞬、ピクリと強く緊張して跳ねた。

「・・あ」

 拓海は薄く目を開けたが、あゆみと視線を合わせるだけの余裕すらなさそうだった。

 浅く荒い呼吸を繰り返し、かすれた声で「大丈夫・・です」と途切れ途切れに絞り出す。

 その短い声は、あゆみの問いかけに答えること自体が、今の彼にとって激しい負担になっていることを物語っていた。


 あゆみは息を詰まらせ、伸ばしかけた手を宙で止めた。

(私、またやってる・・)

 患者を楽にしてあげたいという自分本位な一心で投げかける質問だった。

 それが、必死で痛みに耐えている拓海にとっては、ただのうるさい雑音になり、貴重な体力を削っている。

 自分の無力さと空回りに、足元が暗く沈んでいくような激しい情けなさを感じた。

 その時、病室の引き戸が静かに、滑らかに開いた。


「失礼しますね、真山さん」

 入ってきたのは、介護福祉士の小野寺まどかと、先ほど処置室にいた薬剤師の乾だった。

 小野寺の手には、大きさや固さの異なるいくつかのポジショニング用クッションと、保温容器に入った温かい蒸しタオルが握られている。

 二人の立ち振る舞いには、あゆみがまとっていたような焦りや慌ただしさが一切なかった。

「真山さん、少しお身体を楽にしましょうね。声は出さなくて大丈夫ですよ」

 小野寺の声は、低く、穏やかで、部屋の重い空気を静かに包み込むような優しさがあった。

 彼女は拓海の背後にそっと回り込むと、拓海の浅い呼吸の波をじっと見つめた。

 息を吐き出すタイミングを合わせるようにして、拓海の背中から腰にかけて、温かく大きな手のひらをそっと添えた。


 余計な問いかけは一切しない。

 ただ、温もりと安定感を伝えるように静かに手を当て続ける。

 それだけで、拓海の肩に入っていた極度の緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。

 小野寺はあゆみに向かって、声を出さずに優しく目配せをした。

 あゆみがハッとして傍らに寄ると、小野寺は手際よくクッションを拓海の膝の間と、胸元に抱え込ませるように挿入した。

 体重が一箇所に集中して痛みを増幅させないよう、体圧を分散させるためのポジショニングだ。


「ここ、腰の後ろに少し隙間ができますね。この細いクッションを差し込みましょう」

 小野寺の指示は簡潔で、手つきには一切の迷いがない。

 拓海の皮膚に触れる動作は羽毛のように柔らかく、けれど身体を預けられる確かな安定感があった。

 乾薬剤師はベッド脇の持続ポンプ架台に手際よく小型シリンジポンプをセットし、拓海の胸元のパジャマを少しだけ緩めた。

 消毒綿で皮膚を丁寧に清拭し、極細の翼状針を皮下へ素早く刺入する。

 拓海が痛みに顔をしかめないよう、最小限の刺激で針を固定し、透明なテガダームフィルムを貼った。

「真山さん、フェンタニルという痛みを抑えるお薬が入っていきますよ。15分ほどすると、お腹の張りと痛みがゆっくり和らいできますからね」

 乾の言葉は説明調ではなく、拓海の不安を解消するための静かな確信に満ちた言葉だった。

 シリンジポンプのスイッチが入れられると、チチチ・・という極めて小さな駆動音とともに、液晶画面に緑色の小さな動作ランプが点灯した。


 あゆみは、二人の洗練されたケアの動きを息を呑んで見つめていた。

 小野寺も乾も、拓海に対して「どこが痛いですか」「我慢しないでください」といった過剰な問いかけや励ましの言葉を一切かけていない。

 だが、小野寺の手が拓海の背中を撫でるゆっくりとしたリズム、乾がポンプの投与ラインに折れがないかを確かめる静かな指先・・そのすべてが、拓海に「私たちはここにいて、あなたを全力で守っている」という無言の安心感を与えていた。


 やがて、ぽつりと拓海の口から長い息が吐き出された。

 膝の間と胸元に挟まれたクッションに身体の重みを預け、固く結ばれていた拓海の眉間の皺が、ゆっくり解けていく。

 浅く荒かった呼吸が、少しずつ深く、規則正しいリズムを取り戻し始めていた。

「・・あ・・楽に、なってきた・・」

 拓海の口から、掠れたつぶやきが漏れた。

「よかった。薬がしっかり効いてきましたね」

 乾は静かに微笑み、シリンジポンプの残量と流量を再確認した。

 小野寺もまた、保温容器から温かい蒸しタオルを取り出し、拓海の額や首筋に浮かんでいた冷や汗を優しく拭い取っていく。

「木下さん、あとは手元の汗を拭いてあげてね。私たちは一旦ステーションに戻るから」

 小野寺にあゆみの肩をトントンと優しく叩かれ、あゆみは深く深く頷いた。

「はい・・ありがとうございます」

 二人は静かに病室を後にした。引き戸が閉まる軽い音が響き、波が引くように部屋に静寂が戻ってきた。


 病室には再び、あゆみと拓海の二人だけが残された。

 午後の斜光が少しずつ角度を変え、床に落ちる琥珀色の光の帯がゆっくりと伸びている。

 あゆみは、小野寺が置いていってくれたもう一枚の温かい蒸しタオルを手に取った。

 もう、さっきのように焦って言葉を投げかけることはしなかった。

 息を潜め、拓海の静かな呼吸の音に自分の呼吸のペースを重ねていく。

 拓海の右手が、ベッドのシーツの上に力なく置かれていた。

 痛みに耐えていたせいで、指先は固く握りしめられ、微かに震えている。


 あゆみはベッド脇の丸椅子を引き寄せ、静かに腰を下ろした。

 蒸しタオルを両手で包み、拓海の握りしめられた指先にそっと重ねた。

 拓海の身体が小さく反応したが、あゆみが動かずに静かな温もりを伝え続けると、すぐに固さがほぐれていった。

 あゆみは余計な言葉をかけず、タオル越しに拓海の指先を一本ずつ丁寧に包み込み、ゆっくりと汗を拭っていった。

 爪の根元、指の関節、手のひらの皺に沿って、温かいタオルの熱を染み込ませるようにして拭う。


 言葉はいらない。

「辛かったですね」「痛かったですね」と飾られた言葉を重ねるよりも、今この瞬間、彼の痛みに寄り添い、ここに留まっていると伝えること。 

 それを、手を通した温度で伝えること。

 それが、この緩和ケア病棟で求められる看護の原点なのだと、あゆみは身をもって理解し始めていた。

(言葉じゃない・・この手で、届ける)

 あゆみが丁寧に手を拭い続けていると、拓海の指先からすっかり力が抜け、ベッドの上に柔らかく開かれた。

 ふと拓海の顔を見ると、固く閉じられていた目蓋がゆっくりと開き、あゆみの手元をじっと見つめていた。

 その瞳には、最初に出会った時のあきらめや拒絶の色はなかった。

 透明で、穏やかな光が宿っていた。


「・・木下さん」

「はい」

 あゆみは短く答えた。余計な言葉は付け足さない。

「手・・すごく、温かいです」

 拓海の口元に、微かな、けれど確かな笑みが浮かんだ。

 それはあゆみに気を使った作り笑いではなく、痛みが引き、心から安らぎを感じている人間の微笑みだった。

「・・よかった」


 あゆみの胸の奥から、じんわりと温かいものがこみ上げてきた。

 拓海の eyelidsまぶたが重そうに閉じられ、やがて規則正しい静かな寝息が病室を満たし始めた。

 強力なオピオイドの薬効と、身体が苦痛から解放された安心感により、深いまどろみの中に落ちていった。

 拓海が完全に穏やかな眠りについたのを確認し、そっと手を離した。

 窓の外では、夕暮れの風に揺れる葉桜の枝が、穏やかな影を病室の壁に映し出している。


 あゆみは静かに立ち上がり、拓海の穏やかな寝顔を見つめた。

 完璧な言葉なんていらない。

 患者の沈黙に寄り添い、その温度を感じ取ること。

 看護師として歩むべき道のりの先が、少しだけ明るく照らされたような気がした。

 あゆみは静かに病室内を整えると、足音を立てずに病室を後にした。

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