第9話 小さな願い事
七月下旬の蒸し暑さが届く昼下がり。
四階の緩和ケア病棟に差し込む日差しは、眩しいほどに強い。
窓の外の中庭からは蝉時雨が一層激しく響いている。
エアコンから吹き出す冷風には、消毒液の匂いと夏特有の湿った空気の匂いが混ざり合っている。
木下あゆみは、ナースステーションでリーダーの藤井陽子とともに、『304号室』の浅野由美子(四十二歳)のバイタルサインと最新の看護記録を確認していた。
血圧は98/62mmHg、脈拍88回、微熱37.4℃。
右腕の周径は左腕よりも4センチ以上太く、強いリンパ浮腫を呈していた。
オピオイドにより痛みはコントロールされていたが、重だるさと全身倦怠感が彼女の体力を奪っていた。
「陽子さん、浅野さんの右腕、おむくみが強くなってお着替えも大変そうです」
「ええ、今日は温かい蒸しタオルで優しく包んで、トリートメントしながら体位変換しましょう。浅野さん、息子さんの陸くんの写真をいつもベッド脇で見つめていらっしゃるのよね」
あゆみと陽子は検温用のバイタルカートを押し、『304号室』の引き戸をそっと開けた。
病室の中では、由美子がベッドの上で、使い古されたアルバムを薄く開いて愛おしそうになぞっていた。
幼稚園の運動会で笑顔を見せる陸の姿や、家族三人で作った手作りカレーを囲む写真が貼られていた。
二年前に乳がんが見つかった。
抗がん剤治療や放射線治療を続けてきたが、全身への骨転移と肝転移が判明していた。
二週間前にこの緩和ケア病棟へ転院してきたのだった。
「浅野さん、右腕のおむくみ、少し冷やし込まないように温かい蒸しタオルで包みましょうね。クッションの高さも微調整します」
陽子が優しく声をかけながら、手際よく体圧分散クッションで右腕を安楽な高さに保持する。
由美子は痩せた顔に感謝の微笑みを浮かべた。
あゆみは保湿用クリームを手に取り、由美子の浮腫んだ右腕に優しく伸ばしながら、肌の強張りや発赤がないかを視診した。
由美子には、小学三年生になる九歳のひとり息子・陸がいた。
三年前、夫を突然の病気で亡くし、女手一つで陸を愛おしく育ててきた由美子だった。
病状の進行とともに、自分に残された時間がわずかであることを悟っていた。
陸は毎朝学校へ行く前に病室へ顔を出し、「お母さん、行ってくるね!」と手を振った。
放課後もランドセルを背負ったまま病室へ駆けつけてきた。
抗がん剤の副作用で髪が抜けた時も、「お母さんの帽子、カッコいいよ」と笑って励ました。
体位変換を終え、あゆみがシーツの皺を丁寧に伸ばしていると、由美子がぽつりと、掠れた声でつぶやいた。
「藤井さん・・木下さん。私ね、一つだけ、叶えたい我が儘があるの」
陽子にあゆみが手を止め、由美子のベッド脇に腰を落とした。
「我が儘なんて言わないでください。何でも言ってください」
由美子は涙を浮かべ、自分の右手を愛おしそうに見つめた。
「私ね、もうすぐ陸の傍にいられなくなるでしょう・・。あの子に何も残してあげられないけれど、最後にもう一度だけ、手作りのカレーを作ってあげたいの。昔から作っていた、甘くて人参がごろごろ入ったカレー・・。私のカレーの味を、あの子の舌と記憶に残してあげたいのよ」
由美子の切実な想いが、病室の静けさに染み渡った。
自身もふたりの幼い子どもを持つ母親の陽子は、胸を突かれたように息を呑み、由美子の手を握りしめた。
自身の子どもたちの顔が脳裏をよぎった。
同じ母親として「我が子に何を残せるか」という切ない思いが陽子の目を濡らした。
「浅野さん・・分かりました。その願いを叶えましょう!」
ナースステーションに戻ったあゆみは、管理栄養士の松永玲子(三十八歳)のもとへ向かった。
松永は「食事のスペシャリスト」と呼ばれる管理栄養士だ。
食欲の落ちた末期患者から「今、本当に食べたいもの」を聞き出し、固形物からジュレ、ゼリーまでミリ単位で食感と温度をカスタマイズする。
末期医療における「嗜好品としての食」と「精神的QOL(生活の質)」の維持を誰よりも大切に考えていた。
由美子の想いを聞いた松永は、眼鏡の奥の目を見開いた。
「乳がん末期で右腕のリンパ浮腫と倦怠感がある浅野さんが、カレー作りね・・! よし、やりましょう! 栄養管理だけが私の仕事じゃないわ。患者さんが最期に子どもへ遺したい思いを形にしてあげましょう!」
松永はノートを開き、手際よく安全で衛生的な調理プロトコルを書き始めた。
「浅野さんの右腕の握力低下を考慮して、人参や玉ねぎ、じゃがいも、豚肉は調理室であらかじめ小さくカットしておくわ。包丁を強く握らなくても、お鍋に投入できる形にするの。火を使わずに安全に加熱できるよう、病棟デイルームのIHクッキングヒーターを使いましょう。中心静脈カテーテルの保護と手指消毒を徹底して、車椅子に乗ったまま、ベストな高さで鍋をかき混ぜられる特製台を用意するわ!」
男性看護師の瀬戸大介と介護福祉士の小野寺まどかも「手伝いますよ!」と二つ返事で名乗りを上げた。
瀬戸はデイルームの一角に車椅子用の高さ調整デスクを組み立てて清潔な調理スペースを設営した。
小野寺は由美子の右腕の重みを支える専用の肘置きクッションと、手袋、三角巾、エプロンを準備した。
小野寺が由美子の髪を三角巾に収め、鏡を見せた。
由美子は「久しぶりにお母さんの顔になれたわ」と微笑んだ。
夕方五時。
病棟のデイルームで、一夜限りの特別調理イベントがスタートした。
車椅子に乗った由美子は、三角巾とエプロンを身につけ、緊張と喜びに胸を躍らせていた。
あゆみが車椅子の位置を調整し、松永が準備した特製IH調理器の前にセッティングする。
鍋からは出汁と炒め油の香ばしい匂いが立ち上っていた。
「浅野さん、じゃがいもと人参を鍋に入れましょうね。僕が一緒に手を添えますから」
瀬戸が優しく声をかけ、由美子の動きづらい右手をそっと支えた。
由美子は小さくカットされた具材を鍋に投入し、木べらを握った。
あゆみが左側から鍋を固定し、松永が火加減をIHのタッチパネルで調整する。
ジュウ・・という心地よい炒め音がデイルームに響き、豚肉から旨味のある脂が染み出して野菜と絡み合っていく。
「浅野さんお上手! 玉ねぎが綺麗な狐色になってしんなりしてる。お水入れましょう」
松永の声に合わせ、由美子は木べらをゆっくりと回した。
「陸はね、普段は人参が嫌いなんだけど、私が作ったカレーの人参だけは食べてくれるのよ・・」
由美子の顔に生き生きとした母親の顔が戻っていた。
カレールーを入れ、隠し味のハチミツとりんごのすりおろしを加えた。
木べらで静かに溶かした。
グツグツという静かな泡立ちとともに、香ばしいカレーの匂いがデイルームから病棟の廊下全体へと広がっていった。
デイルームの通りがかりの他の患者たちも「あら、いい匂いねえ」「昔の我が家の夕方と同じ匂いがするわ」「お母さんのカレーの味は一生忘れないものよね」と笑顔で覗きに来た。
病棟全体に温かな家庭の空気が広がっていった。
「できた・・陸のためのカレー・・」
由美子が涙を浮かべて微笑んだ。
あゆみも陽子も、胸がいっぱいになって拍手した。
午後六時。
面会時間にやってきた九歳の陸が、デイルームのドアを開けた。
「あ・・お母さんのカレーの匂いがする!」
陸がランドセルを背負ったまま目を丸くして駆け寄ると、由美子は車椅子の上で優しく手を広げた。
「陸、おかえり。今日陸のためにカレーを作ったよ。たくさん食べて」
松永と小野寺が手際よく盛り付けた温かいカレーライスが、陸の前に運ばれた。
大きめの人参と甘い玉ねぎがたっぷり入った、由美子特製のカレーだ。
陸は小さな手でスプーンを握り締め、「いただきます!」と大きな口でカレーを頬張った。
「・・ 美味しい! お母さんのカレー! 学校で食べたカレーと全然違う!」
陸の目からポロポロと大きな涙がこぼれた。
母との別れが近いことを感じ取っていた。
陸は、一口一口を噛み締めるようにカレーを平らげていった。
食べ終わると、「ごちそうさまでした!」と自分でお皿をキッチンまで運んだ。
「お母さん、すっごく美味しかったよ! ありがとう!」
「良かった・・。お母さんがいなくなっても、ときどき私のカレーの味を思い出してね」
由美子は陸の頬の涙を指先で優しく拭い、ぎゅっと抱きしめた。
松永栄養士が手書きのイラスト付きのカードを一枚、陸に手渡した。
「陸くん、これはね、お母さんが作った今日の特製カレーのレシピメモよ。『りくくんへ おあずかりレシピ』。大きくなったら、このレシピを見て自分でも作ってみてね」
陸はそのカードを胸に大切そうに抱きしめた。
「うん! 僕、この紙をお部屋の勉強机に貼っておく! 大きくなったら絶対自分で作れるようになる!」と頷いた。
面会時間が終わった。
陸は「お母さん、また明日ね!」と元気いっぱいに手を振って帰っていった。
病室に戻った由美子は、安心したように穏やかな深い寝息を立てて眠りについた。
病室とデイルームを包み込む、温かい家庭の匂いと家族の時間。
デイルームの陰でその光景を見守っていた陽子は、涙を拭いながらあゆみの肩を抱きよせた。
瀬戸も小野寺も、陽気な松永栄養士までもが、鼻をすすりながら温かい笑顔で見つめていた。
あゆみは、胸の奥が感動で一杯だった。
緩和ケアとは、ただ苦痛を取り除くだけではない。
患者が最期まで「大切な人のための自分」であり続けるためのお手伝いをすること。
患者の思いを、遺される者へと繋ぐ「バトン」のケアをすること。
夕暮れのベランダに出て、沈みゆく茜色の空を見上げた。
夕闇が深まる病棟に、手作りカレーの香ばしい匂いと家族の笑い声が残っていた。
あゆみの心に、命の思い出をずっと大切に守っていこうという思いが芽生えていた。




