第10話 未来への手紙
七月が終わりに近づいていた。
昼間のうだるような暑さが嘘のように、深夜の四階・緩和ケア病棟は、しんと深い静まり返っていた。
開け放たれた廊下の突き当たりの窓から、湿り気を帯びた涼しい夜風が吹き込んでいる。
薄手のリネンのカーテンをふわり、ふわりと優しく揺らしている。
外から聞こえてくるのは、遠くの幹線道路を走るトラックの微かな走行音と、網戸の向こうで鳴く虫たちの小さな声だけ。
昼間はご家族の面会やスタッフの足音で賑やかなこの場所も、夜になると、患者さんたちが静かに自分自身の命と向き合う、別世界のような穏やかな空間に変わる。
木下あゆみがこの緩和ケア病棟に配属されてから、こうした静かな夜を何度も過ごしてきた。
多くの別れを見届けてきたが、幼い子どもを残して旅立つ母親の看護は、何度経験しても胸が締め付けられる思いだった。
深夜一時。
夜間の巡回の当番だった。
ナースステーションで各部屋のモニターを一つひとつ確認したあと、懐中電灯を手に静かな廊下へ出た。
ゴム底のナースシューズが床を擦る音さえ立てないように気をつけながら歩いた。
304号室のドアの前で立ち止まった。
そっと引き戸を開けると、薄暗い病室の中、ベッドサイドの小さな読書灯だけが、ぽつんと温かいオレンジ色の光を落としていた。
ベッドでは、浅野由美子が少し身体を起こして座っていた。
病気による強い痛みをこらえるように、時折「ふぅ・・」と浅く息をつきながら、ひどく痩せて骨張った手でボールペンを握っている。
枕元の点滴スタンドでは、小さな医療用のポンプが、ホタルの光のように緑色のランプをチカチカと点滅させている。
痛みを和らげるためのお薬を少しずつ、少しずつ送り出している。
それでも完全に痛みを取り去ることはできず、由美子の額にはうっすらと汗がにじんでいた。
彼女の膝の上には、桜の花びらが繊細な糸で刺繍された小さな木の箱と、分厚い大学ノートが広げられていた。
「浅野さん・・こんな夜更けに、どうされたんですか? 痛み、強いですか?」
あゆみが懐中電灯の明かりを消し、小声でベッドに近づいた。
由美子は少し驚いたように顔を上げ、ペンを持ったまま、はにかむように微笑んだ。
「あ、木下さん。ごめんなさいね、・・ううん、お薬が少し効いてきて、今は痛みがずいぶん和らいでいるの。だから、頭がはっきりしている今のうちに、少しでも書いておきたくて」
そう言うと、由美子は少し乾いた咳をした。
「お水、少し飲みましょうか。喉が渇いていると、咳が出やすくなりますから」
あゆみがストロー付きのコップに冷たいお水を用意して手渡した。
由美子は両手でコップを受け取り、ゆっくりと一口飲んだ。
「・・ああ、おいしい。ありがとう、木下さん。生き返るみたい」
ほっとしたような息をつき、由美子はコップをサイドテーブルに置いた。
あゆみは「少し、ここにいてもいいですか?」と尋ね、ベッドのそばの丸椅子に腰を下ろした。
由美子の呼吸のペースや、顔色をすぐそばで見守った。
ふと、由美子の膝の上にあるノートに目をやった。
そこには、少し震えたような文字がいっぱい書き込まれていた。
『陸へ。十歳の二分の一成人式を迎えるあなたへ』
『陸へ。小学校を卒業する、少し大きくなったあなたへ』
『陸へ。中学生になって、初めて好きな女の子ができたあなたへ』
『陸へ。どうしても寂しくて、泣きたくなった夜に読むあなたへ』
『陸へ。二十歳になって、お酒が飲めるようになった大人なあなたへ』
あゆみは、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
そこに並んでいたのは、未来の息子へ向けた、たくさんの手紙だった。
自分に残されたわずかな時間を使って、言葉を少しでも息子へ残したい。
そんな母親の胸が痛くなるような思いで、由美子は筆を取っている。
息子の成長の節目ごとに、隣で声をかけてあげたかった言葉。
それを、いまのうちに一つひとつ書き残しているのだった。
「あの子ね、今年で九歳でしょう・・」
由美子はペンをそっとノートの上に置いた。
桜の刺繍が施された木の箱を愛おしそうになでながら、話し始めた。
「この箱ね、陸が生まれた時に、主人が私にプレゼントしてくれたものなの。『これからは三人で、桜の季節を一緒に見ようね』って言って。・・でも、主人は三年前に病気で逝ってしまった。私もまもなく、あの子を一人ぼっちにしてしまう」
由美子の声が、微かに震え始めた。
「三年前、夫が亡くなった夜ね・・私、あの子の前では絶対に泣かないって、強いお母さんでいるんだって決めていたのに、どうしても我慢できなくて・・仏壇の前で一人で声を殺して泣いてしまったの。そうしたら、まだ六歳だった陸が、どこからか小さな手でタオル地のハンカチを持ってきてくれてね・・。私の背中をぽんぽんって叩いて、『お母さん、泣かないで。僕がいるからね。僕がお母さんを守るからね』って、背伸びをして涙を拭いてくれたの」
思い出すように目を細める由美子の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
ノートの余白に小さな丸いシミを作った。
「私が抗がん剤の治療でひどく具合が悪かった時もね、あの子、台所で見よう見まねでおにぎりを作ってくれたのよ。塩とご飯の量がバラバラで、形もいびつだったけれど・・私にとっては、世界で一番おいしいおにぎりだったわ。あの子はね、私の悲しみや苦しみを誰よりも分かってくれる、本当に優しくて、強がりな子なの。だからこそ、私がいなくなることで、これ以上あの子に悲しい思いをさせたくない・・。私が死んだら、あの子はまた、誰も見ていないところで一人で泣くんだわ。それを想像するだけで、身体の痛みなんかより、ずっとずっと胸が張り裂けそうになるの・・」
由美子の言葉は、せきを切ったようにあふれ出した。
「来年の十歳のお祝いも、小学校の卒業式も、中学生になって制服を着る姿も・・私はもう、見てあげられない。泥だらけになった体操服を洗ってあげることも、『宿題やりなさい!』って叱ってあげることも、落ち込んでいる時に、あの子の大好きなオムライスを作ってあげることもできない。・・毎朝、玄関で『行ってらっしゃい、気をつけてね』って、あの小さなランドセル姿を見送るのも、もう、あと何回できるか分からないのね・・」
由美子は唇を強く噛み締め、両手で顔を覆って、声を殺して肩を震わせた。
病室に、抑えきれない嗚咽が小さく響いた。
あゆみには、慰めの言葉は何もかけられなかった。
「大丈夫ですよ」とか「陸くんならきっと立派に育ちますよ」といった言葉では、悲しみで引き裂かれそうになっているお母さんを癒やすことなど絶対にできない。
あゆみは無言のまま立ち上がり、洗面台でタオルを温かいお湯で濡らし、固く絞った。
そして、ベッドに戻ると、丸まった由美子の細い背中にその温かいタオルをそっと当てた。
「浅野さん・・」
優しく背中をさすりながら、彼女の華奢な肩を静かに抱き寄せた。
言葉はいらなかった。
薄いパジャマ越しに伝わってくる由美子の背中の震えと、痛いほどの骨の感触が、あゆみの手のひらを通して心に響いた。
あゆみは一定のリズムで背中をさすり続けた。
その静かで温かい時間が、由美子のあふれる涙と、母親としてのやり場のない悔しさを、少しずつ、少しずつ受け止め、癒やしていった。
由美子の肩の震えが少しだけ穏やかになった。
「浅野さん・・陸くんへのお気持ちが、この手紙の文字の一つ一つに、たくさん詰まっていますね。浅野さんの思い、絶対に陸くんに届きますよ」
あゆみが耳元でそっとささやいた。
由美子は顔を上げ、差し出したタオルで涙を拭き、小さくうなずいた。
「ありがとう、木下さん・・。ごめんなさいね、夜中に泣いてしまって。でも、背中をさすってもらって、誰かに話を聞いてもらえたら、少し心が落ち着いたわ。・・あの子のために、私、もう少しだけ頑張って書くわ」
由美子は再びペンを握り直し、ノートに向かった。
その横顔は、病と闘う患者の顔ではなく、強くて優しい『母親』の顔だった。
翌日の午後。
病棟の大きな窓からは、眩しいほどの夏の太陽が照りつけていた。
廊下には、外から聞こえる蝉の元気な鳴き声が響き、懐かしい夏の匂いが漂っている。
面会時間にやってきた九歳の陸は、いつものように走って病棟にやってきた。
少し日に焼けた額に汗をかいていた。
その小さな手には、図工の時間で作った紙粘土の作品と、色紙で折った不格好な折り紙が大事そうに握られていた。
「お母さん! きたよ!」
陸は元気な声で304号室のドアを開け、うれしそうにベッドへ駆け寄った。
由美子は、昨夜の涙や、強い痛みをまったく感じさせない、いつもの優しいお母さんの笑顔で陸を迎えた。
母親としての強さに、あゆみは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「陸、いらっしゃい。外、暑かったでしょう。学校はどうだった?」
「うん! 今日ね、体育の時間にとび箱をやったんだよ。僕、四段も跳べたんだ! 先生にも褒められたよ!」
「まあ、すごいじゃない。陸は足も速いし、運動神経がいいのね」
「へへっ。あ、そうだ! ほら、これ!」
陸が自慢げに見せたのは、絵の具で丁寧に色を塗られた、由美子の笑った顔。
そして、少し端がずれているけれど、一生懸命に折られた鶴のお守りだった。
「まあ・・。お顔とお守り? 陸、すごく上手ね。色塗りもとっても綺麗。お母さん、とってもうれしいわ。宝物にするわね」
由美子は細い手でそれらを受け取り、うれしそうに目を細めた。
「うん! 僕、図工が大好きなんだ。大きくなったら、大工さんになって、お母さんがずっと元気でいられるような本物のお家も作ってあげるからね!」
元気いっぱいに語る陸を、由美子は愛おしいものを見るように見つめた。
サイドテーブルの引き出しから、昨夜あゆみが見た、あの桜の刺繍の木の箱をゆっくりと取り出した。
「陸、ちょっとお母さんの横に座って」
陸が不思議そうにベッドの端に腰掛けると、由美子はその箱を陸の小さな両手の上にそっと乗せた。
「これはね、お母さんから陸への、特別な宝物の箱」
「宝物の箱・・?」
「そう。中にはね、陸が十歳になった時や、中学生になった時、大人になった時に読んでほしい、お母さんからの手紙が入っているの」
陸は箱のふたをそっとなでた。
桜の刺繍のざらっとした手触りを感じながら、少し戸惑ったような顔でお母さんを見上げた。
「手紙・・? いつも一緒にいるのに、どうして手紙なの?」
由美子は陸の目をまっすぐに見つめ、優しく、けれど真剣な声で言った。
「お母さんがね、もし、遠くのお空へお引っ越しすることになっても・・陸が寂しくなった時や、どうしていいか分からなくて迷った時に、この箱を開けて手紙を読んでほしいの。お母さんは、どんなに離れていても、ずっとずっと陸のことを見守っているからね。陸は絶対に、一人ぼっちじゃないのよ」
由美子の言葉の意味を、九歳の陸がどこまで正確に理解したかは分からない。
けれど、陸の大きな瞳から、ぽろっと一粒の涙がこぼれ落ちた。
お母さんの言葉の奥にある「本当のこと」を、直感で感じ取ったのかもしれない。
由美子が両手を広げると、陸は泣きそうな顔のまま、お母さんの胸に顔を埋めた。
由美子は陸の小さな身体を力いっぱい抱きしめた。
陸もお母さんのパジャマの匂い、大好きな匂いに包まれながら、その細い背中に小さな腕を強く回した。
「お母さん・・僕、この箱ずっとずっと大切にする。お母さんのこと、僕、絶対忘れないよ!」
「ありがとう、陸・・。私の子どもに生まれてきてくれてありがとう。お母さんをこんなに幸せにしてくれて、本当にありがとうね」
二人の温かい涙が重なり合った。
病室の入り口で見守っていたあゆみは、二人の貴重な時間を邪魔してはいけないと思った。
胸をいっぱいにして、静かにドアを閉めた。
夕方。
茜色の美しい夕日が、病棟の長い廊下を深いオレンジ色に染め上げていた。
日勤の業務が終わり、あゆみはナースステーションの奥の休憩室で、先輩看護師の藤井陽子、そして臨床心理士の穂高彩香と一緒に、由美子が陸に渡したあの箱のことについて話していた。
二人の子どもの母親でもある陽子は、お茶の入った温かいマグカップを両手で包み込みながら、夕日に染まる窓の外を静かに見つめて言った。
「子どもを置いて先に逝くのってね、親にとって何よりも、身を切られるようにつらいことなのよ。自分が死ぬことの恐怖なんかより、残していく子どもの未来が心配でたまらないの。代われるものなら代わってあげたい、命を分けてあげたいって、お母さんならみんな必ず思うのよ」
陽子の言葉には、同じ母親としての強い実感がこもっていた。
隣で聞いていた臨床心理士の穂高も、静かにうなずきながら言葉を継いだ。
「そうですね。でも、ああやって未来に向けた手紙を残すことは、浅野さん自身が自分自身の心と向き合い、心の整理をつけるためのとても大切な時間になっているんです。自分のあふれるような思いや、子どもへの願いを言葉にすることで、お母さんとしての役割を、人生の最後の最後まで果たそうとしている。それは、私たち医療者がどんなお薬を使っても提供できない、彼女自身の心のための治療でもあるんですよ」
「お母さんとしての役割を、最後まで・・」
あゆみは、昨夜の由美子の涙と、今日の笑顔を思い出し、深くうなずいた。
陽子が優しく微笑んだ。
「それにね、お母さんのあの深い愛情は、きっと陸くんにとって、これからを生きていくための何よりの『心の支え』になるわ。お母さんにこんなにも愛されていたんだって、手紙を読むたびに確信できれば、子どもはこれから先、どんな壁にぶつかっても、どんなに悲しいことがあっても、絶対に乗り越えていける力になるのよ」
「手紙が、陸くんと一緒に生きていくんですね・・」
「そう。私たちは患者さんの命を延ばすことはできなくても、患者さんが残していく『愛の形』を、ちゃんと家族に手渡すためのお手伝いならできる。それも、私たちのとても大切な仕事なのよ」
「はい・・」
あゆみは、二人の先輩の言葉を一つひとつ心に刻み込んだ。
休憩室を出たあゆみは、一人で病棟のベランダに出た。
昼間の熱気がすっかり引き、夏の涼しい夜風が火照った頬に心地よく当たった。
空を見上げると、群青色の空の端に、一番星が静かに力強く輝き始めていた。
お母さんの果てしない愛情と、残される家族への切ないほどの思い。
緩和ケア病棟は、ただ死を待つだけの暗い場所ではない。
最期のときまで、人が人を思いやり、愛を伝え合える、あたたかな場所だ。
患者さんたちが教えてくれる命の大切さを胸に、あゆみは明日もここで笑顔を忘れず、患者さんたちに寄り添おうと、星空に向かって誓った。




