第11話 冷めないスープ
七月最後の朝。
四階の緩和ケア病棟に差し込む日差しは、眩しいほどに白い。
窓枠の向こうからは蝉時雨が絶え間なく降り注いでいる。
廊下を歩くと、前日、デイルームで由美子が作った手作りカレーの香ばしい匂いが、かすかな余韻となって鼻腔をくすぐった。
それは、母が子のために遺した、温かな愛の残香のようだった。
あゆみは、ナースステーションで早番の申し送りノートを開き、由美子の最新の経過を追っていた。
『304号室 浅野由美子様(42歳)。昨夕、長男との調理イベント施行。カレー摂取後、満足された表情にて入眠。今朝より全身の代謝低下著しく、意識レベルJCS III-100(痛み刺激に対しても払いのける動作なし)。収縮期血圧80mmHg台へ低下、尿量著減。チェーンストークス呼吸(無呼吸と過呼吸の周期的な繰り返し)が出現し、終末期移行期と思われる』
「昨日のあんなに生き生きとした笑顔が嘘みたい・・」
胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
腕の浮腫と激しい骨転移の痛みに耐えながら、九歳の息子・陸のために木べらを回していた由美子の姿を思い浮かべた。
母親として最期の願いを全うし、緊張の糸が静かに解けたのだろうか。
肉体は旅立ちの準備を早めていた。
あゆみは検温用のバイタルカートを静かに押し、304号室の引き戸を開けた。
病室の中は、夏の強い日差しを遮るようにレースのカーテンが引かれていた。
柔らかい木漏れ日のような光が床に落ちている。
カーテンが風にふわりと揺れるたび、光と影の模様がベッドの上で穏やかに揺らめく。
由美子は、昨日の三角巾姿とは別人のように、ベッドの上で静かに目を閉じていた。
数十秒の無呼吸の後、浅く速い呼吸が始まる。
再び、次第に静かになっていくチェーンストークス呼吸が続いている。
パジャマの胸元が一定の頼りないリズムで上下している。
頬の削げ落ちた顔立ちには、苦痛のない穏やかな安らぎが漂っている。
あゆみは深く息を吸い込んだ。
由美子に触れる直前、ひと呼吸おいた。
(浅野さん・・お母さんとして最後のお仕事、やり遂げたんだね・・)
胸の奥に込み上げる愛おしさと切なさを抱きしめながら、そっと由美子の左手に触れた。
「浅野さん、おはようございます・・」
あゆみは声を潜めて呼びかけた。
手先や足先には、末梢循環不全によるかすかなチアノーゼ(網状チアノーゼ)が現れ始めており、昨日よりも少しだけ冷たかった。
肌の奥には確かな命の温もりが残っていた。
口腔内の乾燥を防ぐために、濡らしたスポンジブラシで由美子の乾いた唇や粘膜をそっと潤した。
静かな呼吸のリズムに自分の呼吸を合わせる。
言葉を交わすことはできない。
今ここにある彼女の安らかな時間を守ることが、自分の役割なのだとあゆみは感じていた。
十時過ぎ。
病棟の面談室では、メディカルソーシャルワーカー(MSW)の市川沙織が、由美子の妹で陸の叔母にあたる浅野恵美と向き合っていた。
エアコンの静かな送風音が響く室内。
市川はテーブルの上に温かいお茶を二つ並べ、手元の資料を整えた。
急須から注がれたお茶の湯気が、静かな部屋にゆらゆらと立ち上っている。
「浅野さんのご容態ですが、医療チームの観察では、今日から明日にかけてが大きな節目になると考えております」
市川の声は、低く、落ち着いていた。
遺される家族の不安な気持ちに、やさしく寄り添っていた。
恵美は目元を赤く腫らし、握りしめたハンカチで拭いながら小さく頷いた。
「覚悟は・・できています。でも、姉がいなくなったら、残される陸のことが心配で・・あの子はまだ九歳なんです。三年前にお父さんを亡くし、母親までいなくなったら・・。姉は夫を亡くした時も、自分の乳がんが分かった時も、陸の前では一度も涙を見せませんでした。一人で陰で泣いていたんです。陸もあの子なりに、自分の気持ちをずっと押し殺して・・『お母さんに心配かけちゃダメだ』って・・姉がいなくなった後、あの子の心の糸が切れてしまわないか、それが怖くて・・」
言葉が詰まり、涙が溢れた。
市川は手元のハンカチをそっと差し出した。
面談室に沈黙が落ちた。
遺族の悲しみと不安が言葉になって溢れ出すのを待つ時間だった。
あゆみは静かにお茶を注ぎ足し、二人の様子を温かく見守った。
市川は面談室の窓の外に広がる、澄み渡った真夏の青空へ静かに目を向けた。
「おっしゃる通りですね。ですが、子どもは私たちが思っている以上に親の背中を見ていますし、遺された愛を感じ取る力を持っています。大切なのは、陸くんの心のケアと、これからの生活環境を整えることです」
市川は穏やかに視線を合わせ、具体的なサポート案を提示した。
「すでに地域の児童相談所や小中学校のスクールカウンセラーと連携を取り、陸くん専任のグリーフケアチームを編成しております。ご遺族の意向を最優先にしながら、陸くんが寂しさを一人で抱え込まずに健やかに育っていけるよう、遺族年金や公的な学習支援の手続きも私たちがすべてサポートいたします。陸くんは一人ではありませんよ」
市川は「遺族のための子ども支援手引き」を手渡した。
一つひとつ丁寧に説明を加えた。
市川の言葉に、恵美は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、市川さん・・姉も、きっと安心して旅立てます」
患者の身体の苦痛を医師や看護師が取り除くとともに、「残される家族の未来」を支えること。
市川MSWの粘り強い支援が、由美子の魂を自由にしていくのだとあゆみは強く実感した。
午後四時過ぎ。
夕暮れの光が窓から差し込んできた。
304号室の壁やベッドのシーツを深い琥珀色に染め上げていた。
刻一刻と移り変わる光の陰影が、部屋の中の沈黙をより一層濃密なものにしている。
病室には、学校を終えて駆けつけた九歳の陸、叔母の恵美、そして佐藤医長、高橋医師、陽子、あゆみが集まっていた。
由美子の呼吸は、数秒に一回、顎をしゃくり上げるような下顎呼吸へと変わった。
命の引き潮が最終段階に入っていることを告げていた。
胸の上下運動は消え、肩でわずかに空気を吸い上げる動作だけが残っている。
陸はベッドの脇にひざまずき、両手で由美子の右手をしっかりと握りしめていた。
「お母さん・・お母さん・・」
陸の声に、由美子の目蓋がかすかに動いた。
固く閉じられていた瞼の裏に、小さな涙のしずくがじわっと滲み出た。
聴覚は最期まで残ると言われている。
我が子の声をたしかに聞いていた。
病室に息を呑むような静寂が流れた。
陸はボロボロと涙をこぼしながら、しっかりと母親の耳元に語りかけた。
「お母さん、昨日のカレーの人参ね、僕残さないで全部食べたんだよ! レシピの紙もお部屋の机に大切に貼ったんだ。だからね、お母さんがいなくなっても、泣かないで元気に大きくなるよ。天国に行ったら、お父さんに『陸は元気に頑張ってるよ』って自慢してね・・ありがとう、お母さん!」
陸の言葉が終わったとき、由美子の胸が大きく一度だけ膨らみ、すうーっと長い息を吐いた。
そのまま静かに動きを止めた。
ラスト・ブレスだった。
高橋医師がペンライトで両眼の対光反射消失と瞳孔散大(径5.0mm・固定)を確認し、ステトスコープ(聴診器)を心尖部に当てて一分間の完全な心音停止を確かめた。
そして、静かに告げた。
「午後四時二十八分、浅野由美子さん、ご臨終です」
病室に静かな涙が満ちた。
だが、そこにあったのは惨めな敗北ではなかった。
息子を愛し、最後まで懸命に生きたひとりの女性への深い敬意だった。
あゆみと陽子は、陸と恵みが見守る中、丁寧にエンゼルケアを始めた。
全身をアルコールを含んだお湯で丁寧に清拭した。
医療用のテープや点滴のルートをすべて外した。
昨日の調理の時に着ていたエプロンを思い出させるような、花柄のブラウスに着替えさせた。
あゆみはヘアブラシで髪を優しく整えた。
頬にうっすらと紅をのせ、その美しさを守るように、エンゼルメイクを施した。
すべての処置が終わった。
由美子の顔には温かい微笑みが戻っていた。
陸は母親の頬にそっと触れた。
「お母さん、すごくきれいだよ・・」と泣きながら微笑んだ。
午後六時半。
ストレッチャーに乗せられた由美子がご家族とともに病棟を出発する時刻となった。
廊下を移動する車輪の静かな音が、病棟の奥へとゆっくり遠ざかっていく。
ナースステーションの前には、恵子師長、陽子、瀬戸、高橋医師、乾薬剤師、松永栄養士、そしてあゆみが一列に並び、深く静かに頭を下げて見送った。
「浅野さん、本当にありがとうございました」
あゆみは心の中で深く感謝を捧げた。
夜八時。
由美子の見送りを終えた病棟は、再び静かな夜の空気に包まれていた。
あゆみはナースステーションで、陽子、そして管理栄養士の松永と一緒にお茶を飲んでいた。
三人の間に、静かな沈黙が流れていた。
カップから立ち上る湯気を、黙って見つめていた。
デイルームのキッチンは綺麗に片付けられていた。
どこかまだ、手作りカレーの香ばしい匂いが残っているような気がした。
松永が眼鏡を外し、温かいカップを見つめながら呟いた。
「料理ってね、単なる栄養の補給じゃないのよ。作った人の思いが、食べさせた人の血となり肉となり、記憶となることなの。浅野さんが作ったあのカレーは、陸くんの中で一生消えない愛のエネルギーになるわ」
「ええ・・」
陽子は深く頷き、あゆみの肩を優しく抱きよせた。
「『冷めないスープ』って言葉があるけれど、まさにあのカレーは、浅野さんが陸くんに遺した永遠の温もりね。どんなに時間が経っても、陸くんが壁のレシピを見るたびに、お母さんの愛と思い出が彼を温め続けるのよ」
陽子は窓の外の満天の星空を見つめた。
「命は途絶えても、遺された愛は冷めない。それを見届けられるのが、私たちの仕事の誇りね」
「はい・・!」
あゆみは力強く頷き、お茶を一口含んだ。
あゆみは病棟のベランダに出た。
夏の爽やかな夜風が、頬をそっと撫でた。
街の明かりがキラキラと輝き、中庭の木々が風に優しく揺れている。
命が巡り、愛が次の世代へと引き継がれていく。
悲しみを抱えながらも、由美子が残した温かな愛を胸に刻んだ。
明日もまたここで、患者たちに向き合っていこうと深く胸に刻んだ。




