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第12話 水面下の戦い

 八月に入り、うだるような真夏の暑さが連日続いていた。


 病棟の窓ガラスの向こうには、突き抜けるような青空と、高く湧き上がる入道雲が広がっている。

 外では蝉たちが元気いっぱいに鳴き声を響かせ、アスファルトが陽炎で揺れているのが見える。

 けれど、四階の緩和ケア病棟の中は、そんな外の喧騒が嘘のように、まるで別の世界のようにひんやりとした静けさに包まれていた。


 木下あゆみの心の中には、重たい雲が立ち込め、激しい迷いが吹き荒れていた。

 廊下の突き当たりにある、308号室。

 部屋の中に聞こえるのは、エアコンの静かな風の音と、ベッドの脇に置かれた大きな酸素の機械が、ズズッ、ズズッと一定のリズムで空気を吸い込む低い音だけ。

 ベッドに横たわっているのは、肺の病気が深く進行している高木清三さん、七十五歳。

 高木さんの胸は、まるで重たい石を引きずるように、浅く、そして異常な速さで上下を繰り返していた。

 肺には水がたまり、息を吸うための力はほとんど残されていない。

 息をするたびに、首や肩の筋肉が大きく波打つような、見ていて胸が締め付けられるほど苦しい呼吸が続いていた。

 口元を覆う酸素マスクは白く曇り、彼が必死に空気を吸い込もうとしている証拠だった。


 あゆみは、ベッドの横にあるモニターの赤い数字を見つめながら息を呑んだ。

 酸素マスクから、濃い酸素を流しているにもかかわらず、高木さんのSpO2は、決して安全とは言えない低い値を行ったり来たりしている。

 健康な人なら気にも留めない「呼吸」という当たり前の動作。

 今の高木さんにとって、水の中に沈められているようなとてつもない苦しみだった。

 少しでも身体を動かして体力を消耗すれば、一気に数字は下がり命の危険に繋がる。


 高木さんのそばでは、妻の千恵子さんが丸椅子に座り、ご主人の骨ばった手を両手で固く握りしめていた。

 千恵子さんの顔には、何日も泊まり込みで看病を続けている疲れと、愛する人が苦しむ姿を見続けることへのやり場のない悲しみが色濃く浮かんでいた。

 彼女の手のひらは汗ばみ、少しでも夫から温もりを感じ取ろうと、すがるように手を握り続けていた。


「高木さん、息苦しさはどうですか? お薬、少し早めに使いましょうか」

 あゆみが静かに聞いた。

 高木さんはゆっくりと、本当にゆっくりと首を横に振った。

 そして、酸素マスク越しのかすれた声で、最後の力を振り絞るように言った。

「・・家に、帰りたい」

 あゆみの心臓がドクンと跳ねた。

 背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

「・・一晩だけでいい。千恵子と・・あの、古臭い畳の上で・・もう一度だけ、一緒に寝たい・・」

 それは、ただのわがままではない。

 命の終わりを目前にした人が、長年暮らしてきた心の帰る場所を求める叫びだった。

 長年連れ添った妻と、住み慣れた家の匂いに包まれて最期を迎えたい。

 ささやかだが、今の彼にとっては途方もなく大きな願いだった。


 千恵子さんはぽろぽろと涙をこぼした。

「あなた・・無理よ、そんな身体で・・」と泣き崩れた。

 あゆみは心の中で激しく迷っていた。

 看護師としての冷静な自分が、頭の中で激しく警鐘を鳴らした。

(今の高木さんの肺の状態で、お家に帰るなんて絶対に無理。移動する時のわずかな揺れだけでも、酸素の数字は急降下してしまう。もしお家で痰が詰まったらどうするの? 息ができなくなってパニックになったら? 病院のような強力な機械も、すぐに対応できるお医者さんもいない。危険すぎる。医療者として、この希望には『ノー』と言うのが、一番安全で正しい判断だ)

 けれど、一人の人間として、その「正しさ」に激しく抵抗した。

(あと数日で、もしかしたら数時間で命が終わろうとしている人が、最後に一番帰りたい場所へ帰ることを、どうして止めることができるの? 病院の白い天井の下で、ただ安全にモニターの数字を見つめながら息を引き取るだけの最期が、本当に高木さんにとっての幸せなの?)


「・・高木さん」

 あゆみは、震えそうになる声を必死に抑え、高木さんのもう片方の手をそっと握った。

 ひんやりとした皮膚の下で、かすかに、けれど確かに命の鼓動が伝わってくる。

「・・先生たちと、相談してみます。どうすれば安全にお家に帰れるか、みんなで一生懸命考えます」

 あゆみの言葉に、高木さんの目尻から一筋の涙がツーッと流れ落ちた。

 涙は、酸素マスクの縁に吸い込まれていった。


 一時間後。

 ナースステーションでの緊急の話し合いが持たれた。

 あゆみの報告を受けた病棟医長の佐藤先生は、パソコンの画面に高木さんの肺の画像を映し出し、悩ましげな重いため息をついた。

 画面に映る肺は、病気の影響で真っ白に染まり、本来あるはずの空気の通り道はほとんど残されていなかった。

「・・厳しいな。今の高木さんの状態では、移動中の危険が大きすぎる。万が一、介護タクシーの中で急変して息が止まってしまったらどうする? 無事にご自宅に帰れたとしても、奥様お一人で、あの痰の吸引や酸素の管理ができるとは到底思えない。私たち医療者が、患者さんをわざわざ危険な目に遭わせるような判断をしていいのか」


 佐藤先生は決して冷たいわけではない。

 患者さんの命を守る責任を誰よりも強く感じているからこそ、危険を冒すことに慎重になっている。

 あゆみは引き下がらなかった。

 机の下で拳を固く握りしめ、佐藤先生の目をまっすぐに見つめ返した。

「危険が高いことは十分に分かっています。でも、高木さんは『一晩だけでいいから、奥様と畳の上で寝たい』と・・訴えているんです。このまま病院で最期を迎えたら、高木さんも、奥様も、一生深い後悔を抱えたままになってしまうと思います!」

 あゆみの声は少し震えていた。

 その目には揺るぎない決意があった。

 ステーションの空気がピンと張り詰めた。

 若手看護師が、医長の判断に真っ向から食い下がるのは珍しいことだった。


「木下、気持ちは痛いほど分かるよ。だが、熱意や感情だけで命は守れない。もしご自宅で息苦しさが悪化し、奥様がパニックになって救急車を呼べば、結局は救急病院に運ばれ、高木さんの望まない苦しい延命治療が始まってしまう危険だってある。それが本当に高木さんのためになるのか?」

 佐藤先生の冷静な言葉に、あゆみは唇を噛んだ。

 頭では分かっている。

 医療者としての正しい判断と、人間としての切実な思い。

 その間に立たされ、あゆみの心は引き裂かれそうだった。


 その時、先輩看護師の藤井陽子が、あゆみの肩にぽんと温かい手を置いた。

「佐藤先生。危険を並べて諦めるのは、いつでもできます。でも、私たちの仕事は、危険をゼロにすることじゃなく、その危険を背負ってでも、患者さんの『生きたい形』を支える方法を必死で考えることじゃないでしょうか」

 陽子の言葉にあゆみはハッと顔を上げた。

 陽子の目には、何人もの患者さんを見送ってきた中堅看護師としての、深い覚悟と優しさが宿っていた。

「数年前、私がまだ若手だった頃、同じように『家に帰りたい』と願った患者さんがいました。私たちは危険を恐れて退院を遅らせ・・その方は結局、お家に帰ることなく病院で亡くなりました。ご家族は『あの時、無理にでも連れて帰ってあげればよかった』と、泣き崩れました。私はあの時の後悔を、二度とご家族に味わわせたくないんです」

「・・藤井主任。しかし、具体的な安全策がなければ・・」

「作りましょう、今から。ここからは、私たちの水面下の戦いです」

 緩和ケア病棟のプロフェッショナルたちが一斉に動き出した。


 相談員の市川さんは、すぐに電話を握りしめ、高木さんのご自宅の近くの訪問のお医者さんや、訪問看護ステーションへ緊急の連絡を始めた。

「はい、高木様のご自宅への緊急の退院です。今日中、いえ、今日の午後には帰らせたいんです! 酸素の業者さんに連絡して、今すぐご自宅に大きな機械を設置させてください。・・はい、奥様の不安をなくすために、今夜は特別に二時間おきの訪問をお願いできませんか!」

 市川さんの熱意あふれる交渉の声が、ステーションに響き渡る。


 薬剤師の乾さんは、佐藤先生と一緒に、もしお家で急に息苦しくなった時に、奥様でもすぐに使える特別な薬の準備に取り掛かった。

「痛みを和らげるお薬を、お口の中に数滴垂らすだけで効くように準備しましょう。千恵子さんでも絶対に間違えずに使えるよう、一回分ずつ小さな注射器に分けて、写真付きの大きな文字の説明書を作ります」


 看護師の瀬戸さんと介護スタッフの小野寺さんは、千恵子さんを休憩室へ呼び、手書きの間取り図を広げていた。

「千恵子さん、ご自宅の寝室は庭が見える和室ですね。ベッドは窓際のこの位置に置きましょう。そうすれば、お庭の緑が見えますから。酸素の長い管が足に絡まないように、家具の場所を少しだけ変えさせてもらいますね。痰の吸引は、訪問の看護師さんがすべてやりますから、千恵子さんはただ、高木さんの手をずっと握っていてあげてください。何も怖いことはありませんよ」


 瀬戸さんたちの温かく具体的な説明と笑顔に、千恵子さんのこわばっていた表情が、少しずつ安心の涙へと変わっていく。

「主人の願いを叶えたい。でも、家で苦しみだして、私が何もできなかったら・・と、本当に怖かったんです。でも、皆さんがこうして助けて下さるなら・・私、主人を家に連れて帰ります!」

 あゆみは、その光景を見つめながら、胸が熱くなるのを感じた。

 これが、チーム医療だった。

 誰か一人が危険を抱え込むのではなく、全員の知識と情熱を合わせて、不可能を可能にしていく「水面下の戦い」だった。


 午後三時。

 奇跡的なスピードで、お家で過ごすためのすべての準備が整えられた。

 ストレッチャーに乗せられた高木さんが、病棟の廊下を進み、介護タクシーへと移されていく。

 息は絶え絶えで、酸素マスク越しの呼吸は荒かったが、その目には、病院へ来た時にはなかった確かな命の光と、家に帰れるという喜びの涙があふれていた。

 あゆみは、タクシーのドアの横で、千恵子さんの手を両手で固く握りしめた。

「千恵子さん、大丈夫です。手配した訪問看護師さんが、二十四時間いつでも駆けつけます。お薬の準備も完璧です。私たちが繋いだ命のバトンが、ご自宅でしっかり高木さんを守りますから。安心して、ご主人と同じ畳の上で、ゆっくりと過ごしてくださいね」

「木下さん・・本当に、本当にありがとう。主人の最後の夢を、叶えてくれて・・」

 千恵子さんは泣きながら、何度も何度もあゆみの手を握り返した。

 タクシーのドアが閉まり、高木さんを乗せた車が、真夏のまばゆい光と揺れる陽炎の中へと去っていった。

 あゆみは、車が見えなくなるまで深く頭を下げ続けた。

 危険への恐怖を乗り越え、人間としての患者さんの尊厳を守り抜いた確かな手応えが、あゆみの心に深く刻み込まれていた。


 翌日の夕方。

 ナースステーションの電話が鳴り、陽子が受話器を取った。

 数分のやり取りの後、陽子は静かに受話器を置き、ステーションにいるスタッフ全員に向かって振り返った。

「・・訪問看護ステーションからの報告です。昨夜、高木さんはご自宅の畳の上で、奥様と手をつなぎながら、安らかに息を引き取られたそうです。最期に、お二人で昔の話をして、『やっぱり家はいい』と笑っていたと・・」

 ステーションは、深い静けさと、温かい感動に包まれた。

 あゆみの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

 もしあの時、危険を恐れて退院を止めていたら、高木さんは病院のベッドの上で、帰れない無念さを抱えたまま旅立っていただろう。

 千恵子さんもまた、夫の最後の願いを叶えられなかった後悔を、一生背負うことになっていたかもしれない。


「あゆみちゃん、よく頑張ったわね」

 陽子が優しくあゆみの肩を抱きよせた。

「医療者としての正しい判断と、人間としての情。その二つで迷うことは、看護師にとって一番苦しいことよ。でもね、その迷いから逃げずに、患者さんのために何ができるかを必死で考え抜くこと。それが、本当の意味での『患者さんに寄り添う』ということなのよ」

「はい・・っ!」

 あゆみは涙を拭い、大きくうなずいた。


 夜。

 あゆみは一人でベランダへ出て、夏の生ぬるい夜風を全身に受けた。

 遠くの街の明かりが、まるで無数の命の灯火のようにキラキラと輝いている。

 あの街のどこかで、高木さんと千恵子さんは今頃、最期の夜の温かい思い出を胸に、静かな別れの時を過ごしているのだろう。

 あゆみは、自分の殻が一つ破れ、看護師としての本当の強さを手に入れたことを実感していた。


 ただ命の長さを延ばすだけが医療ではない。

 その人が望む生き方を、最後まで守り抜くこと。

 あゆみは満天の星空を見上げ、明日もまた、患者さんたちの笑顔のために全力で戦い抜く決意を、静かに、力強く胸に誓った。

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