第13話 お盆のひまわり
八月半ば。
お盆の時期を迎え、街は帰省する家族連れの車で賑わっていた。
どこからか懐かしいお線香の香りが風に乗って漂う季節となっていた。
四階の緩和ケア病棟のナースステーション。
ここには、息が詰まるような、重く冷たい空気がどんよりと淀んでいた。
木下あゆみは、ナースステーションの隅でパソコンの画面を見つめたまま、身動き一つできずにいた。
白衣のポケットの中で、彼女の右手は冷たい汗をかき小さく震えている。
ポケットの奥には、昨日の夜、泣きながら書き上げた『退職願』の白い封筒があった。
それは、まるで重たい石のように、あゆみの心を押しつぶしていた。
数日前、あゆみは「最後に一晩だけ家に帰りたい」という高木清三さんの強い願いに寄り添い、危険を心配する医長を説得し、チームのみんなを動かして彼をご自宅へ帰した。
高木さんは、念願だったご自宅の畳の上で息を引き取った。
けれど、亡くなる直前、思いがけないことが起きた。
肺の病気が急激に悪化し、ひどく咳き込んだ拍子に、大量の血を吐いてしまった。
訪問の看護師さんが駆けつけるまでの十五分間、奥様の千恵子さんはパニックに陥った。
ただ泣き叫びながら血で染まったタオルを握りしめ、ご主人が息も絶え絶えに苦しみながら旅立っていく姿を、たった一人で目の当たりにしなければならなかった。
あまりにも悲しい出来事が起きてしまった。
後日、亡き夫の荷物を取りに病棟へやって来た千恵子さんは、あゆみの前でぽろぽろと泣き崩れた。
「主人は・・最後、息ができなくて、すごく苦しそうだった。私が何もできなくて、ごめんなさいって何度も何度も謝って・・。病院にいれば、すぐに先生が来てくれて、もっと楽に逝かせてあげられたんじゃないかって・・私、主人の最後の苦しむ顔が頭から離れないんです・・」
千恵子さんは、あゆみを責めたわけではない。
ご主人を助けられなかった自分自身のことを、強く責めていた。
千恵子さんの震える涙と、血に染まったタオルの話は、あゆみの心に鋭いナイフのように突き刺さり、心をえぐり取られるような強い痛みを引き起こした。
(私のわがままだった・・。最後は安全な病院で過ごしてもらうという方針を無視して、ただ『お家に帰してあげたい』という自分の感情を優先したせいで。高木さんをあんなにも苦しませて、奥様に一生消えない悲しい記憶を残してしまった。私の浅はかな思いが、命を縮め、ご家族をどん底に突き落とした・・)
あゆみは激しく落ち込み、自分を責める気持ちに押しつぶされそうになっていた。
息をするたびに、胸の奥を鋭いトゲで刺されるような痛みが走る。
夜、自分のベッドで眠ろうとしても、「ごめんなさい」と泣き叫ぶ千恵子さんの姿が頭に浮かび、冷や汗まみれで跳ね起きる日々が続いていた。
ご飯も喉を通らず、ただ心を閉ざした機械のように、ふらふらとした足取りで病棟へ通っていた。
(私には、人の命を預かる資格なんてない。私の寄り添いは、患者さんのためじゃなく、ただの自己満足だった。私みたいな人間は二度と患者さんに触れてはいけない・・)
あゆみの手は震え、点滴の準備をするだけの簡単な作業でさえ、手元が定まらず、患者さんを傷つけてしまうかもしれないという恐怖で何度も手が止まるようになっていた。
ナースステーションの重い空気を察して、藤井陽子が心配そうな声をかけた。
「あゆみちゃん、少し休んできなさい。顔色、真っ青で幽霊みたいよ。手が震えてるじゃない」 「いえ・・大丈夫です。まだ、仕事が・・看護記録が残ってますから・・」
あゆみが冷や汗を拭いながら立ち上がろうとした時、背後から静かで低い声が響いた。
「木下さん。記録は後でいいわ。少し、私と一緒に屋上へ来なさい」
振り返ると、緩和ケアのベテラン看護師、神崎玲子(四十八歳)が立っていた。
神崎は他の病棟から応援で来ている先輩で、いつも冷静で、どんなに重い症状の患者さんの前でも顔色一つ変えずに完璧なケアを行っていた。
お医者さんからも絶大な信頼を寄せられている「鉄の女」と呼ばれる人だった。
あゆみは無言のままうなずき、重い足取りで神崎の後について屋上へと向かった。
夏の夕暮れ時。
屋上に吹き抜ける風は、火照った身体をなでるように生ぬるかった。
西の空が深く燃えるような茜色に染まり、一番星が白く輝き始めている。
街のざわめきは遠く下の方で小さな音に変わり、屋上は世界から切り離されたような静けさだった。
神崎は屋上のフェンスに寄りかかり、遠くの街並みを見つめていた。
何も言わなかった。
あゆみはうつむき、白衣のポケットの中の退職願を固く握りしめていた。
今、ここで全てを打ち明け、この手紙を渡して逃げ出したかった。
そうすれば、この苦しさと恐怖から解放されると思った。
「・・神崎さん。私、看護師を辞めようと思います」
あゆみの声は、枯れ葉のようにかすれ、震えていた。
神崎は振り返らず、ただ風の音だけが二人の間を通り抜けていく。
数分間の沈黙の後、神崎はポケットから冷えた缶コーヒーを取り出し、あゆみに渡した。
「高木さんのことね。奥様が苦しまれたのが、全部自分のせいだと思っているんでしょう」
「はい・・。私が、病院の方針通りにしていれば、高木さんは病院で穏やかに亡くなられたはずです。私が余計な口出しをして帰らせたせいで、高木さんを苦しめ、奥様を深く傷つけた。私の自己満足が、高木さんの命を縮めたんです・・私には、看護師の資格はありません。怖くて、もう患者さんに触れることもできません」
あゆみは顔を覆って泣き崩れた。
神崎はあゆみの肩にそっと手を置いた。
その手は、普段の冷静な神崎からは想像もつかないほど、温かく、そして微かに震えていた。
「・・私もね、二十年前、全く同じ経験をしたわ」
神崎の静かな言葉に、あゆみはハッと顔を上げ、涙に濡れた目で神崎を見つめた。
「まだ私があなたと同じくらいの年齢だった頃だった。どうしても一人娘さんの結婚式に出たいという末期の胃がんの患者さんを、先生の強い反対を押し切って、私が責任を持つと言い張って無理やり外出させたの。でも、幸せに包まれた式場の控室で急に容態が悪くなって、たくさんの血を吐いてしまったわ・・。娘さんの真っ白なウェディングドレスを汚してしまって、そのまま目の前で亡くなってしまったのよ」
神崎の瞳の奥に、昔の傷の痛みがまだ残っているのを、あゆみははっきりと見た。
「ご家族からはひどく怒られ、娘さんは一生消えない後悔と悲しみを背負ったわ。私は、自分の思い上がりと未熟さを呪って呪って、狂いそうになった。あなたと同じように退職願を書き、夜の屋上で一人で泣いて、死にたいとさえ思ったわ。・・でもね、木下さん」
神崎は、あゆみの目を真っ直ぐに見据えた。
その眼差しは、厳しく、深く、そして圧倒的な優しさで包み込むようだった。
「何が正解だったかなんて、最初からどこにもないのよ。病院で安全に逝かせることが正解なのか、危険を背負ってでもその人の願いを叶えるのが正解なのか。それは神様にしか分からない。でも、私たちが『自分が傷つくのが怖いから』といって安全な病院のルールに隠れてしまったら、患者さんの本当の心の願いは、いったい誰が拾い上げるの?」
「でも・・結果的に、家族を不幸にしてしまったら・・」
「その痛みから、絶対に逃げちゃダメ」
神崎の言葉が、あゆみの胸に強く突き刺さった。
「私たちが背負うべきなのは、患者さんの命だけじゃない。私たちが関わったことで生まれる、ご家族の『後悔』や『悲しみ』の全てを、一生背負って生きていく覚悟を持つこと。それが、緩和ケアの看護師になるということよ。傷つかずに人の命に寄り添うなんて、ただの幻想。私たちは心に血を流しながら、ご家族と一緒に地獄のような悲しみを見て、それでも患者さんの隣に立ち続けるの」
神崎の言葉は、厳しくもあり、同時に、あゆみの心を抱きしめるような圧倒的な温かさを持っていた。
「ポケットの中の紙切れで逃げるのは簡単よ。でも、高木さんが最期にあの家へ帰れたという事実も、そこにあったわずかな喜びの時間も、あなたが逃げたらすべて無意味になってしまう。あなたのその心の痛みは、あなたが本気で高木さんの命と向き合った勲章なのよ。泣きなさい。泣いて、泣いて、痛みを全部抱え込んだまま、もう一度病棟に戻りなさい」
あゆみの目から、せきを切ったように大粒の涙があふれ出した。
あゆみは屋上のコンクリートに膝をつき、声を上げて、子どものようにしゃくりあげて泣いた。
神崎は何も言わず、あゆみが泣き止むまでの間、ずっとその背中に温かい手を当てていた。
沈みゆく茜色の夕日の中で、あゆみの心の中で凍りついていた恐怖と自分を責める気持ちが、神崎の傷ついた過去の共有によって、少しずつ溶け出していくのを感じていた。
翌日。
あゆみはポケットの退職願を破り捨て、再びナースステーションに立っていた。
目の奥は少し腫れていたが、その瞳には、傷つくことを恐れない確かな覚悟の光が宿っていた。
そんな中、新たな気がかりなことが持ち上がっていた。 302号室に入院している鈴木和子さん(六十八歳)だ。
彼女は重い心臓の病気と肝臓がんが進行しており、全身に強いむくみが出て、常に酸素が必要なため、ベッドの上から動けない状態が続いていた。
「鈴木さん、お薬飲みましょうか。お水、ストローでお持ちしますね」
あゆみが病室に入ると、鈴木さんは窓の外の青空をじっと見つめたまま、力なく首を振った。
その瞳には、生きる気力を失ったような深い虚しさが漂っている。
「・・もう、どうでもいいのよ。お薬なんて飲んでも同じ。今年のお盆は、主人が大切に育てたお庭のひまわり畑、見られなかったわ・・。あの人が死んでから、毎年私が代わりに育ててきたのに。ひまわりを見ないままお迎えが来るなんて、本当につまらない人生の終わりね」
鈴木さんのつぶやきに、あゆみはハッとした。
鈴木さんは毎年、亡きご主人との思い出であるお庭のひまわりを楽しみにしていた。
今年は急な入院で自宅のひまわりを見ることができず、生きる気力を急速に失っていた。
心臓の状態が悪いため、車椅子でお出かけすることも絶対に許されない状態だった。
あゆみの中で、神崎の言葉がよみがえる。
『患者さんの本当の心の願いは、いったい誰が拾い上げるの?』
あゆみはナースステーションに戻った。
陽子と神崎、そして相談員の市川さんたちを集めた。
「皆さん、お願いがあります。鈴木さんの病室を、ひまわりでいっぱいにしたいんです。お出かけすることが無理でも、ここへひまわりを運べば、鈴木さんの心に光を届けられるはずです! どんな心配ごとがあっても、私がすべての管理をやります!」
あゆみの真っ直ぐで力強い訴えに、スタッフたちは一瞬顔を見合わせたが、すぐに陽子がニッと笑った。
「いいじゃない! 木下さんらしいわ。さっそく作戦会議よ!」
チーム一丸となった「ひまわりプロジェクト」が動き出した。
市川さんがすぐに電話を握り、地元のいくつかのお花屋さんや市場に片っ端から連絡を取った。
「お盆の時期でお花が少ないのは承知しています! でも、どうしても、大きくて元気なひまわりを数十本かき集めてほしいんです。予算は私たちがなんとかしますから!」
神崎は、鈴木さんの心臓や呼吸に影響が出ないよう、お花の香りの強さや花粉のアレルギーについて丁寧に調べ、病室のどこに置けば一番安全かという配置の図面を作った。
男性看護師の瀬戸さんと介護スタッフの小野寺さんは、感染症を防ぐため、花瓶のお水にお薬を入れ、花粉が落ちないように一つ一つのお花に細かくテープを貼るなど、汗だくになりながら細心の注意を払って準備を進めた。
翌日の午後。
鈴木さんは、心臓のエコー検査のため、ベッドごと一時的に処置室へと運ばれていた。
そのわずかな空き時間を縫って、あゆみたちは病室にひまわりを運び込み、神崎の図面通りに完璧な飾り付けを完了させた。
検査が終わり、あゆみが鈴木さんのベッドを押して、病室のドアの前まで戻ってきた。
あゆみは深く深呼吸をした。
傷つくことを恐れない。
患者さんの心の願いに、何度でも本気で飛び込んでいく。
たとえまた痛みを背負うことになっても、私は逃げない。
「鈴木さん、お部屋に戻りますよ」
あゆみがドアを開け、ベッドをゆっくりと室内に押し入れた瞬間。
鈴木さんは息を呑んで言葉を失った。
病室の中が、まるで黄金色の太陽に包まれたように、まぶしいほどのひまわりで満たされていた。
ベッドの周り、窓辺、小さなテーブルの上。
そこには、真っ直ぐに上を向いて咲き誇る、数十本もの大きなひまわりが黄金の光を放っていた。
病室の殺風景な白い壁が、命の輝きで満ちあふれている。
「全部、ひまわり・・」
鈴木さんの目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「鈴木さんのために、みんなで集めました。ご主人と一緒に育てたご自宅のひまわりには敵わないかもしれませんが、少しでも、夏を感じてほしくて」
あゆみが近づくと、鈴木さんは震える手で、一番近くにあるひまわりの花びらにそっと触れた。
その黄金色の花びらは、生きるエネルギーそのもののように、温かく、そして力強かった。
「・・お父さん。私、今年もひまわり見られたわ。こんなに綺麗に咲いて・・」
鈴木さんは、ひまわりの向こうに亡きご主人の姿を見ているようだった。
声を震わせて泣き笑いした。
病室の入り口で見守っていた陽子や神崎、瀬戸たちの目にも、熱いものがこみ上げていた。
「木下さん・・本当に、本当にありがとう。私、このひまわりを見ながらなら、幸せに逝けるわ・・」
鈴木さんが両手であゆみの手を固く握りしめた。
その手の確かな温もりが、あゆみの心の奥底まで優しく染み渡っていく。
高木さんを失った痛みと、千恵子さんが流した悲しみの涙は、決して消えることはない。
しかし、その痛みを背負ったまま、こうして別の患者さんの笑顔を咲かせることができる。
命の重さに押しつぶされそうになりながらも、何度でも立ち上がり、患者さんの心に花を咲かせる存在になりたい。
数日後。
鈴木さんは、黄金色のひまわりに囲まれたまま、穏やかで美しい寝顔で息を引き取った。
その最期の瞬間に苦しい表情はなかった。
まるでひまわり畑の中で眠りについた少女のような、静かな安らぎがあった。
夕暮れ時。
あゆみはベランダに出た。
夏の生ぬるい風が、優しく頬をなでていく。
空には、お盆の送り火のような、鮮やかで力強い茜色が広がっている。
「木下さん、いい顔になったわね」
背後から声をかけたのは、神崎だった。
「神崎さん・・私、もう逃げません。患者さんの命の重さも、ご家族の後悔や悲しみも、全部背負って生きていきます。傷つくことを恐れて立ち止まるには、患者さんの残された時間は短すぎるから」
あゆみの言葉に、神崎は微かに、けれど確かな優しさで微笑んだ。
「その覚悟があるなら、あなたはもう立派な緩和ケアのプロよ」
あゆみは夕空を見上げた。
西の空へ帰っていく魂たちに向け、あゆみは心の中でそっと手を合わせた。
痛みを知り、自分の弱さを知り、それでも患者さんの隣に立ち続ける。
あゆみの心の中には、黄金色の大きなひまわりが力強く咲き誇っていた。




