番外編 あゆみの休日・・夏の終わりに、再生の足音
八月下旬。
お盆を過ぎても猛暑は収まる気配を見せず、窓の外からは朝からけたたましい油蝉の合唱が響き渡っていた。
分厚い遮光カーテンを閉め切ったワンルームの室内は、外界の暴力的なほどの光と熱から切り離され、重く沈んだ薄暗闇に支配されている。
あゆみは、ベッドの上に大の字になったまま、ただぼんやりと天井の白い壁紙を見つめていた。
デジタル時計の赤い文字盤は『13:14』を示している。
とっくに、溜まった洗濯物を回し、部屋の掃除をして、近くのスーパーへ食料の買い出しに行く時間だった。
だが、あゆみの体はベッドに縫い付けられたかのように重く、指先一本動かす気力が湧いてこなかった。
(疲れた・・なにも、したくない・・)
全身の筋肉が鉛のように重くだるい。
骨の芯まで疲労が残っている。
しかし、肉体的な疲労よりもはるかに深刻なのは、精神的な摩耗だった。
この数週間、緩和ケア病棟での日々。
あゆみのキャパを限界まで削り取るような激動の連続だった。
高木さんの「家に帰りたい」という最期の願いを叶えるために奔走した。
なんとか自宅へ帰れたものの、その直後に予期せぬ急変が起こった。
大量の吐血。
救急車を呼べずパニックに陥り、血染めのタオルを握りしめ泣き崩れた奥さんの姿。
「私の自己満足なエゴが、患者さんを苦しめ、ご家族に一生消えない地獄のようなトラウマを残してしまったのではないか」
自責の念は、鋭い棘のようにあゆみの心臓に突き刺ささった。
夜も眠れないほどの恐怖と葛藤が続いた。
その後、別の末期患者の病室をひまわりで満たすという提案を通じて、先輩看護師の神崎から「傷つくことから逃げるな。痛みを背負ったまま寄り添え」という教えを受け、なんとか立ち直ることはできた。
しかし、極限まで張り詰めていた精神の糸は、数日の休日を与えられた途端、プツリと音を立てて切れた。
どっと深い虚脱感が押し寄せてきた。
あゆみはゆっくりと寝返りを打ち、膝を抱え込むようにして身体を丸めた。
キッチンには昨夜のコンビニ弁当の空き箱が放置されている。
流し台には洗っていないマグカップが転がっている。
部屋の空気は淀み、息苦しさを感じた。
窓を開けて換気をする気力すらない。
(私・・看護師に、向いてないのかな・・)
一生懸命にやればやるほど、誰かを傷つけてしまうような気がする。
患者の命の重さと、家族の悲しみの深さに、自分の心が押し潰されてしまいそうだった。
深い海の底に沈んでいくように、再び暗く重い眠りへ引きずり込まれていった。
・・枕元のスマートフォンが震えた。
無機質な振動音が静寂を破ったのは、午後三時を回った頃だった。
重い瞼をこすりながら画面を覗き込んだ。
香奈だった。
看護学校時代の同期、一番の親友。
今は大学病院の小児科病棟で働いている香奈。
よくカフェでお茶をする仲だけど、今は誰かと話す気力はなかった。
電話に出るべきか、迷った。
あゆみは深く息を吐き、通話ボタンをスワイプして耳に当てた。
「・・もしもし」
『あゆみ? 元気?』
香奈の明るくハキハキとした声と、背後で微かにスーパーの店内BGMらしき音が聞こえてきた。
「うん・・元気だよ。どうしたの?」
あゆみは努めて普通の声を装おうとしたが、その声はひどく掠れ、乾いていた。
『いや、今日お互い休みだったなーと思って。今から駅前で軽くお茶でもどうかなって誘おうと思ったんだけど・・あゆみ、声、ひどいよ? 風邪引いた?』
「ううん、大丈夫。ただ・・ちょっと、寝起きで」
『そっか。・・でも、なんか元気ないね。何かあった?』
香奈の優しい問いかけに、胸の奥でせき止めていた感情のダムがピキリと音を立ててひび割れた。
香奈には隠し事ができない。
いつも真っ直ぐに自分を見てくれる親友の声を聞いた途端、強がっていた心が崩れ落ちていくのを感じた。
「・・香奈。私ね、もう、自信ない」
自分でも驚くほど弱々しい涙声が漏れた。
『・・あゆみ? どうしたの、何があったの?』
「私がね・・よかれと思ってやったことが、結果的に患者さんをすごく苦しめて・・ご家族に怖い思いをさせちゃったの。私の浅はかなエゴのせいで・・命を縮めさせちゃったかもしれない。私、人の命に関わっちゃいけない人間なんじゃないかって・・今日、ずっと部屋から出られなくて・・何もできなくて・・」
あゆみは言葉を詰まらせ、静かにしゃくりあげた。
香奈はあゆみの話を遮ることなく、相槌を打ちながら静かに聞き入っていた。
『・・そっか。辛かったね、あゆみ』
香奈はどこまでも思いやり深く、彼女の痛みをよく理解していた。
『小児科でもね、そういうことあるよ。私たちが良かれと思ってやった処置が、子どもにすごく痛い思いをさせてしまったり、ご家族から責められたり。自分が無力で、残酷なことをしてるんじゃないかって、トイレで泣きたくなる時がいっぱいある』
「香奈も・・?」
『うん。でもね、あゆみ。あゆみが今そんなにボロボロに傷ついているのは、あゆみが逃げずに、ちゃんと患者さんの命と本気で向き合ってる証拠だよ。適当に仕事こなしてるだけの看護師なら、そんなに傷ついたりしないもん』
香奈の言葉が、暗く沈んだあゆみの心に、温かい光のように染みた。
『私が知ってるあゆみは、不器用で、感情移入しすぎちゃうところがあるけど、誰よりも患者さんの痛みに寄り添える、世界で一番優しい看護師だよ。だから、自分を責めないで。今日はとりあえず、好きなもの食べて、いっぱい泣いて、いっぱい寝な! そんで明日、また白衣着ればいいんだよ』
「香奈・・ありがとう・・ごめんね、せっかくの休みなのに愚痴ばっかり言って」
『バカだなぁ、親友なんだから愚痴くらいナンボでも聞くよ! 今度絶対、焼肉おごってもらうからね!』
香奈の明るい笑い声に、あゆみも思わずふっと小さく笑った。
電話を切った後、あゆみの心は少しだけ軽くなっていた。
夕方五時。
あゆみはやっとベッドから這い出し、シャワーを浴びて着替えた。
濡れた髪をタオルで拭きながら、窓の遮光カーテンをシャーッと勢いよく開けた。
外はすでに夕暮れ時、太陽は西の空に沈みかけ、空を鮮やかなオレンジ色と深い紫色に染め上げていた。
窓を開けると、まだ熱気を帯びているものの、どこか秋の気配を含んだ風が部屋の中に吹き込んできた。
冷蔵庫を開け、冷たい麦茶をコップに注いで一気に飲み干した。
再び、スマートフォンが短く震えた。
お母さんだった。
あゆみは少し止まった。
香奈との電話で少しは落ち着いたものの、気持ちはまだ不安定だった。
親の声を聞けば、また心が揺れてしまうかもしれない。
それでも、あゆみは小さく深呼吸して、通話ボタンを押した。
「お母さん?」
『あゆみ。今、大丈夫? 忙しかった?』
電話の向こうから、母の、のんびりとした声が聞こえてきた。
背後では、テレビの夕方のニュース番組の音が微かに聞こえている。
実家の、いつもと変わらない夕方の風景が目に浮かんだ。
「ううん、今日は休みで部屋にいる。どうしたの?」
『いやね、お父さんが家庭菜園でトマトをたくさん作ったから、あゆみにも送ろうと思って。箱に詰めてるんだけど、ほかに何か欲しいものあるかなって思って』
「トマト? ありがとう、嬉しい。うーん、特に欲しいものはないかな。いつもごめんね」
あゆみは努めて明るくいつも通りの声を出したつもりだった。
しかし、母は、娘のわずかな声の変化を見逃さなかった。
『・・あゆみ。あんた、どうかしたの?』
「え? 何が?」
『なんか、声が、ひどく疲れてるよ。・・仕事で、何かあったの?』
真っ直ぐで全てを見透かすような優しい問いかけだった。
あゆみの強がりは、その瞬間に崩れた。
「・・お母さん・・」
あゆみの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
声を殺そうとしたが、もう限界だった。
あゆみはスマートフォンを握りしめたまま、キッチンにしゃがみ込んだ。
子どものように声を上げて泣きじゃくった。
「私・・もう、ダメかも・・。患者さんやご家族をいっぱい傷つけてしまった・・私なんかが看護師やってたら、みんな不幸になっちゃう・・。毎日、人が亡くなっていくのを見るのが、怖くて・・苦しくて・・」
これまで抱えてきた恐怖や孤独、絶望をすべて母にぶつけるように、あゆみは泣きながら思いを吐き出した。
母は何も言わず黙って聞いていた。
あゆみが泣きやむまで、ただ静かに「うん、うん」と相槌を打ちながら話を聞いた。
十分ほど経って、あゆみの泣き声がしゃくり上げるように小さくなった頃、母は静かに、けれど芯のある優しい声で言った。
『あゆみ。あんたはね、昔から不器用で、要領も悪くて、すぐに人のことで自分まで泣いちゃうような子だったわ』
「・・うん」
『でもね、あんたは誰よりも優しい子だよ。傷ついた猫を拾ってきては徹夜で看病したり、友達が泣いてたら一緒に泣いてあげたり。あんたのその優しさはね、絶対にお金じゃ買えない、看護師にとって一番大切な宝物なんだよ』
母の声からは、娘を思う気持ちが静かに伝わってきた。
『人が死んでいくのを見るのが怖いのは、あんたがちゃんとその人の「命」を大切に思ってるからよ。患者さんだって、冷たい看護師より、あんたみたいに一緒に泣いてくれる不器用な看護師のほうが心が救われてるはずよ。自分の優しさを信じなさい』
『あゆみは、お母さんとお父さんの自慢の娘なんだからね。つらい時は、いつでも帰っておいで。お母さんが、美味しいトマトとハンバーグ、お腹いっぱい食べさせてあげるから』
母の言葉は、あゆみの胸の奥に残っていた恐怖や後悔を、静かに和らげていった。
「自慢の娘」、その言葉がどれほどあゆみを勇気づけただろう。
あゆみは涙を手のひらで拭い、鼻をすすりながら頷いた。
「・・うん、 ありがとう、お母さん。私、もう少し頑張ってみる。お父さんのトマト、楽しみにしてる・・」
電話を切った後、あゆみはしばらくその場に座り込んでいた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
心の中に重くのしかかっていた分厚い雲がすっきりと晴れ渡り、信じられないほど体が軽くなっていた。
夜八時。
あゆみは部屋の明かりをつけ、夕食の準備を始めた。
フライパンで目玉焼きを焼き、冷凍ご飯をレンジで温め、インスタントの味噌汁を作る。
それだけの質素な食事だが、一口食べると、涙が出るほど美味しく感じた。
『食べられる』ということ。
それは、自分が今、健康な肉体を持って「生きている」証だった。
食後、あゆみは部屋の片隅にある小さな棚の前に立った。
そこには、小さな写真立てが一つ置かれている。
新人時代に初めて看取った若き青年、拓海と一緒に撮ったツーショット写真だった。
拓海は、病気で痩せ細ってはいるものの、あゆみの隣で悪戯っぽく笑っている。
「拓海くん・・」
あゆみは写真立てをそっと手に取った。
拓海は、若くして骨肉腫に侵され、絶望の中で病棟に入ってきた。
最初はすべてを拒絶していた彼に、あゆみは不器用ながらも寄り添い続けた。
拓海は最期の日、あゆみに向かってこう言った。
『生きられない僕の分まで、しっかり生きて。あゆみちゃんは、最高の看護師だから』
その声が、あゆみの耳の奥によみがえった。
拓海だけではない。
頑固だった大造さん。
手作りカレーを息子に遺した由美子さん。
最後に自分の家に帰った高木さん。
ひまわり畑の中で微笑んだ鈴木さん。
命の尽きるその時まで懸命に生き、あゆみに思いを託して旅立っていった。
彼らが残してくれた涙や笑顔、そして感謝の言葉。
その一つひとつが、今のあゆみを支え、看護師としての確かな芯をつくってくれた。
「私、負けない」
あゆみは写真立てに向かって静かにつぶやいた。
「傷つくことから逃げたくない。患者さんの痛みも、ご家族の悲しみも受け止めながら、最後までそばにいたい。それが、私にできる恩返しだと思うから」
窓を開け放った。
夜の帳が完全に下りた街には、無数の窓の明かりが星空のように瞬いている。
あの無数の明かりの一つ一つに、誰かの人生があり、命の営みがある。
頬を撫でる夜風は、すっかり夏の熱を失い、涼やかな秋の気配を運んできていた。
季節は確実に移り変わっていく。
命もまた、巡っていく。
その大きな流れの中で、自分は明日もまた、白い制服を着てあの病棟へ向かう。
あゆみは大きく深呼吸し、肺の奥まで空気を吸い込んだ。
心に残っていた迷いは、いつの間にか消えていた。
明日もまた、笑顔で患者たちに会うために。
あゆみは胸に静かな決意を抱きながら、明日への準備を始めた。




