第14話 夜長のアリア
九月も終わりに近づいた頃。
秋の長雨をもたらす前線がとどまり、幾重にも重なった重たい灰色の雲にすっぽりと覆われていた。
窓ガラスを絶え間なく叩く冷たい雨の音は、四階の緩和ケア病棟の静けさをより一層深く沈み込ませていた。
廊下に漂う空気はどこかひんやりと湿り気を帯びていた。
夏の熱気はすっかり洗い流され、寂しげな秋の匂いが病棟全体をそっと包み込んでいる。
午後三時。
あゆみは、お薬を乗せたカートを押しながら静かに廊下を歩き、305号室の前で足を止めた。
あゆみは深呼吸をした。
白衣のポケットの中で軽く手を握りしめ緊張をほぐして、トントンとノックをして、ゆっくりと引き戸を開けた。
「結城さん、午後三時の検温とお薬をお持ちしましたよ」
病室の中は、昼間だというのにひどく薄暗かった。
照明はすべて消され、窓には分厚いカーテンが隙間なく引かれていた。
秋のわずかな光さえも完全に遮られている。
エアコンの静かな風の音と、窓を叩く静かなな雨音だけが、部屋の空気を支配していた。
ベッドの上で、入り口に背を向けて小さく丸くなっているのは、結城玲子さん(五十五歳)。
彼女は、かつて県立高校で長年音楽の先生を務めていた。
ご自身もソプラノ歌手として市民合唱団の指導をしていた。
結城さんは二ヶ月前、進行した喉頭がんであると診断された。
すでに声帯の奥深くまで腫瘍が浸潤しており、気道がとても狭くなっている。
現在は声を出すことがとても難しく、喉の奥から空気が漏れるような、絞り出すようなかすれた声しか出せない状態だった。
根治を目指して喉頭全摘出術を行えば、命が助かる可能性は高かった。
けれど、それは同時に「完全に声を失い、二度と大好きな歌が歌えなくなること」を意味していた。
結城さんはどうしてもその手術を受け入れることができなかった。
そして、自らこの緩和ケア病棟へ移ってきた。
あゆみの静かな呼びかけに対して、結城さんは背を向けたまま、ピクリとも動かなかった。
「結城さん、お加減はいかがですか。少しだけ、バイタルを測らせていただきますね」
あゆみがベッドのそばに近づき、血圧計の腕帯を手に巻こうとした、その瞬間。
「・・触らないでっ!」
鋭く尖った声が病室に響いた。
結城さんがバッと身をよじり、サイドテーブルの上のプラスチックのコップを、手で乱暴に払い落とした。
ガンッ、と硬い音がしてコップが床に転がった。
残っていたお水が冷たい床にこぼれ広がった。
「結城さん・・」
「出て行って。・・もう、放っておいて!」
喉の奥から血がにじむような、痛々しく、悲痛な声だった。
結城さんはあゆみと目を合わせようとしなかった。
毛布を頭まですっぽりと被り、ベッドの壁側へ固く体を丸めてしまった。
毛布の下から、小刻みに震える背中のシルエットが浮かび上がっている。
あゆみの心臓がドクンと跳ねた。
床に膝をついたまま、こぼれ散った水を拭いながら、結城さんの背中に満ちる怒りと悲しみに、息を詰まらせた。
結城さんがこの病棟に来てから一週間。
彼女は誰とも口を利こうとしなかった。
食事もほとんど手をつけず、看護師たちを激しい言葉で突き放し続けていた。
音楽を心から愛し、歌うことで生きてきた彼女にとって、声を奪われることは、命そのものを奪われることと同じくらい、残酷で受け入れがたいことだった。
ナースステーションに戻ったあゆみは、ため息をつきながら電子カルテに向かった。
『ケアを激しく拒否・血圧測定できず』と記録した。
キーボードを叩く指先が、少しだけ震えた。
「結城さん、今日も難しかった?」
先輩の藤井陽子が、紙コップを二つ持ち、デスクに一つ置いてくれた。
ほうじ茶の香ばしい匂いと、ふんわりと立ち上る白い湯気が、張り詰めたあゆみの心を少しだけほどいてくれる。
「はい・・。バイタルも拒否されてしまいました。どうしても、分厚い壁があるような気がして。私が未熟だから、結城さんを怒らせてしまうんでしょうか」
あゆみがほうじ茶のカップを両手で包み込みながらうつむくと、向かいの席で記録を打っていたベテラン看護師の神崎がキーボードを打つ手を止めた。
「木下さん。彼女の態度は、あなたに対する怒りじゃないわ。自分自身の理不尽な運命に対する『怒り』なのよ」
神崎の声は静かだが、これまで数多くの患者さんの心に寄り添ってきた優しさと重みがあった。
「運命に対する、怒り、ですか」
「ええ。人が自分の命の終わりや、取り返しのつかない大きな悲しみに出会ったとき、心はいくつかの段階を経てそれを受け入れようとするの。最初は『まさか自分が病気のはずがない』と現実を信じられない時期。そして次に来るのが『どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの!』という、周りの人や運命に対する激しい怒りよ。結城さんは今、人生のすべてだった『歌』を奪われた現実に対して、行き場のない怒りを爆発させているの。誰かに優しくお世話をされることで、自分が弱い病人になっていく現実を突きつけられるのが、どうしても耐えられないのよ」
陽子も静かにうなずき、ほうじ茶を一口飲んだ。
「結城さんはね、たった一人で、暗闇の中で闘っているのよ。今は無理にお世話をしようとしたり、『私たちがいますよ』なんて簡単な慰めの言葉をかけたりしなくていいわ。ただ、彼女があふれる思いをぶつけるための、静かなクッションになる時期も必要なの。黙ってそばにいること、それも、とても大切なケアの一つよ」
静かなクッションになる。
あゆみは、以前神崎から教わった「患者さんの悲しみから逃げない」という言葉を思い出した。
結城さんの冷たい拒絶の奥にある、涙を流している彼女の心の叫び。
それに寄り添うためには、怒りにひるんで逃げ出してはいけないのだ。
それからの数日間、あゆみは結城さんの拒絶から逃げずに、何度突き放されても病室へ通い続けた。
「結城さん、お昼のお食事をお持ちしました。今日は少し肌寒いので、温かいお粥にしてもらいましたよ」
「・・いらない」
「一口だけ、りんごのゼリーはどうですか。喉を通りやすいと思います」
「しつこい! 出て行けって言ってるでしょう!」
結城さんが腕を振り払い、お盆の上に乗っていたスプーンが白衣に当たって床に落ちた。
カチャン、と金属の乾いた音が薄暗い病室に響いた。
結城さんは肩で荒く息をしていた。
あゆみは表情を変えず、膝をついて静かにスプーンを拾い上げた。
「分かりました。お食事は下げますね。でも、お茶だけは置いておきます。喉が渇いたら飲んでくださいね」
あゆみは無理強いせず、それでも結城さんを置き去りにはしない、そんな距離感を守り続けた。
「出て行け」と背中を向けられても、あゆみはすぐには部屋を出なかった。
しばらく病室の隅に黙って立ち、結城さんの荒い呼吸の音を聞く時間を作った。
シーツが擦れる音、雨が窓を叩く音。
あゆみは深い沈黙の中で、結城さんの悲しみが満ちた空間に留まり続けた。
九月最後の金曜日。
その夜は、秋の雨が一段と勢いを増し、ザーザーと激しい雨音が病棟を包み込んでいた。
深夜二時。
見回りの時間。
あゆみが懐中電灯を手に、足音を忍ばせて結城さんの病室の引き戸をそっと開けた。
結城さんはベッドの上に起き上がり、カーテンを少しだけ開けて、真っ暗な部屋の中で窓の外の激しい雨をじっと見つめていた。
街灯のわずかな光が、窓ガラスを流れる雨粒とともに、結城さんのひどく痩せた横顔を青白く浮かび上がらせている。
あゆみは足音を立てずに近づき、結城さんから少し離れた丸椅子に静かに腰を下ろした。
結城さんはあゆみに気づいているはずだが、何も言わなかった。
昼間のような怒りの言葉も、拒絶の身振りもなかった。
深い虚しさと、圧倒的な孤独が、彼女の小さな背中を重く覆っていた。
静かな沈黙が流れた。
雨音だけが、二人の間を単調なリズムで埋めている。
「・・夜が、長いの」
ふいに、結城さんの喉の奥から、空気がかすれるような、ひどく小さな声が漏れた。
あゆみは息を潜めた。
「眠れないの・・。目を閉じると、自分が誰からも忘れられ、声も出せずに暗闇の中でただ消えていくような気がして・・怖くて。でも、起きていても、私にはもう、何もない。声も、歌も、私の人生は全部奪われたの・・」
結城さんの震える声は、雨音に掻き消されそうなほど弱々しかった。
怒りの奥底に隠されていた、どうしようもない絶望と孤独だった。
あゆみは言葉をかけようとはしなかった。
「そんなことありませんよ」
「歌えなくても、ほかに楽しいことがありますよ」
そんな慰めは、今の結城さんの深い悲しみにはあまりにも軽すぎた。
あゆみは無言のまま立ち上がり、ナースステーションへ戻った。
結城さんが入院してきた日に、妹さんから預かっていた荷物の中から、一枚のCDを取り出した。
それは、結城さんが数年前に市民合唱団とともに出演したコンサートの録音盤だった。
妹さんから「姉はもう音楽を聴きたがらないけれど、一応置いておきますね」と託されていた。
小さなCDプレーヤーを持って、再び静かに病室に戻った。
結城さんはまだ、窓の外の雨を見つめていた。
あゆみは結城さんのベッドのテーブルにプレーヤーを置き、再生ボタンを押した。
静かな病室にピアノの柔らかな前奏が流れ始めた。
プッチーニのオペラ。
ソプラノの美しい名曲『私のお父さん』。
結城さんの肩が、ビクッと大きく跳ねた。
スピーカーから流れ出したのは、かつての結城さんの歌声だった。
豊かで、伸びやかで、どこまでも澄み切った美しいソプラノの響き。
愛する人との結婚をお父さんに願い、情熱的に歌うその声が、冷たい雨音と交じり合い、暗い病室を温かい光のように満たしていく。
結城さんはプレーヤーを睨みつけ、かすれた声で叫んだ。
「・・止めて! 今すぐ消して!!」
結城さんが震える手を伸ばし、プレーヤーを払い落とそうとした。
あゆみは結城さんの手を、自分の両手でしっかりと、優しく包み込むように握りしめた。
「結城さん、お願いです。聴いてください」
「いや・・いやっ! こんな声、もう二度と出せないのよ!惨めな気持ちにさせないで!」
結城さんはあゆみの手を振り払おうと激しく身をよじった。
しかしあゆみは決して手を離さなかった。
「結城さんの声はここにあります。結城さんが生きて、歌を愛して、たくさんの人に感動を届けてきた時間は、病気なんかに奪えません。この歌声は、永遠に結城さんのものです」
あゆみの真っ直ぐな言葉に、結城さんの抵抗の動きがピタリと止まった。
病室に、美しいソプラノの高音が響き渡った。
愛の苦悩を歌い上げるその声は、不思議なほどに、結城さんの心の叫びと深く重なっていた。
結城さんの固く握りしめた拳から、ゆっくりと力が抜けていった。
「・・私の、声・・」
結城さんはうつむき、あゆみに握られた手の上に顔を伏せた。
結城さんの肩が大きく震え出した。
彼女の目からせきを切ったように大粒の涙があふれ出した。
「うぅ・・あぁぁっ・・!」
それは、声を失う恐怖と、運命への怒りに凍りついていた心が限界を迎え、悲しみとなって決壊した瞬間だった。
声を上げて泣くことすら難しい結城さんは、喉の奥から空気が漏れるような音を立てながら、まるで小さな子どものように泣きじゃくった。
熱い涙が、あゆみの手のひらを濡らしていった。
あゆみは結城さんの震える背中にそっと手を回し、無言で、一定のリズムでさすり続けた。
慰めも、励ましもいらない。
彼女が涙をすべて流し尽くすまで、冷たい雨の夜の中、ともに静かな時間を過ごすこと。
それだけが、今のあゆみにできる唯一のケアだった。
CDの再生が終わった。
病室には再び雨音だけが戻ってきた。
しかし、その雨音はもう冷たくは感じられなかった。
結城さんの呼吸は静かに整ってきた。
彼女の表情からは、張り詰めたトゲのような怒りがすっかり消えていた。
結城さんは、涙で濡れた顔をゆっくりと上げ、あゆみを見つめた。
そして、震える右手であゆみの手を握り返し、かすれきった声でこう言った。
「・・ありがとう」
あゆみは小さくうなずいた。
結城さんの手に自分のもう片方の手を添え、静かに微笑んだ。
秋雨の夜長。
結城さんの中で吹き荒れていた怒りが少しずつ静まり、逃れられない現実を受け入れるための、長く静かな時間がようやく始まろうとしていた。
あゆみは、その道のりを決して一人にはさせないという思いを込め、結城さんの温かい手のひらの感触を、しっかりと心に刻み込んだ。




