第15話 最後のメニュー
十月も半ばを過ぎた。
病棟の窓から見える街路樹は少しずつその葉の端を赤や黄色に染め始めた。
ひんやりとした秋風が吹き抜けるたびにカサカサと乾いた音を立てた。
空気が乾燥し、気温が下がり始める季節。
緩和ケア病棟では患者さんたちの乾いた咳き込む音が少し増えた。
廊下に漂う空気は微かな冬の気配を含んで張り詰めている。
あゆみは、ナースステーションの給湯室にいた。
保温ポットのお湯を沸かしながら、深くため息をついた。
「・・また、一口も手をつけてもらえなかった」
下膳したトレイには、お昼のミキサー食が、プラスチックの蓋を開けられただけで、すっかり冷え切っていた。
ペースト状の白身魚、形のないおかゆ、ほうれん草のペースト。
栄養としては完璧に計算され、カロリーも水分量も申し分のないはず。
しかし、308号室の患者さんにとって、到底飲み込むことなどできない残酷なものだった。
308号室の患者さん、中谷健二さん(六十五歳)。
彼は、地元で四十年にわたり小さな小料理屋を営んできた、
生粋の和食の板前さんだった。
包丁一本で家族を養ってきた。
奥様を五年前に亡くしてからも、たった一人でカウンターに立ち続けていた。
半年前、進行性の食道がんが見つかった。
すでに外科的切除の適応外となるまで悪化していた。
そして、この緩和ケア病棟へやって来た。
食道の腫瘍が巨大化し、物理的に食べ物の通り道を塞いでしまっているため、固形物を飲み込むことができない。
さらに苦しいのは、無理に飲み込もうとするたびに、腫瘍が食道の神経を圧迫し、想像を絶する激しい嚥下痛が襲うことだった。
中谷さんは、栄養士が工夫して出してくれたペーストのお食事やゼリーを見るたびに、絶望と怒りが入り混じった顔で「俺にこんな泥みたいなもんを食えって言うのか! 下げろ!」と激しく怒鳴り、食事を拒絶してしまっていた。
現在は、点滴から最低限の水分と栄養を細々と補給しているだけの状態だった。
あゆみは、冷たくなったトレイを持ち、とぼとぼと配膳室へ向かった。
(中谷さんは、お腹が空いていないわけじゃない。ただ、四十年間本物の味を追求してきた料理人としてのプライドが、あのドロドロの食事を許せないんだ。自分の誇りが泥のように扱われていると感じているんだ。でも、このままじゃ体力が落ちていくだけ・・どうすればいいんだろう・・)
配膳室の重いドアを開けると、管理栄養士の松永玲子さん(三十八歳)が、ステンレスのシンクの前で残ったご飯の量を記録していた。
松永さんは、患者さん一人ひとりの好みや飲み込む力に合わせて食事を細かく調整する、プロフェッショナルだ。
彼女の作る食事は、これまで数多くの患者さんの閉ざされた心を開いてきた。
「松永さん・・中谷さん、今日もダメでした。お出しした瞬間に顔を背けてしまって。スプーンを持とうともしてくれませんでした」
あゆみが沈んだ声でトレイを渡すと、松永さんは少しだけ眉尻を下げて、悲しそうにそれを受け取った。
「そう・・。やっぱり、見た目が大きいわよね。和食の職人さんにとって、食材の形が分からないドロドロのお食事は、ただ生かされるためだけのエサのように感じてしまうのかもしれないわね」
「どうすればいいんでしょうか。中谷さん、点滴の針を見るたびに『俺はもう、自分の口で食うこともできねえ役立たずだ』って、すごく悲しそうな顔をするんです。怒鳴ってはいるけど、本当は自分の口で何かを味わいたいんだと思います。あのままだと、心まで疲れ切ってしまいます」
あゆみの言葉に、松永さんはステンレスの調理台をじっと見つめ、何かを考えるように目を細めた。
「木下さん。中谷さんがこれまで、何か『食べたいもの』のヒントになるようなことを言ったことはないかしら? どんな小さなことでもいいのよ」
「食べたいもの・・」
あゆみは記憶を必死に手繰り寄せた。
怒鳴る中谷さんの言葉の端々に、何かヒントになるような言葉はないか。
昨日、点滴の交換をしていた時のこと。
中谷さんが、窓の外の澄んだ高い秋空を見つめながら、ぽつりと漏らした言葉があった。
『・・秋の冷てえ風が吹くとよ、思い出すんだ。昔、店が終わった深夜に、女房が賄いで作ってくれたお茶漬けをな。具なんか何も乗ってねえ、ただの出汁茶漬けだ。あの、優しくて熱い昆布と鰹の出汁の匂いだけは・・今でも忘れられねえな。あいつの出汁は、俺より優しかったんだ・・』
「・・出汁、です。奥様が昔、深夜に作ってくれた、お茶漬けの出汁の味が忘れられないって、昨日おっしゃっていました」
あゆみがそう伝えた瞬間、松永さんの目の色が変わった。
プロの料理人としての魂を呼び覚ますような、鋭く、温かい光が灯った。
「それよ、木下さん」
松永さんは白衣の袖をまくり上げ、キリッとした声で言った。
「味覚の記憶は、脳の最も深い部分に残るの。特に『出汁』の香りは、日本人の心そのものよ。中谷さんの病気で狭くなった喉を通らない、固形のお米は出せないわ。でも、奥様の思い出の出汁を、絶対にむせない、絶対に痛くない形で味わってもらうことはできる。・・今日の夕食、中谷さんのためだけの特別メニューを作りましょう」
午後四時。
病棟の裏手にある調理室から、病院の給食では嗅いだことのない、極上の香りが漂い始めた。
上質な昆布をじっくりと水に浸して引き出した深い旨味と、削りたての鰹節が放つ、甘く、そして透き通るような出汁の香り。
廊下を歩くスタッフが思わず足を止めて深呼吸してしまうほどだった。
あゆみは休憩の時間を削り、エプロンをつけて松永さんの作業を見守っていた。
「出汁の温度は、高すぎても低すぎてもダメ。中谷さんの食道の炎症を刺激しない、それでいて香りが一番立つ、人肌より少し高めの『四十五度』に設定しましょう」
松永さんは調理用の温度計で鍋の中の出汁の温度を丁寧に測った。
わずかにお塩と、風味付け程度の薄口醤油を落とした。
「ここからが栄養士の腕の見せ所よ」
松永さんが取り出したのは、医療用の特殊なとろみ剤だった。
普通のゼラチンや寒天とは違い、体温で溶けず、飲み込むときに喉にへばりつかない優しい性質を持ったもの。
「普通のゼリーだと、口の中で崩れたときにお水が分かれてしまって、気管に入ってむせてしまう危険があるわ。だから、絶妙な硬さを持たせた『ジュレ』にするの。舌の上で出汁の香りが一気に弾けて、あとは重力に逆らわずに、スッと喉を滑り落ちていく硬さ。これなら、強い痛みのある中谷さんでも、痛みを感じずに飲み込めるはずよ」
松永さんは、黄金色に透き通った出汁にとろみ剤を少しずつ加え、泡立て器で慎重に混ぜ合わせた。
ボウルの底を冷水にあててゆっくりととろみをつけると、まるで宝石のようにキラキラと輝く、美しい琥珀色のジュレへと姿を変えた。
「これを、プラスチックの器じゃなく、陶器の小鉢に盛り付けましょう。四十年間板場に立ってきた彼の、料理人のプライドを大切にするの」
松永さんが戸棚の奥から選んだのは、深い藍色の、手触りの良い陶器の小鉢だった。
その中央に、琥珀色のジュレがこんもりと上品に盛られた。
その上に、極細に刻んだ三つ葉の葉がほんの一片だけあしらわれる。
それはもう「病院のミキサー食」などではなかった。
高級な小料理屋さんで出されるような一品料理の気品が漂っていた。
「・・すごい」
出汁の深く優しい香りと、小鉢の冷たさ。
お料理一つに込められた、患者さんの心への圧倒的なリスペクトと優しさだった。
「さあ、木下さん。香りが飛ばないうちに、中谷さんのところへ持っていって」
夕方五時半。
夕食の時間。
あゆみは、木製のお盆にその藍色の小鉢と木の小さなスプーンだけを乗せ、308号室の引き戸を静かに開けた。
「中谷さん。夕食をお持ちしましたよ」
ベッドの上でテレビの砂嵐をぼんやりと見ていた中谷さんは、あゆみの声を聞いて深く顔をしかめ舌打ちをした。
「・・またあのドロドロの残飯か。いらねえって言ってるだろうが。俺を馬鹿にするのもいい加減にしろ。俺はもう、何も食えねえんだよ!」
中谷さんが怒鳴り、お布団を頭から被ろうとしたその時。
あゆみがお盆を持ってベッドのそばに近づいた瞬間、小鉢から立ち上る微かな、しかし確かな鰹と昆布の香りが、中谷さんの鼻をかすめた。
中谷さんの動きが、ピタリと止まった。
布団を握りしめていた手がゆっくりと緩み、中谷さんは信じられないものを見るような目で、あゆみの手元のお盆を見つめた。
「中谷さん。今日は、ドロドロのお粥ではありません。松永さんが、中谷さんのために作った、特製の『出汁のジュレ』です。形はありませんが・・味と香りは、本物です。どうか、一口だけでも」
あゆみは、ベッドサイドのテーブルを丁寧に拭き、藍色の小鉢を静かに置いた。
病室の明かりを反射して、琥珀色のジュレが美しく輝いている。
中谷さんは、まるで幻でも見ているかのように、震える手で小鉢を引き寄せた。
顔を近づけると、深く、優しく、熱い出汁の香りが立ち上ってくる。
それは間違いなく、彼が長年向き合い続けてきた「本物の和食」の香りだった。
そして、亡き妻が、深夜に、自分のために作ってくれた、あの忘れられないお茶漬けの出汁の匂いだった。
「・・出汁、だ・・」
中谷さんの掠れた声が激しく震えた。
彼は、テーブルに添えられていた木のスプーンを手に取った。
スプーンを持つ手が、小刻みに震えている。
琥珀色のジュレをすくい上げ、ゆっくりと、祈るように自分の口へと運んだ。
中谷さんは、喉の痛みへの恐怖で一瞬目を固く閉じた。
ジュレが舌に触れた瞬間。
極上の鰹と昆布の旨味が、口の中いっぱいに広がった。
お塩と薄口醤油の絶妙なバランスが、長らく眠っていた味覚を優しく叩き起こした。
そしてジュレは、崩れることなく、冷たく滑らかな塊のまま、炎症を起こした食道を、痛みを生じさせることなく、ツルリと滑り落ちた。
「・・」
中谷さんは目を見開き、スプーンを口にくわえたまま止まった。
痛くない。
全く痛くない。
次の瞬間。中谷さんの皺だらけの目尻から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「・・美味ぇ」
絞り出すような、泣き声混じりの声だった。
「痛くねえ・・。飲み込める。まだ・・味が、分かる。・・女房の、出汁の味・・」
中谷さんは小さな子どものようにしゃくりあげて泣きながら、スプーンを口に運んだ。
「こんな泥みたいなもの」と嫌っていたはずのゼリー状の食べ物を、彼はいま、世界でいちばんおいしくて大切なごちそうのように味わっていた。
喉の痛みを気にせず、ただ素直に、食べられる喜びを感じていた。
長いあいだ十分に栄養をとれず、絶望で青白かった中谷さんの頬に、ほんのりと血の気が戻ってきているのがわかった。
あゆみは、その光景を病室の隅で黙って見つめていた。
両手で口元を覆って必死に涙をこらえていた。
食べることは、ただ栄養をとるためだけのものではない。
その人が歩んできた日々を感じながら、また明日を生きていこうと思える力を取り戻す、かけがえのない時間なのだ。
数分後。
小鉢の中の琥珀色のジュレは、一滴残らず綺麗に平らげられていた。
中谷さんはゆっくり息を吐き、ほっとしたような、満ち足りた表情でスプーンを置いた。
その顔は、数分前までの絶望に満ちた重病の患者さんではなかった。
四十年間板場に立ち続けてきた、誇り高き料理人の顔に戻っていた。
「・・木下さん」
中谷さんがあゆみを見た。
その目には、真っ直ぐな感謝の光が宿っていた。
「作ってくれた栄養士さんに、伝えてくれ。『見事だ。ごちそうさまでした』ってな」
「はい・・っ! 必ず、お伝えします!」
あゆみは涙声になりながら、深く深く頭を下げた。
その夜。
あゆみはナースステーションで、空っぽになった藍色の小鉢を丁寧に洗っていた。
配膳室から顔を出した松永さんに、中谷さんの言葉を伝えると、松永さんは少し照れくさそうに眼鏡の位置を直し、「本物の職人さんに褒められるなんて、光栄ね」と微笑んだ。
「松永さん、本当にすごいです。中谷さん、生きる気力を取り戻したみたいでした。お顔が全然違ったんです」
あゆみの言葉に、松永さんはシンクの水を止め、静かに窓の外の秋の夜空を見つめた。
「私たちは、病気を治すことはできないわ。でも、患者さんの心を大切にし、今日という日を豊かに生きるためのお手伝いはできる。それは、お医者さんの手術やお薬だけじゃなく、こういう一杯の出汁にだってできることなのよ。食は、生きる希望そのものだから」
秋の夜風が、少しだけ開いた窓の隙間から吹き込み、あゆみの頬を優しく撫でた。
深い悲しみの中にあっても、人はささやかな喜びで何度でも立ち上がることができる。
あゆみは洗い上がった陶器の小鉢を拭きながら、自分たちの仕事が人を元気づけるものであることを、あらためて思った。
人の命にもまた、それぞれの重みがあることも。




