第16話 嘘と真実
十一月に入り、朝夕の冷え込みが一段と厳しさを増してきた。
病棟の窓ガラスは毎朝うっすらと白い結露に覆われ、外の枯れ葉が舞う景色をぼやかしている。
ナースステーションには、暖房の乾いた空気が静かに流れていた。
木下あゆみは、温かいコーヒーの紙コップで冷えた指先を温めながら、パソコンの画面を見つめ、重いため息をついた。
「また、長谷川さんが暴れたみたいね」
先輩の藤井陽子が、夜勤からの引き継ぎノートをパタンと閉じながら、少し疲れた声で言った。
長谷川誠さん、五十八歳。
膵臓がんの末期で、すでに肝臓や腹膜に無数の転移がある。
がん細胞が胆管を塞いでしまっているため黄疸が強く出ていた。
肌や白目が黄色っぽく変わって、お腹には腹水がパンパンに溜まっていた。
少し動くだけでも苦しそうな息を漏らす状態だった。
誰の目から見ても、彼に残された時間はあとわずかだった。
しかし、彼の看護記録には、赤い太字で注意事項が書かれている。
『病名について、本人には絶対に伝えないこと(ご家族の強い希望)』
一ヶ月前に入院してきたとき、奥様の美津子さんが面談室で泣きながらすがるように頼んだ。
『本当のことを知ったら、あの人は絶望して生きる気力をなくしてしまいます。気が弱くて、注射一本でも怖がる人なんです。どうか、ただの重い胃潰瘍で、ここで治療すれば必ず治ると、嘘をつき通してほしい』
それは、夫を思う妻の、切実な願いだった。
長谷川さんから「俺の病気は本当は何なんだ? なんでこんなに痛いんだ?」という質問に対して、スタッフたちは言葉を濁し、嘘をつき続けなければならなかった。
「もう・・限界だと思います。嘘をつきながらお世話をするのって、息が詰まって苦しいんです」
あゆみがうつむいて紙コップの縁を指でなぞると、陽子はポンと軽く肩を叩いた。
「ご家族の『愛ゆえの嘘』だからね。でも、一番苦しいのは、誰よりもご本人なのよ」
午前十時。
あゆみは、点滴の交換と体を拭くためのワゴンを押して、長谷川さんの310号室に入った。
部屋の空気はひどく淀んでいた。
カーテンは隙間なく閉め切られ、昼間だというのに薄暗い。
ベッドの上で、長谷川さんは荒い息を吐きながら、天井のシミを鋭く睨みつけていた。
「おはようございます。お体の清拭と、点滴の交換をさせてくださいね」
ワゴンをベッドのそばに寄せ、保温器から取り出したタオルの封を切った。
温かい湯気がふわっと立ち上った。
布団を少しめくろうと手を伸ばした瞬間だった。
「・・触るなっ!」
怒鳴り声とともに、長谷川さんのひどく痩せ細った腕が、あゆみの手を激しく払い除けた。
その拍子に、点滴のチューブが引っ張られ、ステンレスのスタンドがガチャンと大きな音を立てて激しく揺れた。
「どうせ治らないんだろ! なのに、体を綺麗にしたって無駄だろうが!」
黄色く濁った疲れ切った目で、長谷川さんが鋭く睨みつけた。
あゆみはビクッと肩を震わせた。
すぐに倒れそうになったスタンドを両手でしっかりと支えた。
「無駄なんてこと、ありませんよ。ずっと寝たきりで汗をかいたままだと、気持ち悪くないですか? 少しでもさっぱりしたほうが・・」
「うるせえ! 治る治るって、どいつもこいつも嘘ばっかりつきやがって! 治る病気なら、なんでこんなに腹が痛いんだ! なんでこんなに腹が膨れて、体が黄色くなってくんだよ!」
長谷川さんは肩で荒い息をつきながら、自分のパンパンに張ったお腹を乱暴に叩いた。
「俺の体だ、俺が一番よく分かってんだよ。もう長くないことぐらいな。・・どうせ助からないのに、なんでこんな痛み止めだの栄養だの、無駄なことばっかりするんだ。俺を馬鹿にするのもいい加減にしろ。もう、放っておいてくれ!」
長谷川さんは、毛布を頭からすっぽりと被り、壁側へ寝返りを打ってしまった。
毛布の下で、背中が小刻みに震えていた。
あゆみは、手の中で温かいタオルの熱が冷めていくのを感じていた。
長谷川さんが荒れているのは、体の痛みだけが原因ではない。
誰も本当のことを言ってくれない。
一番信頼しているはずの奥様も、医者も、看護師も、みんなが自分に対して分厚い壁を作り、遠巻きに白々しい芝居をしている。
その「圧倒的な孤独感」が、彼を深い不安に突き落としていた。
そして、行き場のない怒りとなって爆発している。
(本当のことを、言ってあげたい。長谷川さんは、自分の命が短いことよりも、誰にも本当のことを言ってもらえないまま、嘘に囲まれて一人で旅立っていくことのほうが、何倍も怖いのかも)
あゆみは唇を強く噛みしめ、胸の奥が痛むのを感じた。
黙って、すっかり冷たくなったタオルをワゴンに戻した。
その日の午後。
ナースステーションの奥にある面談室で話し合いが行われていた。
長谷川さんの担当である高橋医師、あゆみ、そして相談員の市川さんが、奥様の美津子さんと向かい合って座っていた。
「奥様。ご主人の痛みを和らげるためにも、やはり本当のご病状をお伝えすべき時期が来ていると思います。ご本人はすでに、ご自身の体の急激な変化から、残された時間が少ないことに薄々気づいておられます」
高橋医師が、言葉を選びながら、ゆっくりと慎重に切り出した。
美津子さんはハッとして顔を上げ、手元のハンカチを両手でギュッと握りしめた。
「ダメです! 絶対に言わないでください! あの人は昔から気が弱くて、会社の健康診断で少しでも悪いところがあると、すぐに落ち込んで夜も眠れなくなるような人なんです。もう治らないだなんて言ったら、ショックで本当に今日明日で生きる気力をなくしてしまいます!」
美津子さんの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
愛する夫を失いたくない。
少しでも長く、希望を持ったまま生きてほしい。
その切切実な愛情が痛いほど伝わってくる。
だからこそ、高橋医師もあゆみも、強く反論できずにこれまで嘘に付き合ってきた。
美津子さんが顔を覆って泣き崩れるのを見つめていた市川さんが、テーブルの上にそっとティッシュ箱を置き、静かに、穏やかに口を開いた。
「奥様のお気持ち、痛いほどよく分かります。大好きなご主人に、悲しいお知らせなんてしたくないですよね」
市川さんの声は、どこまでも静かで、優しく落ち着いていた。
専門用語や固い理屈は一切使わない。
ただ、同じ目線で、隣に寄り添うような温かい響きがあった。
「でも、奥様。少しだけ、ご主人の立場になって想像してみていただけませんか。自分の体がどんどん動かなくなって、痛みが毎日続いて、鏡を見れば顔が黄色くなっている。明らかに命の時間が少なくなっているのに、一番信頼している奥様からも、お医者さんからも『大丈夫、ただの胃潰瘍だから』と笑いかけられる。・・それは、ご主人にとって、すごく孤独で怖いことではないでしょうか」
美津子さんが肩を震わせた。
「ご主人は今、『どうせ治らないのにケアなんて無駄だ』とスタッフに怒りをぶつけていらっしゃいます。それは、病気に対する怒りではなく、一番不安なときに、誰とも本当の不安を分かち合えないことへのSOSなんです。このままご主人が旅立たれたとき、奥様とご主人の間には『嘘をつき通した』という冷たい壁だけが残ってしまいます。最期のとても大切な時間を、その壁越しに過ごすだけで、本当によろしいのでしょうか」
静かな面談室に、美津子さんのしゃくりあげる声だけが聞こえた。
あゆみは、テーブルの下で自分の手を固く握りしめていた。
嘘をついて希望を持たせることが愛情なのか。
それとも、悲しい真実を共有して、共に泣き、最期の時間を生きることが愛情なのか。
答えを出すのは、医療者ではなく、残される家族自身なのだ。
長く重い沈黙の後、美津子さんは、赤く腫れた目を上げ、震える声で言った。
「・・本当のことを、言います。主人の前で、嘘をついて笑うのは・・私だって、もう限界でしたから・・」
夕暮れ時。
病室の窓の外は、冬を思わせるような濃い藍色に沈みかけていた。
ベッドの脇には美津子さんが座り、足元には高橋医師とあゆみが静かに立っている。
「・・そうか。もう、治らないんだな」
高橋医師から、嘘のないはっきりとした話を受けた長谷川さんは、暴れることも、大声で泣き叫ぶこともなかった。
どこか悪い夢から覚めたように、深く、長い息を吐き出しただけだった。
「・・あなた、ごめんなさい。ずっと、嘘ついてて・・怖がらせたくなくて・・本当にごめんなさいっ」
美津子さんが、長谷川さんのひどく細くなった手を両手で包み込んで泣いた。
長谷川さんは、点滴の管が繋がった痩せた手で、奥様の震える背中をポン、ポンと、不器用なリズムで優しく叩いた。
「謝るな。薄々、分かってたよ。お前が俺のために無理して笑ってくれてるのも、分かってた。・・ただ、それを俺の口から言っちまったら、お前が余計に悲しむと思って、俺も言えなかったんだよ」
長谷川さんの黄色く濁った目から、一筋の透き通った涙がツーッとこぼれ落ちた。
「・・やっと、本当のことが言えたな。これで、安心してお前と一緒に泣けるよ」
その言葉を聞いたとき、あゆみの鼻の奥がツンと痛くなった。
あふれる涙で視界が滲んだ。
患者さんも、家族も、お互いを愛しているからこそ嘘をついてきた。
愛ゆえの嘘のせいで、お互いに孤独な暗闇の中で一人で震えていた。
悲しいけれど、真実という光が差し込んだことで、二人の間を隔てていた分厚い壁が音を立てて崩れた。
本当の意味での「ご夫婦の最期の時間」が、今ようやく始まった。
長谷川さんは、涙を袖で拭いながら、足元に立つ高橋医師とあゆみを見た。
その表情からは、今朝までのトゲトゲとした怒りや、全てを拒絶するような暗い色はすっかり消え去っていた。
「先生、木下さん。今まで、当たり散らしてすまなかったな。・・俺は、あとどれくらい生きられる?」
「・・一ヶ月か、あるいはもっと短いかもしれません。ですが、痛みだけは私たちが全力で和らげます。一日でも長く、奥様とお話しできるようにお手伝いさせてください」
高橋医師が真っ直ぐに答えると、長谷川さんは満足そうに小さくうなずいた。
「木下さん。今朝は、せっかく体を拭きに来てくれたのに悪かったな。・・明日の朝は、背中を拭いてくれないか。ずっと寝たきりで、気持ち悪くてよ」
「・・はい! 明日は熱々のおしぼり、たくさん持ってきますね!」
あゆみは、涙で声がひっくり返りそうになるのを必死にこらえた。
最高の笑顔を作って大きくうなずいた。
夜。
ナースステーションに戻ったあゆみは、電子カルテに看護記録を入力していた。
深く満たされたような心地よい疲労感を感じていた。
病室で長谷川さんの背中をさする美津子さんの姿が、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
医療の現場には、治る病気ばかりではない。
時に、どうしようもなく悲しい現実を患者さんに伝えなければならない時もある。
でも、その悲しい真実から逃げずに、患者さんとご家族が一緒に手をつないで涙を流せるように支えること。
それが、本当の意味での「寄り添う」ということなのだ。
窓の外には、冷たい冬の星が瞬いている。
嘘と真実のあいだで揺れながら過ごしてきたご夫婦の、短いけれど本当の時間が、静かな夜の中でそっと流れていく。
あゆみは、その時間が少しでも穏やかなものであるようにと、静かに祈った。




