第17話 面会謝絶の病室
十二月に入り、街には冷たい氷雨が降り続いていた。
みぞれ混じりの雨滴が病棟の窓ガラスを容赦なく叩きつけている。
廊下を歩くスタッフの足音も、分厚いカーペットに吸い込まれ、どこか重苦しく聞こえる。
四階の緩和ケア病棟の奥、一番日当たりの悪い北側にある312号室。
その木の引き戸には、一枚の冷たくそっけない札が、画鋲で打ち付けられていた。
『面会謝絶』
それは文字通り、たとえ家族であっても絶対に会わないという患者さんの強い意思表示だ。
あゆみは、ワゴンに乗せた温かいおしぼりを手に取りながら、その札の前で一度だけ小さく深呼吸をし、気持ちを整えた。
ベッドに横たわっているのは、篠原健介さん(四十五歳)。
進行性の大腸がんで、すでに多臓器に転移が広がってしまっている。
長年にわたり何種類もの抗がん剤治療を続けてきた。
ついに効果がなくなり、全身を襲う激しい痛みのため、この緩和ケア病棟へやってきた。
篠原さんは五年前、仕事のすれ違いから奥様と離婚していた。
一人娘の美桜ちゃん(みお・十二歳)は元奥様に引き取られている。
一週間前、元奥様から相談員の市川さん宛に「娘が最後に一目だけでもお父さんに会いたいと泣いている」と悲痛な連絡が入った。
篠原さんはその申し出を聞くや否や、ベッドの柵を力任せに叩き、「絶対に会わん!」と激しく怒り、『面会謝絶』の札をドアに貼らせた。
「篠原さん、お昼のおしぼりをお持ちしましたよ。少し、お顔と首元を拭きましょうか」
あゆみが引き戸を開けて病室に入ると、篠原さんはベッドの上に身を縮めるようにして固く丸まり、窓の外の灰色の雨空をじっと見つめていた。
長きにわたる治療の影響で、彼の体はすっかり痩せ細っている。
髪は抜け落ちて少なくなり、頬は深くこけ、目は落ち窪み、四十代半ばという年齢よりもずっと老け込んで見えた。
とても、小学生の娘を持つお父さんの背中には見えなかった。
「・・置いておけ。自分でやる」
布団の中から、低くかすれた声が漏れた。
篠原さんはこちらを見ようともしない。
「背中だけでも拭かせていただけませんか? ずっと寝たきりで汗をかいたままだと、風邪を引いてしまいます。すぐに終わりますよ」
「いいから、放っといてくれ!」
篠原さんがイライラした様子で、毛布を乱暴に蹴り飛ばした。
その拍子に、サイドテーブルに置かれていた小さな写真立てが、パタンと乾いた音を立てて裏返しに倒れた。
あゆみは無言のまま膝をつき、倒れた写真立てをそっと起こした。
そこには、七五三の赤い着物を着て満面の笑みを浮かべる七歳の美桜ちゃんと、その横でスーツを着て少し照れくさそうに笑う篠原さんの姿が写っていた。
写真の端は色褪せ、何度も何度も指で撫でられたのか、少し黒ずんでいる。
「・・触るな」
篠原さんが震える手を伸ばし、あゆみの手から写真立てを奪い取り、裏返しにしてテーブルの奥へ押しやった。
「篠原さん・・」
「俺は、誰にも会わん。お前たちも、鎮痛剤と点滴だけ持ってくればいい。余計な世話は焼くな。さっさと出てけ」
篠原さんは再び背中を向け、お布団を頭から深く被ってしまった。
痛みに耐えるためか、別の思いを押し殺すためか、布団の下で細い背中が小刻みに震えているのがはっきりと分かった。
あゆみは、温かいおしぼりをテーブルの上にそっと置き、静かに病室を後にした。
胸の奥に、重いしこりが残るのを感じていた。
その日の午後。
ナースステーションの奥の面談室で、相談員の市川さんが受話器を握りしめ、静かに、ひどく困った声で話していた。
「・・はい、申し訳ありません。ご本人の意思が非常に固く、どうしても首を縦に振っていただけなくて・・。え・・美桜ちゃんが、お母様と病院にお見えなんですか・・。分かりました。私と看護師で、もう一度ご本人を説得してみます。」
市川さんが重いため息とともに受話器を置いた。
横でパソコンの記録を打っていたあゆみが、不安げに市川さんを見つめる。
「市川さん。今の電話・・」
「元奥様。美桜ちゃんが、どうしてもお父さんに会いたいって泣いてきかなくて、今、病院の一階ロビーまで来ているって」
あゆみは息を呑んだ。
「でも、篠原さんは絶対に会わないって・・。どうしてあんなに、頑なに拒否するんでしょうか。大切に娘さんの写真を飾っているのに・・。会いたくないはずがありません」
あゆみの問いに、そばで記録の整理をしていた先輩看護師の藤井陽子が、静かに手を止めた。
「お父さんとしてのプライドかな・・。篠原さんはね、娘さんの中にある『強くてかっこいいお父さん』の記憶のまま、旅立っていきたいのかも。今の自分の、痩せ細って、お世話も一人でできず、痛みに顔を歪めている姿・・愛している娘にだけは、絶対に見せたくないのよ」
陽子の言葉に、あゆみは胸がギリッと締め付けられた。
深く愛しているからこそ、会えない。
嫌われたくない、軽蔑されたくない。
悲しい愛情と強がりが、篠原さんの心を分厚い氷のように閉ざしてしまっていた。
「でも・・このまま会わずに亡くなってしまったら、美桜ちゃんは『お父さんに拒絶された』という悲しみを一生背負うことになります。篠原さんだって絶対に後悔するはず!」
あゆみは立ち上がり、白衣のポケットの中で拳を固く握りしめた。
市川さんが静かにうなずく。
「ええ。だから、私たちがなんとか篠原さんの心の氷を溶かすしかないわ。木下さん、一緒に来てちょうだい」
病室のドアを静かに開けると、篠原さんは壁を向いて丸まっていた。
窓を叩くみぞれの音が、病室の静けさを際立たせている。
「篠原さん。少しだけ、お話よろしいでしょうか」
市川さんの静かで穏やかな声に篠原さんは少し肩を震わせた。
「美桜ちゃん、今、一階のロビーにお見えです。どうしてもお父さんに会いたいと泣いていらっしゃいます」
篠原さんの息がヒュッと止まる音が聞こえた。
布団を握りしめている細い手に強い力が込められ、指の関節が白く浮き上がっている。
「・・会わない。絶対に、会わない。俺は、仕事ばかりで家族を大切にできなかった、ダメな父親だ。今更会って、父親ぶる資格なんてないんだよ・・」
篠原さんの声は、怒りというより、もはや泣き叫ぶような悲鳴に近かった。
「元気に生きてくれって・・そう伝えてくれ。頼むから・・一人にしてくれ!」
あまりにも悲しい、孤独な叫びに、市川さんも言葉を詰まらせた。
無理に会わせることが、本当に彼のためになるのか。
父親としての最後の誇りを奪い、彼をさらに深く傷つけてしまうことになるのではないか。
重い沈黙が病室を包みかけた、その時。
「本当に、会いたくないんですか?」
あゆみが絞り出すような声で言った。
市川さんが驚いてあゆみを見た。
しかし、あゆみは篠原さんの震える背中をじっと見つめた。
「・・なんだと」
「本当は、美桜ちゃんに会いたいんじゃないですか。会って、最後に一度だけ、強く抱きしめたいんじゃないですか」
「お前に何が分かる!」
篠原さんがお布団を力任せに跳ね除け、激しい怒りを込めた目で、あゆみを睨みつけた。
「篠原さん、怖いんですよね」
あゆみは、ひるむことなく篠原さんの目を真っ直ぐに見つめ返した。
かつて先輩から教わった「患者さんの悲しみから逃げない」という覚悟が、あゆみの背筋をピンと伸ばしていた。
「今の自分の姿を見たら、美桜ちゃんが怖がるんじゃないか。嫌われるんじゃないか。娘さんの中の『かっこいいお父さん』の記憶が壊れてしまうのが、怖いんですよね」
「・・!」
図星を突かれた篠原さんの喉から、声にならない空気が漏れた。
「でも、美桜ちゃんは、かっこいいお父さんに会いに来たんじゃないんです。ただの『お父さん』に会いに来たんです。病気で痩せていても、どんな姿になっていても・・お父さんは、お父さんなんです。今ここであなたが美桜ちゃんに会わなかったら、美桜ちゃんは一生『自分はお父さんに嫌われていたんだ』と思って生きていくことになります。・・そんなの、篠原さんだって絶対に嫌じゃないですか!」
あゆみの真っ直ぐな言葉が、冷たい病室の空気を震わせた。
篠原さんは、大きく見開いた目で数秒間あゆみを見つめた。
ぽろぽろと、大粒の涙をこぼした。
「・・怖いんだよ」
篠原さんが、顔を両手で覆い、子どものようにしゃくりあげて泣き崩れた。
「俺は・・こんなに細く、情けない姿になっちまった・・。あいつの頭を撫でてやる力すらないんだ。こんな親父を見たら、あいつは絶対に怖がる・・。嫌な気持ちになるに決まってる・・! それならいっそ、かっこいい親父の記憶のまま、会わないほうが・・」
「怖がりません」
あゆみは、ベッドのそばにひざまずいた。
篠原さんの震える手を両手でしっかりと包み込んだ。
「絶対に、怖がったりしません。・・私たちも、お手伝いしますから。美桜ちゃんに会いましょう。お父さんとして、ちゃんと最期のお別れをしてあげてください。それが、お父さんにできる最後のプレゼントです」
篠原さんは、あゆみの手の温もりにすがりつくように、長い間、声を殺して泣き続けた。
分厚い氷のように心を閉ざしていたお父さんの悲しい愛情と強がりが静かに溶け落ちていった。
十分後。
病室のドアの外に、制服姿の美桜ちゃんが立っていた。
十二歳になったばかりの彼女は、緊張と不安で小さな肩を震わせている。
ドアノブに手をかけたまま、石のように固まっていた。
五年ぶりの再会だった。
お父さんは重い病気だ。
どんな姿になっているのか、想像するだけで足がすくむのは当然だった。
あゆみは、美桜ちゃんの震える背中に、そっと温かい手を当てた。
「大丈夫だよ。お父さん、美桜ちゃんに会えるのを、ずっと待ってたんだからね」
あゆみの優しい言葉に美桜ちゃんは小さくうなずき、ゆっくりとドアを開けた。
病室のベッドの上。
篠原さんは、上半身を起こし背筋をピンと伸ばして座っていた。
酸素カニューレも外し、乱れていた髪はあゆみが綺麗にとかしている。
痩せこけていたが、その目には、父親としての確かな光が宿っていた。
「・・お父さん」
美桜ちゃんが、小さな声で呼んだ。
五年ぶりに見るお父さんの姿は、記憶の中の大きな背中とはまるで違っていた。
あまりにも細く、あまりにも小さくなっていた。
美桜ちゃんは一瞬、息を呑んで立ち止まった。
篠原さんはすっと目を伏せた。
やはり怖がらせてしまった。
拒絶される。
篠原さんが諦めかけた、その時。
「お父さん・・っ!」
美桜ちゃんが、ランドセルを放り出し、泣き顔でベッドサイドへ駆け寄った。
ベッドの上の篠原さんの胸に、そのまま飛び込むようにして顔を埋めた。
「お父さん、お父さん・・っ! 会いたかったよぉ・・っ!」
「美桜・・っ」
篠原さんは、震えながら、痩せた両腕で娘の小さな背中を強く抱きしめた。
「美桜・・ごめんな、ごめんな・・っ。お父さん、こんな姿になっちまって・・怖かったろ、ごめんな・・っ」
「怖くないよ! お父さんだもん・・お父さん、大好きだよぉ・・!」
病室に、親子のどこまでも温かい泣き声が響き渡った。
どんなに姿が変わろうと、親子の絆だけは決して壊れることはない。
五年間という空白の時間を埋めるように、互いの温もりを確かめ合いながら、ただ泣き続けていた。
あゆみと市川さんは、静かに病室のドアを閉め廊下へ出た。
あゆみは、ドアに画鋲で打ち付けられていた『面会謝絶』の札をそっと剥がし、白衣のポケットにしまった。
目からは、ぽろぽろと涙が溢れて止まらなかった。
「木下さん、よくやってくれたわ」
市川さんがあゆみの背中を優しくさすった。
「患者さんの本当の『悲しみ』から逃げずに踏み込むのは、すごく勇気がいることよ。でも、あなたが逃げなかったから、あのご家族は『最期の時間』を取り戻せたの」
「はい・・」
あゆみは涙を拭い、閉ざされたドアの向こうから聞こえる、親子の泣き声に耳を澄ませた。
傷つくことを恐れない。
本当の悲しみに寄り添う。
その思いが自分の中で強い自信として育っている。
あゆみは冷たい空気の中で、静かに、確かな手応えとともに噛み締めた。




