第18話 落ち葉のささやき
十一月も終わりに近づいていた。
中庭に立つ大きなケヤキの木はすっかり葉を落とし冬の準備を始めていた。
冷たく乾いた北風が吹き抜けるたび、厚く降り積もった落ち葉が、カサカサと身を寄せ合うようにささやき合っている。
その乾いた音は、近づいてくる厳しい冬の足音を病棟の窓辺へと運んできた。
四階の緩和ケア病棟のナースステーション。
暖房の風がゆるく流れ、特有の静けさに包まれていた。
しかし、その静けさは決して穏やかなものではなかった。
ピンと張り詰めた薄い氷の上を歩くような危うさをはらんでいた。
ここ一週間、連日のようにお見送りが続いていた。
長く入院してスタッフとも顔なじみだった患者さんたちが、まるで冬の訪れを待っていたかのように、次々と息を引き取っていった。
ご家族の悲しみに寄り添いながら、スタッフは丁寧にエンゼルケアを行い、故人を霊安室へと見送る。
その積み重ねが、スタッフたちの心と体に重くのしかかっていた。
昨日お見送りした大西さんというおじいちゃんは、リーダーの藤井陽子が担当として長く関わっていた患者だった。
大西さんが亡くなる直前、「藤井さん、ありがとうね・・」と震える手で握手をしてくれた感触が陽子の手にまだ残っていた。
その日の夜勤に入っていたのは、あゆみと陽子、そしてもう一人の若手看護師の三人だった。
陽子は二児の母親だ。
日中は自転車で保育園の送迎をし、夕飯を作り、家事をこなして夜勤に入るという、病棟の「要」とも言えるベテラン看護師。
どんなに疲れていても、いつも太陽のような明るい笑顔を絶やさなかった。
緊急事態でも的確に指示を出す彼女を、あゆみは心から尊敬し姉のように慕っていた。
しかし、夜勤入り前の引き継ぎの時から、今日の陽子はどこか様子がおかしかった。
目の下にはくっきりと濃いクマが刻まれている。
血色の良い頬が、まるで蝋人形のように青白い。
電子カルテを見つめる目にはいつもの輝きがなく、時折、こめかみを指で押さえ、誰にも聞こえないような小さな息を吐き出していた。
夜勤が始まる直前、日勤帯上がりの先輩看護師の神崎が、あゆみを給湯室に呼んだ。
「木下さん、今日の夜勤、あなたがしっかり藤井さんを支えなさいよ。彼女、下のお子さんが三日前から高熱を出して、夜中もずっと看病しててほとんど寝てないはずよ。それに昨日の大西さんのお見送り・・彼女、気丈に振る舞っているけど、かなり限界が来てる。何かあったら、あなたが動くのよ」
「・・はい、分かりました。しっかりサポートします」
あゆみは力強く頷いた。
「藤井先輩、顔色がよくないです。少し休憩室で横になっていてください、私が先にラウンド(巡回)してきますから」
夜勤が始まってすぐ、あゆみが心配して声をかけた。
陽子はハッとしていつものように微笑んだ。
「大丈夫よ、あゆみちゃん。ちょっと寝不足なだけだから。夜勤明けには夫が代わってくれるし、それまでの辛抱よ。夜のお薬の準備をしましょう」
立ち上がった陽子の背中は、いつもより一回りも二回りも小さかった。
今にもパキッと折れてしまいそうに見えた。
深夜二時。
静まり返った病棟に、けたたましいナースコールが鳴り響いた。
『305号室、山田様。305号室、山田様』
山田さん(七十二歳)は、末期の肺がん患者。
夕方から少し呼吸状態が不安定になり、ご家族が泊まり込みで付き添っていた。
「行きます!」
あゆみと陽子は同時に立ち上がり、小走りで305号室へ向かった。
病室のドアを開けると、山田さんの奥様が青ざめた顔でベッドサイドに立ち尽くし、震える手で口元を覆っていた。
「主人が、急に苦しそうで・・息が、変なんです!」
山田さんはベッドの上で肩を大きく上下させ、浅く速い呼吸を繰り返していた。
喉の奥からはゴロゴロ、ゼロゼロという溺れるような音が聞こえている。
一分一秒の遅れが患者の耐え難い苦痛に直結する。
陽子の表情が一瞬に「プロの医療者」へと替わった。
「あゆみちゃん、すぐにSpO2(経皮的動脈血酸素飽和度)モニターと、気管内吸引の準備! 私はバイタルサインの測定と酸素の調整を!」
陽子の鋭い指示が飛ぶ。
あゆみは素早くパルスオキシメーターのプローブを山田さんの指先に装着し、血圧計のマンシェットを上腕に巻いてスタートボタンを押した。
モニターの画面に、警告音とともに赤い数値が表示される。
「SpO2、72%までに低下! 心拍数は130回の頻脈、血圧は85の50、触診で橈骨動脈の拍動は微弱。チアノーゼが口唇と指尖に出現してます!」
あゆみがバイタルサインを矢継ぎ早に正確に報告する。
ベッド上の山田さんの下顎が、魚が陸でパクパクするように不規則に上下し始めた。
下顎呼吸・・脳の呼吸中枢が機能を失いかけ死期が近いことを示すサインだった。
「気道分泌物の貯留による呼吸困難ね。酸素流量を鼻腔カヌラ2リットルから、リザーバー付き酸素マスク10リットルへアップ!。あゆみちゃん、吸引カテーテルの12Frを出して。吸引器の陰圧は20kPaに設定して!」
陽子は冷静な声で指示を出しながら、壁の配管に酸素チューブを接続した。
膨らんだリザーバーバッグのついたマスクを山田さんの顔に密着させた。
「山田さん、苦しいですね。今、お薬を使って楽にしますからね。頑張らなくていいですからね」
陽子は、山田さんの胸元に繋がっている持続皮下注用のPCA(患者自己調節鎮痛)ポンプを確認した。
フラッシュボタンを押し、ベースラインのモルヒネ塩酸塩(医療用麻薬)の投与量を一時的に増やして呼吸困難感を和らげようとした。
さらに、レスキュー(頓用)としてのミダゾラム(鎮静薬)のガラスアンプルを、白衣のポケットから取り出した。
「ミダゾラム、1アンプル吸います」
陽子がシリンジ(注射器)を手に取り、ガラスアンプルの首を折ろうと指に力を込めた、
その瞬間。
・・パシャン。
乾いた音が、緊迫した病室に響いた。
陽子の手からガラスのアンプルが滑り落ち、リノリウムの床で粉々に砕け散った。
「あ・・」
陽子が、自分の震える手を、信じられないものを見るように見た。
彼女の肩が、大きく速く上下し始めた。
「ハァッ・・ハァッ・・ハァッ・・!」
陽子の呼吸が、荒く、浅く、異常なスピードに変わった。
彼女は自分の胸を強く掻きむしり、その場に力なくへたり込んだ。
「ハァッ、息が・・吸えない・・っ! 手が・・手が痺れて・・っ」
過換気症候群(過呼吸)だった。
極度の緊張と疲労で呼吸は浅く速くなり、陽子の体は明らかに限界を超えていた。
血の気が引いた指先は強く痺れ、こわばった手足は思うように動かない。
いつも病棟を支え続けてきた陽子が、患者の目の前で崩れ落ちた。
連日の看取りで心をすり減らし、我が子の看病で眠れない日が続き、それでもリーダーとして踏みとどまらなければならないと、自分を追い込み続けた末のことだった。
山田さんの奥様が悲鳴を上げた。
「看護師さん!? どうしたの!? 誰か、誰か来て!」
病室に、モニターのけたたましいアラーム音が鳴った。
山田さんの下顎呼吸の喘鳴、陽子の過呼吸の音、そして奥様のパニックの声が入り乱れた。
まさにカオス状態だった。
あゆみは頭の中が真っ白になった。
手には冷たい汗がにじみ、心臓が早鐘のように鳴っている。
いつも自分を守り的確に導いてくれた絶対的な支えが、目の前で崩れ落ちた。
かつてのあゆみなら、恐怖ですくみ、パニックのまま涙をこぼして立ち尽くしただろう。
けれど、今のあゆみは違った。
春から夏、そして秋へと、数え切れないほどの患者たちの生と死に真正面から向き合い、痛みを抱えながらも寄り添い続けてきた時間が、彼女を確かに強くしていた。
(逃げない。私が、先輩を支える。私が守る!)
あゆみは大きく、深く息を吸い込んだ。
そして、自分でも驚くほど落ち着いた声を張り上げた。
「奥様! 大丈夫です、安心してください。私が対応します!」
あゆみの低く力強い声に、パニックになっていた奥様がハッと息を呑んだ。
あゆみは即座にナースコールを押し、詰所にいるもう一人の看護師を呼び出した。
「佐藤さん! 至急305号室! 藤井先輩が過呼吸を起こして倒れました。先輩をナースステーションの休憩室へ運んで、ペーシング法(ゆっくりと呼吸を合わせる介助法)で呼吸を落ち着かせて! 山田さんのケアは私が引き継ぎます。当直の高橋先生に至急コール、ミダゾラムの追加指示をもらって!」
的確で一切の無駄がない指示だった。
駆けつけた若手看護師の佐藤がすぐに陽子の背中をさすり病室の外へ連れ出した。
あゆみは床に散らばったガラス片を足でベッドの下へ安全に払い除けた。
救急カートから新しいミダゾラムのアンプルを取り出し、シリンジに正確な量を吸い上げた。
当直の高橋医師が駆けつけてきた。
「木下、状況!」
「山田様、気道分泌物貯留による著明な呼吸困難、死前喘鳴あり。SpO2 70%台。苦痛緩和のためミダゾラム2.5mgの静脈内注射を提案します」
あゆみは、極めて冷静に、アセスメント(状態評価)に基づいた的確な具申をした。
「わかった、直ちに静注(静脈注射)してくれ!」
「承知しました。ミダゾラム2.5mg、静注します」
あゆみは山田さんの点滴の側管から、ゆっくりと迷いのない手つきで鎮静薬を注入した。
同時に、用意していた吸引カテーテルを素早く口腔内から咽頭部へ挿入した。
ゴロゴロと鳴っていた分泌物を陰圧で一気に吸引し、空気の通り道を確保する。
「山田さん、もう苦しくないですからね。ゆっくり、眠りましょうね」
あゆみは山田さんの耳元で、優しく安心させるように語りかけた。
一分後。
薬が効き始めた。
山田さんの荒かった呼吸が嘘のようにスッと静まり、穏やかな寝息へと変わった。
SpO2の数値がゆっくりと85%まで回復した。
チアノーゼが少しずつ改善していく。
モニターのアラーム音が鳴り止んだ。
「・・はぁっ」
奥様が、安堵のあまり膝から崩れ落ちて泣き始めた。
あゆみは奥様の背中にそっと手を回しゆっくりとさすった。
「奥様、もう大丈夫ですよ。山田さん、苦しくありません。穏やかに眠っていらっしゃいますからね」
あゆみの声は病室に温かく響いた。
高橋医師は、見事な処置を見せたあゆみを見た。
そして、小さく頷いた。
午前四時。
山田さんの容態が完全に落ち着いたのを確認した後、あゆみはナースステーションの奥にある休憩室のドアをそっと開けた。
深夜の休憩室に、消毒液の匂いと、誰かが淹れたコーヒーの香ばしい匂いが混ざり合って漂っていた。
その匂いが、死と隣り合わせの病棟の空気を少しだけ柔らかくしてくれている。
部屋の隅のソファで、陽子が毛布にくるまり、膝を抱えて小さくなっていた。
過呼吸はすっかり落ち着いていた。
あゆみは、紙コップに熱いコーヒーを二つ淹れ、陽子の隣に腰を下ろした。
「藤井先輩。コーヒー、飲みませんか」
あゆみが紙コップを差し出した。
陽子は受け取ろうとしたが、まだ少し手が震えていた。
「・・あゆみちゃん」
陽子の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「ごめんなさい・・私、最低ね。プロ失格だわ。患者さんが一番苦しんでいる時に、あんなところで倒れるなんて。・・最近、お見送りが多くて少し気が張ってたの。家に帰っても、熱を出して泣く子どもを看病して・・一睡もできないまま夜勤に来て。でも、リーダーの私がしっかりしなきゃって、無理に笑って・・」
陽子は顔を覆い、子どものようにしゃくりあげて泣き崩れた。
完璧な看護師という重い鎧が完全に剥がれ落ちた。
そこには、一人の疲弊しきった生身の女性がいた。
「大西さんが亡くなった時も、私、ご家族の前ではしっかりしなきゃって気を張ってて・・でも本当は、もっと何かできたんじゃないかって、ずっと後悔してたの。心が、パンパンに膨れ上がって、どうしようもなくなってた・・」
あゆみは、紙コップをテーブルに置き、陽子の震える背中を両手でしっかりと抱きしめた。
「先輩、謝らないでください。先輩はちっとも最低じゃありません」
あゆみの声は、どこまでも優しかった。
「春からずっと、私が患者さんの死に直面して怖くて泣いていた時、先輩は文句一つ言わずに、ずっと私を支えて、導いてくれました。先輩の笑顔と強さがあったから、私は逃げずに今日までここにいられたんです。先輩は、一人で背負いすぎです」
「でも・・私・・」
「これからは、私たちが先輩を支えます」
あゆみは、力強く、はっきりと言った。
「先輩がしんどい時は、私が病棟を回します。先輩が泣きたい時は一緒に泣きます。緩和ケアはチーム医療だって、先輩が教えてくれたじゃないですか。完璧でなくていいんです。弱いところも全部見せて、お互い助け合うのが、私たちのチームの本当の強さなんですから」
陽子は、あゆみの腕の中で堰を切ったように泣き続けた。
溜まり続けていたプレッシャーや不安が、あゆみの言葉によって洗い流されていった。
窓の外は、夜が明ける前の真っ暗な中庭で北風が吹き抜けていた。
落ち葉がカサカサと優しくささやき合う音が聞こえる。
まるで、傷つきながらも互いに支え合う者たちへ向けた温かい拍手のようだ。
あゆみは陽子の背中をさすりながら、自分の中に小さな落ち着きが生まれているのを感じていた。
もう、死を前にして怯え、立ちすくむだけの新人看護師ではない。
誰かの痛みに寄り添いながら、この場所で患者さんと向き合っていく。
あゆみはそんな思いを胸に、静かに朝を迎えようとしていた。




