第19話 白い息とクリスマス
十二月も中旬を過ぎると、病棟の窓ガラスは厳しい冷気で白く曇るようになった。
面会に訪れる家族がナースステーションの前を通るたび、分厚いコートから、冬の冷気の匂いが漂ってくる。
暖房で一定の温度に保たれ、微かに消毒液の香りが漂う病棟の中に、外の季節が持ち込まれる瞬間だった。
あゆみは、ナースステーションのカウンターで電子カルテの画面をスクロールさせていた。
「神崎さん、310室の大輝さん、昨夜から痛みが強くなっています。ベースのお薬、少し調整したほうがよさそうです」
隣で記録を打っていた先輩の神崎玲奈が、画面から目を離さず頷いた。
「そうね。レスキュー(頓用薬)の使用回数も増えてるわ。午後のカンファで佐藤先生にベースアップの提案をしてちょうだい。あなたなら、根拠も含めてしっかり言えるでしょ」
「はい、準備しておきます」
あゆみには、春先の頃のような怯えや迷いはもうなかった。
過呼吸で倒れた藤井先輩を支えたあの夜から、あゆみは別人のようにたくましく成長していた。
患者の死に直面する恐怖から逃げることもない。
神崎は、痛みを背負う覚悟を決めたあゆみを、今では対等なプロとして、そして最高のバディとして認めている。
穏やかな病棟の空気を引き裂くようにナースコールが鳴った。
『310号室、大輝様。310号室・・』
「行くね!」
あゆみは即座に立ち上がり、小走りで廊下を駆け抜けた。
310号室のベッドの上で、坂本大輝(二十八歳)が体をくの字に折り曲げ、シーツを固く握りしめてうめき声を上げていた。
彼は進行性の肉腫で、すでに肝臓や腹膜に多数の転移がある。
あゆみと同世代の若い患者だ。
付き添っていた婚約者の遥(二十七歳)が、涙目でベッドサイドに立ち尽くしていた。
「急に・・お腹がすごく痛いって・・!」
ここからは、一分一秒の遅れが耐え難い苦痛に直結する。
あゆみの表情が一瞬に「プロの医療者」へと切り替わった。
「大輝さん、痛いね。今すぐ楽にするからね。痛みの強さ、一番痛い時を10だとすると、今はいくつ?」
「・・っ、8・・いや、9・・っ!」
NRS(Numerical Rating Scale:数値評価スケール)9/10の強烈な突出痛だ。
大輝の額には脂汗が浮かび、呼吸が浅く速くなっている。
あゆみは素早くパルスオキシメーターのプローブを大輝の指先に装着し、血圧計のマンシェットを上腕に巻いた。
「SpO2、92%。痛みによる頻呼吸で酸素が低下。血圧140の90、心拍数120回の著明な頻脈。交感神経系の過緊張によるバイタル変動です」
駆けつけた神崎に、あゆみはバイタルサインを矢継ぎ早に正確に報告する。
「すぐにレスキューのフラッシュをやって。フェンタニルの静注用PCA(患者自己調節鎮痛)ポンプのボタン、押すわよ」
神崎が大輝の胸元に繋がっているPCAポンプのフラッシュボタンを押した。
設定されたレスキュー量のフェンタニルクエン酸塩(医療用麻薬)を急速静注する。
「効きが悪いようなら、即効性のオキシコドン塩酸塩水和物(オキノーム散)の追加指示を佐藤先生にもらって!」
「分かりました!」
あゆみはすぐさまPHSを取り出し、当直医に連絡を入れた。
五分後。
静脈内に直接投与されたフェンタニルが効き始めた。
大輝の強張っていた全身の筋肉が嘘のようにスッと弛緩した。
SpO2の数値がゆっくりと97%まで回復した。
頻脈も80回台へと落ち着いていく。
「・・はぁっ」
大輝が深く息を吐き出し、ベッドに背中を預けた。
「痛いの、治まった?」
遥が震える手で大輝の汗を拭う。
大輝は小さく頷き、疲れ切ったように目を閉じた。
あゆみは輸液ルートの刺入部に発赤や漏れがないことを素早く確認した。
PCAポンプのロック画面を解除して投与履歴をチェックした。
「ベースラインのフェンタニルが時間あたり1.0mg。これだけ突出痛が頻発しているなら、ベースを1.5mgへアップし、レスキューのドーズも0.5mgに変更した方がいいですね。肝機能の低下で代謝が落ちてるので、過鎮静には注意が必要ですが・・」
「そうね。持続的な痛みのコントロールが最優先。佐藤先生に指示変更を確定してもらいましょう」
神崎とあゆみの連携には、一切の無駄がなかった。
苦痛を取り除き、残された時間を「その人らしく」生きるための最大の盾。
それが医療用麻薬によるペインコントロールだった。
その日の夕方。
痛みが落ち着き、大輝はベッドの上でぼんやりと窓の外の冬空を見つめていた。
遥は着替えを取りに自宅へ戻っている。
点滴のチェックに入ったあゆみに、大輝がぽつりとこぼした。
「・・間に合わなかったな」
「何が?」
あゆみは点滴の滴下速度を確認しながら日常のトーンで短く返した。
「結婚式。来年の春、挙げる予定だったんだ・・」
大輝は、痩せ細った自分の手をじっと見つめた。
「ウエディングドレス、着せてやりたかった。指輪も、買ったのに・・ちゃんと渡せてない。こんな体じゃ、もう、どこにも行けないし・・」
大輝の声には深い絶望と諦めが滲んでいた。
若い二人が未来を突然奪われた残酷な現実。
あゆみは胸の奥がギリッと締め付けられるのを感じた。
大輝の体力が限界に近づいていることは、あゆみには痛いほど分かっていた。
肝機能障害による黄疸が肌に現れ始めている。
食事もほとんど摂れていない。
残された時間は、長く見積もってもあと数日。
来年の春の桜を見ることは叶わないだろう。
でも、だからといって、諦めていいはずがない。
「病室で、やらない?」
あゆみの言葉に、大輝がハッと顔を上げた。
「え・・」
「チャペル、作ろうよ。ここで。ドレスは無理かもしれないけど、指輪を渡して、ちゃんと気持ちを伝える場所なら、私たちがいくらでも作るよ」
一瞬、大輝のくぼんだ目にかつての若々しい光が宿った。
「・・できるの? こんな、点滴だらけで・・」
「できるよ。任せて」
あゆみはナースステーションに戻ると、神崎と佐藤医師に言った。
「310室の大輝さん。明日、デイルームで結婚式をやります。ご本人の希望です。やらせてください」
神崎は電子カルテから目を離し、あゆみの真剣な目を見つめた。
「大輝くんの体力、持ってあと二日か三日よ。離床(ベッドから起き上がること)すれば、呼吸状態も血圧も一気に不安定になるわ。急変のリスクは極めて高いわよ」
「分かってます。私がずっと横でバイタル見ます。酸素ボンベも、救急カートも準備します。もし急変しても、絶対に苦しませません。・・でも、今やらないと、大輝さんは一生後悔したまま旅立つことになります」
かつて、安全を最優先に患者の思いから逃げていたあゆみの姿は、もうそこにはなかった。
神崎はふっと微笑んで立ち上がった。
「分かった。佐藤先生、一時的なステロイドの大量投与で、明日の夕方だけ大輝くんの体力を底上げできます? おまけの元気を作る魔法」
佐藤医師が静かに頷いた。
「やりましょう。リン酸エステル系ステロイドを使います。ただし、効果が切れた後の反動は大きい。まさに、命を前借りするような時間になります」
「ええ。最高の時間にするわよ」
神崎の号令で、病棟のスタッフ全員が即座に動き出した。
翌日の夕方。
病棟のデイルームは、完全に別の空間へと姿を変えていた。
無機質なテーブルは片付けられ、壁には真っ白なシーツがドレープ状に飾られている。
部屋の隅にはクリスマスツリーの優しいイルミネーションが点滅している。
テーブルの上にはたくさんのLEDキャンドルがオレンジ色の温かい光を揺らしている。
それはまさに、手作りの、温かい「即席のチャペル」だった。
何も知らされずに病棟へ呼ばれた遥が、デイルームの入り口で息を呑んで立ち尽くした。
陽子が、スタッフ手作りの白いレースのベールを、ふんわりと遥の髪に乗せた。
「さあ、行って」
チャペルの奥。
そこに、リクライニング式の特殊な車椅子に座り、少し大きめの白いシャツを着た大輝が待っていた。
あゆみは、大輝の車椅子の後ろに隠れ、ぴったりと寄り添っていた。
輸液ポンプと酸素ボンベを車椅子の背面に目立たないように固定した。
SpO2モニターのセンサーを大輝の指先に見えないようにテープで巻きつけている。
急変に備え、あゆみの白衣のポケットに、レスキュー用のミダゾラムとフェンタニルを準備していた。
遥が、涙で顔をくしゃくしゃにして大輝の前に立った。
静かなデイルームに、クリスマスツリーの光が優しく瞬いている。
「・・ごめん。約束、守れなくて」
大輝が、酸素マスクを外した口元でかすれた声で言った。
「ううん」
遥は首を横に振り、大輝の痩せ細った膝にそっと両手を重ねた。
大輝は震える手で、ポケットから小さなベルベットの箱を取り出した。
静かに開けると、銀色の指輪が二つ光っていた。
「受け取って」
大輝の手が震え、指輪をうまくつかめない。
遥がそっとその手を包み込み、自分の薬指にゆっくりと指輪を通した。
「似合う・・」
大輝が、嬉しそうに笑った。
「ずっと、笑ってて・・。俺がいなくなっても。・・泣かないで」
「無理だよ・・」
遥はついに顔を覆い、大輝の膝に突っ伏して声を上げて泣いた。
大輝は、点滴のルートが繋がった細い手で、遥の頭を何度も優しく撫でた。
「ありがとう。・・俺、世界一幸せだ」
その言葉を聞いたとき、壁際で見守っていたスタッフたちからすすり泣く声が漏れた。
あゆみは、大輝の指先のモニター値を冷静に確認しながら、溢れ出る涙を止めることができなかった。
命の炎が消えゆく直前の、あまりにも残酷な、美しい瞬間だった。
医療で病気を治すことはできなくても、痛みをコントロールし、環境を整えることで、最期の瞬間に、人の心はこれほどまでに輝くことができる。
チャペルの窓の外では、白い雪が静かに舞い始めていた。
その夜。
病室に戻った大輝は、指輪をはめた遥の手を固く握りしめたまま、穏やかな寝顔で眠りについていた。
ナースステーションに戻ったあゆみに、神崎が温かいコーヒーの入った紙コップを差し出した。
「木下さん。見事なペインコントロールと、完璧な見守りだったわ」
「・・神崎さん」
「もう、怖くないでしょ?」
あゆみは窓の外の雪景色を見つめ、静かに、けれど力強く頷いた。
「はい。命の重さも、残される人の悲しみも、全部背負うと決めました。逃げずに寄り添った先に、あんなにきれいな笑顔があるんですね」
神崎は、優しく微笑んだ。
深夜の病棟に、コーヒーの香りと、冷たい冬の空気の匂いが混ざり合う。
生と死が交差するこの場所で、あゆみの心には、冷たい雪さえ溶かしてしまうような温もりと、静かな自信が満ちていた。




