第20話 老老介護の果てに
一月。
真冬の寒さが押し寄せ、病棟の空気はひときわ乾燥していた。
加湿器が微かな音を立てて白い蒸気を吐き出し続けている。
夜になると、廊下を歩くナースシューズの音がいつもより硬く響くように感じられる。
クリスマスの華やいだ空気が過ぎ去った後の緩和ケア病棟。
静かで、どこか重みのある、冬ごもりのような静けさがあたりを包んでいた。
308号室は、その静寂が色濃く漂う病室だった。
ベッドに横たわっているのは、前立腺がんの多発骨転移により入院している高橋重雄(八十二歳)。
そして、パイプ椅子に背中を丸めて座り、彼の手をずっと握り続けているのは、妻の芳子(八十歳)だった。
子どもたちは遠方に住んでおり、二人は古い一軒家で長年支え合って生きてきた。
重雄の病状が悪化し、強い痛みで動けなくなってからも、足腰の弱い芳子が一人で介護を続けていた。
いわゆる「老老介護」である。
限界を超えた疲労と睡眠不足で芳子が自宅で倒れかけたところを、ケアマネージャーが発見し、ようやくこの病棟への入院へと繋がった。
入院して一ヶ月。
重雄の病状は、確実に、そして緩やかに最終段階へと向かっていた。
午後十一時。
深夜の巡回で病室に入ったあゆみは、足元を照らす小さなフットライトの明かりだけを頼りに、ベッドサイドへ静かに歩み寄った。
芳子は椅子に座ったまま、重雄の手を握り、ゆっくりと舟を漕いでいる。
あゆみは芳子を起こさないよう、音を立てずにバイタルサインの測定を始めた。
重雄はすでに深い昏睡状態(JCS 300)にあり、呼びかけへの反応は完全に消失していた。
あゆみは、重雄の指先につけられたパルスオキシメーターのプローブを確認する。
末梢循環不全が進行しており、指先では脈波が拾えず、SpO2の数値がモニターに表示されなくなっていた。
あゆみはプローブを指先から外し、血流が比較的保たれやすい耳たぶに静かに付け替える。
ピ、ピ、と弱々しい電子音が鳴り、SpO2 88%、心拍数50回という数値が表示された。
(血圧は・・70の40。昨日よりさらに下がっている)
あゆみは、重雄の足元の布団を少しだけめくり、皮膚の状態を観察した。
膝から足首にかけて、紫色の大理石のような網の目状の模様が浮かび上がっている。
死期が数時間から数日以内に迫っていることを示す、皮膚の網状チアノーゼ。
胸元には、がん性疼痛と呼吸困難感を緩和するためのモルヒネ塩酸塩の持続皮下注ポンプが繋がっている。
流量は最小限に絞られ、重雄の表情から苦痛のサイン(眉間のしわや顔の歪み)は一切読み取れない。
ペインコントロールは完璧に保たれている。
ただ、命のぜんまいがゆっくりと、本当にゆっくりとほどけていくような、静かな時間が流れていた。
「・・看護師さん」
芳子が目を覚まし、かすれた声で呟いた。
「起こしてしまいましたか・・。ごめんなさい」
あゆみが小声で謝ると、芳子はゆっくりと首を横に振った。
「ううん。・・お父さん、今日は、静かだねえ」
「はい。お薬がしっかり効いていて、痛いところも苦しいところもありません。とても穏やかに眠っていらっしゃいますよ」
あゆみは、専門的な所見は控え、芳子を安心させるように、分かりやすく優しい言葉で伝えた。
芳子は、しわだらけの手で、重雄の冷たくなり始めた手の甲を優しくさすった。
「長かったねえ」
「ええ」
あゆみは、相槌を打った。
「家で診てた時は、痛い、痛いって毎晩泣いて。私も、腰が痛くて、眠れなくて・・一緒に死んでしまおうかって、何度も思った。でも、ここに来て、お父さん、本当に綺麗な顔になって・・」
芳子の目から、一筋の涙がこぼれ、重雄の手を濡らした。
「これで、お父さんも楽になる。私も、やっと楽にしてあげられる」
それは、半世紀以上をともに生き、長い介護の果てにようやくたどり着いた、静かな安堵と受容の言葉だった。
あゆみは何も言わず、芳子の丸まった小さな背中を、手のひらでゆっくりとさすり続けた。
午前三時。
ナースステーションのモニターのアラームが、低く鳴動した。
308号室の高橋さんの心拍数が40を切り、呼吸数が極端に低下している。
あゆみは、当直の神崎玲奈と無言で頷き合い、急いで病室へ向かった。
病室では、重雄の呼吸パターンが明らかに変化していた。
数十秒ほど無呼吸が続いた後、浅い呼吸が始まり、次第に深く大きな呼吸となって、また浅くなり、そして再び無呼吸に戻る。
脳の呼吸中枢の機能低下によって起こる、チェーン・ストークス呼吸だった。
「芳子さん。お父さんの呼吸が、少し変わってきました。いよいよ、お別れが近づいています」
神崎が、ベッドサイドの芳子に静かに、はっきりと告げた。
芳子は取り乱すことなく、静かに立ち上がり、重雄の顔のすぐ近くに顔を寄せた。
「お父さん」短く、掠れた声。
重雄の下顎が、カクン、カクンと不規則に上下に動き始めた。
下顎呼吸。
命の最後のエネルギーを使い、空気を肺に取り込もうとする反射的な動き。
あゆみは、モニターの電源を静かに落とした。
無機質な電子音や数値はこの別れの場にはもう必要ない。
ここから先は、家族と本人だけの時間だった。
「お父さん。ありがとう。お疲れ様でした・・」
芳子が、重雄の耳元でささやいた。
重雄の胸が、最後に一度、大きく持ち上がった。
ふうっ、と、かすかな息が唇からこぼれ、そのまま胸はゆっくりと沈み込んだ。
そして・・二度と動くことはなかった。
病室に静寂が訪れた。
機械の音も、苦しげな息遣いもない。
ただ、暖房の微かな風の音だけが、静かに流れている。
劇的なことは何もなかった。
おおげさな悲鳴もなく、枯れ葉が土に還るような、静かで自然な最期だった。
「・・終わったね・・」
芳子が、ポツリと呟いた。
あゆみは、目頭が熱くなるのを必死に堪えながら、深く一礼した。
数分後、連絡を受けた当直の佐藤医師が病室に入ってきた。
聴診器を重雄の胸に当て、心音と呼吸音が完全に消失していることを確認する。
続いて、小さなペンライトで重雄の左右の瞳孔を照らした。
「瞳孔散大、対光反射消失。・・午前三時十五分、ご臨終です」
佐藤医師が静かに告げ、深く頭を下げた。
あゆみと神崎もそれに倣った。
あゆみと神崎によるエンゼルケアが始まった。
まずは、重雄の胸に繋がっていた持続皮下注の針や、点滴のルートを全て抜去し、止血パッドを当てる。
体に残された医療器具の痕跡を一つひとつ丁寧に取り除き、彼を「患者」から「一人の人」へと戻していく大切な儀式。
続いて、温かいお湯で絞ったタオルで、重雄の体を清拭していく。
「芳子さん、お顔、一緒に拭きましょうか」
あゆみが温かいタオルを渡すと、芳子はそれを受け取り、重雄の額、頬、そして顎の髭を、愛おしそうにゆっくりと拭いた。
「お父さん、さっぱりしたねえ。男前になったよ・・」
芳子が微笑みながら言った。
その言葉通り、死後硬直が始まる前の重雄の顔は、苦痛から解放され、本当に穏やかで美しい仏様のような顔をしていた。
口腔ケアを行い、顎が下がらないように専用のバンドで固定、開いていた目を優しく閉じる。
皮膚の変色をカバーする、男性用の薄いファンデーションを塗り、リップクリームで唇に自然な潤いを持たせた。
エンゼルメイクによって、重雄はまるで、今にも目を覚まして「おはよう」と笑いかけてきそうなほど、温かみを取り戻していた。
着替えは、芳子が自宅から持参していた、重雄のお気に入りだったウールのふかふかなセーターを選んだ。
無機質な病衣から、温かい家庭の匂いのするセーターへ。
全ての処置を終え、シーツを整え終わると、窓の外はすでにうっすらと白み始めていた。
午前七時。
霊柩車が、病院の裏口にあたる霊安室の前に到着した。
凍てつくような冬の朝の空気の中、あゆみと神崎、そして数名のスタッフが横一列に並び、見送りのために立っていた。
ストレッチャーから柩へと移された重雄の顔は、朝の光の中で、より一層穏やかに見えた。
助手席に乗り込もうとした芳子が、ふと足を止め、あゆみたちの方を振り返った。
「・・本当にお世話になりました。おかげで、お父さん、ちっとも苦しまずに逝けました」
芳子は、深く頭を下げた。
「芳子さん、本当にお疲れ様でした。お父様、素敵なセーターを着て、とても嬉しそうでしたよ」
あゆみが静かに言うと、芳子はしわだらけの顔をほころばせ、小さく頷いた。
ドアが閉まり、霊柩車が静かに走り出す。
あゆみは、車が見えなくなるまで深くお辞儀をした。
冷たい冬の風が頬をかすめたが、あゆみの心の中は、不思議なほど澄み切っていた。
老老介護という過酷な現実。
そして、避けられない死。
一見すれば悲惨で救いのない出来事かもしれない。
けれど、その果てにあったのは、決して絶望だけではなかった。
痛みを和らげ、環境を整え、静かに寄り添う。
そうすることで、人はこんなにも穏やかに、尊厳を抱いたまま人生の幕を下ろしていける。
(私たちがしていることの意味を、あゆみは胸の奥で静かに噛みしめた。)
あゆみは顔を上げ、冬の青空を見上げた。
春にはまだ遠い一月の空の下、白くこぼれた息は、まっすぐ空へと昇って消えた。




