第21話 希望の形
二月に入り、厳しい寒さは底を打ったかのように感じられた。
しかし、病棟の窓辺にはまだ分厚い霜が降りていた。
朝の陽光が霜を溶かすまで、窓ガラスは白く濁り、外の景色を冷たく遮断している。
緩和ケア病棟の時間は、時の流れから切り離されたように、ゆっくりと進んでいる。
ナースステーションには、微かな消毒液の匂いと、コーヒーの香ばしい匂いが漂い、生と死が隣り合わせにある日常を静かに包み込んでいた。
305号室に入院している夏川結衣(二十四歳)は、あゆみと同い年の女性患者だ。
結衣は、美術大学を卒業してフリーのイラストレーターとして働き始めた矢先、卵巣がんが見つかった。
すでに腹膜への播種と多発性の肝転移があった。
夏に転院してきたときには、抗がん剤などの積極的な治療はすべて終了していた。
入院当初の結衣は、痛みのコントロールさえつけば、デイルームの窓際の席でいつもスケッチブックを開いていた。
彼女が描くのは、透明感のある水彩画だった。
中庭に咲く花々や、忙しく立ち働く看護師たちの似顔絵を、温かいタッチで描き出していた。
同い年のあゆみとはすぐに打ち解けた。
あゆみが業務の合間にデイルームへ行くと、結衣はいつも笑顔で隣の席を空けてくれた。
「あゆみちゃん、今日も忙しそうだったね。神崎さんに怒られてたでしょ?」
「もう、見られてたんだ。へこむなあ・・」
「大丈夫、あゆみちゃんは笑ってる顔が一番可愛いよ。落ち込んだら、私の絵でも見て気分変えて」
二人は病室で、仕事の愚痴や、好きなドラマの話、そしてくだらない恋バナで盛り上がった。
病室の無機質な白い壁には、結衣の描いた水彩画が何枚も飾られ、部屋を明るく彩っていた。
あゆみにとって、結衣は単なる患者ではなく、親友のような、かけがえのない存在になっていた。
秋の終わり頃から結衣の病状は急激に進行した。
まず、彼女の手からペンが滑り落ちるようになった。
肝機能の著しい低下に伴い、血液中で解毒しきれなくなったアンモニアが脳に回り、「肝性脳症」を発症した。
特徴的な『羽ばたき振戦』が現れ、両手が鳥の羽のように小刻みに震えた。
まっすぐに線を引くことすらできなくなった。
さらに、全身の骨や内臓を襲う強烈ながん性疼痛をコントロールするため、フェンタニルの持続静脈内投与量も大幅に引き上げられた。
その結果、結衣は一日中深い眠りに落ちていることが多くなった。
傾眠状態。
呼びかければ微かに目を開けるものの、言葉を発することはなく、ぼんやりと宙を見つめるだけだった。
JCSでは、II-20から30のレベルで、意思の疎通は事実上不可能な状態が、もう三週間近く続いていた。
黄疸で黄色く染まった皮膚はカサカサに乾燥していた。
スケッチブックはサイドテーブルの引き出しへしまわれたままだった。
結衣の母親が毎日泊まり込みで付き添った。
静かに、日に日に細くなっていく娘の寝顔を見守っていた。
その日の朝。
日勤で出勤したあゆみは、申し送り前の情報確認を終え、ラウンド(巡回)のために305号室のドアをそっと開けた。
「おはようございます、お母様。結衣ちゃん、お変わりないですか」
小さな声で挨拶をしながら部屋に入ったあゆみは、思わず目を見張った。
ベッドの背もたれが少しだけギャッチアップ(上半身を起こす操作)されており、そこに結衣が静かに座っていた。
「あゆみちゃん、おはよう」
結衣の口から、健康だった頃のままの、鈴を転がすような澄んだ声が響いた。
あゆみは手に持っていた電子カルテのタブレットを落としそうになった。
「結衣・・ちゃん? 目が、覚めたの?」
結衣の目は大きく見開かれ、焦点がしっかりとあゆみに合っていた。
皮膚の強い黄疸は消えてはいないが、苦痛で歪んでいた眉間のシワはなくなっていた。
憑き物が落ちたようにスッキリとした表情をしている。
横の簡易ベッドで寝ていた母親が跳ね起きた。
信じられないように結衣を見つめ、両手で顔を覆って泣き出した。
「結衣! 結衣! ああ、神様、ありがとうございます・・!」
母親は結衣の肩にすがりつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
結衣は、点滴の管が何本も繋がった細い腕をゆっくりと伸ばし、母親の背中を優しく撫でた。
あの羽ばたき振戦も、嘘のように消えている。
「お母さん、泣かないで。びっくりさせちゃってごめんね。・・ねえ、あゆみちゃん。私、すごくお腹空いちゃった。駅前にあるあのお店の、イチゴがたっぷり乗ったショートケーキ、食べたいな」
三週間、水の一滴さえ自力で飲み込めなかった結衣が、はっきりと食事がしたいと言った。
あゆみはすぐににバイタルサインを測った。
SpO2はルームエア(室内気)で98%。
血圧は110の70。
頻脈だった心拍数も70回台で完全に落ち着いている。
「すごい・・バイタル、完璧だわ。熱もない。痛みも、全然ない?」
「うん。嘘みたい、どこも痛くないの。体がすごく軽くて、空を飛べそうなくらい」
結衣はふんわりと笑った。
あゆみは、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
(奇跡だ。奇跡が起きたんだ!)
がんが完全に消えたわけではないことは分かっている。
でも、これほど回復したなら、一時退院して家に帰ることもできるかもしれない。
また、デイルームで二人で笑い合いながら絵を描くことができるかもしれない。
「ケーキね、先生に確認してくる! きっと食べられるよ!」
あゆみは弾かれたように病室を飛び出し、ナースステーションへ走った。
「佐藤先生! 神崎さん! 305室の夏川さん、意識が完全に清明です! バイタルも安定し、ショートケーキが食べたいと発語されました!」
あゆみは息を弾ませながら、ナースステーションの奥にいた当直明けの佐藤医師と、リーダー業務中の神崎に報告した。
「奇跡です! 肝性脳症が劇的に改善しています! これなら一時退院も・・」
あゆみとは対照的に、佐藤医師と神崎の表情は凍りついたように静かだった。
二人は顔を見合わせ、佐藤医師が小さくため息を吐いた。
「・・ついに来たか」
「え?」
あゆみの笑顔が引きつった。
「木下さん。落ち着いて聞きなさい」
神崎が立ち上がり、あゆみの肩に両手を置き、まっすぐにその目を見つめた。
「それは奇跡じゃないわ。・・ターミナル・ルシディティ(Terminal Lucidity)よ」
「ターミナル・・ルシディティ?」
「『中治り(なかなおり)現象』とも言うわね」
佐藤医師が、電子カルテの結衣の採血データ(異常な肝逸脱酵素と極端に低いアルブミン値)を画面に開きながら、静かに説明を始めた。
「末期がんや重度の認知症などで、脳の機能や全身状態が不可逆的に低下し、いよいよ死期が数日以内、あるいは数時間以内に迫った患者さんに、ごく稀に起こる現象だよ。昏睡状態だった患者が突然目を覚まし、痛みも消え、まるで病気が治ったかのように家族と普通に会話をしたり、食事を要求したりする」
「・・治ったんじゃ、ないんですか?」
あゆみの声がカタカタと震えた。
「回復じゃない。・・命の炎が燃え尽きる直前に、最後にパッと大きく燃え上がる、最後の灯火だ。理由は医学的にも完全には解明されていないが、脳内の神経伝達物質の最後の大規模な放出によるものだと言われている。・・この後、お母様を別室に呼んで、私から真実を伝えなければならない。本当に、辛い宣告になるが・・」
神崎が、あゆみの背中をそっとさすった。
「結衣ちゃんの体力と、今の臓器不全の進行具合からすれば、この覚醒状態が続くのは、長くて今日から明日の午前中くらいまでよ。その後、急激な血圧低下と意識レベルの低下が起きて・・そのまま、お別れになるかも・・」
あゆみは、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。
足元の床が抜け落ちていくような感覚だった。
希望の頂にいたはずなのに、その直後に突きつけられたのは絶対的な死の宣告だった。
その落差は、あまりにも残酷だった。
かつてのあゆみなら、この現実に耐えきれず、給湯室に駆け込んで泣き崩れていただろう。
「どうしてこんな残酷なことをするの」と運命を呪い、涙で顔を腫らして、結衣の病室に戻ることすらできなくなっていたかもしれない。
だが、あゆみは泣かなかった。
唇を強く結び、深く息を吸い込んだ。
命の重さも、残される者の悲しみも、全て背負うと決めたのだ。
結衣が命を燃やして闘っているのに、自分が逃げるわけにはいかない。
「分かりました」
あゆみの声は、低く落ち着いていた。
「今日という時間は、結衣ちゃんとお母様に、神様がくれた最後のおまけの時間なんですね」
「ええ、そうよ」
「なら、この時間を、最高の時間にします。佐藤先生、ショートケーキの許可をください。一口でもいい、誤嚥のリスクは私がしっかり管理します。絶対に苦しませません」
あゆみの真っ直ぐな瞳を見て、佐藤医師は迷うことなく深く頷いた。
「許可する。好きなものを・・食べさせてあげなさい」
病室に戻った。
結衣はサイドテーブルの上にスケッチブックを広げ、色鉛筆を握っていた。
三週間ぶりに見る、画家としての姿だった。
点滴のルートが邪魔にならないように、あゆみがテープの位置を貼り直した。
「結衣ちゃん、ケーキ、お昼に出せるって! 栄養士さんに、食べやすいように小さく切ってもらうわ」
「本当!? やったあ!」
結衣は無邪気に笑った。
傍らでは、「中治り」であることを知らない母親が、嬉しそうに目を細めている。
「ねえ、あゆみちゃん。そこ座って」
結衣が、スケッチブックの真っ白なページをポンポンと叩いた。
「私?」
「うん。ずっと寝てて、手が鈍っちゃったから、リハビリ。最後に、あゆみちゃんの似顔絵、描かせて」
最後・・。
その言葉が、あゆみの胸を鋭いナイフのようにえぐった。
結衣自身が、自分の体がどうなっているのか、本能的に悟っているのかもしれない。
だからこその「最後」という言葉なのかもしれない。
「・・うん。可愛く描いてね」
あゆみは、丸椅子を引き、結衣の正面に座った。
そして、心臓が張り裂けそうになるのを抑え、明るい笑顔を見せた。
カリカリ、カリカリ。
静かな病室に、色鉛筆が画用紙の上を滑る音が優しく響く。
結衣の視線が、あゆみの顔とスケッチブックを何度も往復する。
真剣な眼差しは、死を待つだけの病人ではなかった。
命を燃やしながら絵を描く、一人のイラストレーターの目だった。
(神様。どうか、どうかこの時間が一秒でも長く続きますように・・)
あゆみは、笑顔の裏側で必死に祈った。
窓の外では、冷たい北風が吹いている。
しかし、この病室の中だけは、まるで春が来たかのように暖かく、穏やかな光に満ちていた。
命の最後の灯火は、誰よりも強く、そして美しく、結衣という存在を照らし出していた。




