第三十六話『犬飼貉と山の狗』
「うぅ‥‥‥分かっていたとはいえ、私には刺激が強すぎる‥‥‥」
琥珀と瑠璃が住む街へと足を踏み入れる。
寺から徒歩と公共交通機関を利用してここまで辿り着いたが、既に彼女の精神力は限界に近かった。
「分霊は使えないし‥‥‥今回はあの子達の家族として来たんだから‥‥‥頑張らないと‥‥‥」
主に神として祀られる存在は、基本的に縄張りから出てしまえばその力の大半を失ってしまう。
彼女もその例に漏れず、いくつか制限を課された状態であった。
1つ目は力の制限―――彼女の縄張りは荒噛寺であり、自由に動ける最大範囲は周辺の山一帯であった。
貉や紺よりも遥かに力の弱い狗は、自身の縄張りから離れるにつれて力を失う。事実、街に降り立った彼女は神として最低限の力しか発揮できていない。その状態でも大抵のあやかしには負けないが、それ以上の事は出来ない。出来ることと言えば、せいぜい追い払うか逃げる程度である。だが彼女はその点については深刻には考えてはいない。自分一人であれば対処する術はいくらでもある。
2つ目は移動の制限―――神である狗は本来人間とは比べ物にならないくらい運動能力が高い。しかし縄張りから離れた彼女の身体能力は20代の一般女性となんら変わりが無かった。それでも準備をした上で、多少無理をするのであればある程度は動く事は出来る。極度の人見知りである彼女には人混みを避けて街を訪れる選択肢が無かった訳では無い。ただ今回は琥珀と瑠璃の家族としても筋を通したかった。
人間を見守る存在ではあるが、同時に2人の家族として付き合うことに決めた彼女の信念のひとつ。そのため人間らしい行動を心がけて頑張った次第である。
他にも特殊な移動方法はあった。琥珀と瑠璃に憑けてある白い子犬―――狗の力を分けた分霊である。寺から出る際に念の為もう一匹置いてきたが、それらを通じて移動が可能である。つまりその気になれば一瞬で琥珀や瑠璃に会うことが出来る。しかしその手段は泣く泣く断念していた。
何故なら分霊を使った移動は土足で相手の縄張りに踏み入れる行為と取られかねない。
琥珀や瑠璃を守るためであれば躊躇はしないが、今回は目的が違う。挨拶のために無用な波風は立てたく無かった。
3つ目は時間の制限―――荒噛寺は東北の山奥に存在する寺である。山奥といっても人の往来はあり、きちんと道も舗装されている。だが自然に近いということはそれだけ人以外のものが好む環境でもあった。そこに普通の人間である琥珀と瑠璃の両親が残されていると考えると、狗は内心気が気でない。寺には分霊も置いてあるとはいえ、あまり長いこと留守にはしたくはないというのが本音。安全策を採っていても、万が一の事を考えてしまう性分であった。
力、移動、時間の3つが狗の制限。懸念点はあるが、きちんと対処した上で琥珀と瑠璃の住む街に来ていた。
後は家族として2人の様子を見る事と、犬飼寺の狸神に挨拶を行う事で今回の遠出は完了する。
その気になれば時間にして1泊2日程度で済む。人でも神でもお手軽な旅行に過ぎない。しかし彼女にとっては簡単なことでは無かった。
寧ろ、今まさに最初の関門を前にしていたのである。
「えっと、何かお困りですか?」
「ふぴぇっ!?‥‥‥ご、ごごごめんなさいっ、だ、大丈夫ですぅ、大丈夫ですからっ‥‥‥ああっ、ありがとうございますぅぅ‥‥‥」
駅の出入り口。初めて見る光景に足が竦んでいた彼女を心配して、通りすがりの親切な女性が声を掛けてくれたが、狗はびっくりして飛び跳ねてしまった。女性は悪いことをしたかと申し訳無さそうにしていたので、直ぐに謝罪と礼を伝える。
動揺からしどろもどろになってしまったが、狗の気持ちは伝わったようで、女性は安堵しながら何処かへと立ち去っていった。
「‥‥‥はぁぁぁっ‥‥‥私、一応神なんだけどなぁ‥‥‥‥‥‥情けなくて泣きそうだよぉ‥‥‥」
荒噛狗は神として祀られるようになってから一度も山から出たことは無い。興味も、出る必要も全く無かったからだ。それどころか琥珀や瑠璃と遊ぶ以外は寺に籠もりきり。それも隠し部屋で、誰とも会わずに―――
「‥‥‥やっぱりお外怖い」
―――早い話、彼女は筋金入りの引きこもりであった。
◆ ◆ ◆
琥珀の部屋。我が物顔で入り浸っている瑠璃のスマートフォンに新着メッセージが入る。
色々と書いてあったが、要約すると『迎えに来て』である。メッセージの返信を打ち込みながら、洗い物をしている琥珀へと声を掛けた。
「‥‥‥あ、兄さん。狗ちゃんから連絡だよ。駅まで迎えに来てだってさ」
「良いよ、って伝えておいて貰えるかい?‥‥‥ここに来るのも初めてだし、人見知りの化身みたいな狗さんに無理はさせられないよ」
「そう言うかと思って送っといたよ」
兄の返事が分かりきっていた瑠璃は『兄さんと迎えに行くよ』と既にメッセージを送っていた。
当然、この後の言葉も予測済みである。
「瑠‥‥‥」
「行くに決まっているでしょ?」
「‥‥‥そうだね、行こうか」
琥珀の方も瑠璃が一緒に行くことは分かっている。伊達に20年も双子をやっていない。
洗い物を終えた琥珀は上着を羽織り、先に玄関で待つ瑠璃のもとへ向かう。
「ここから歩いて20分くらいだけど、どうする?」
「可能であれば途中でタクシーでも拾おうか。帰りはともかく、行きは早めに向かった方が良いかもしれないね」
「そうしましょう。狗ちゃん、多分動けなくなっていると思うし」
歩きながら迎えの算段をつける2人。狗の性格を知っているからこそ、いつまでも彼女を1人で待たせたくは無かった。
少し歩いたところで運良くタクシーを見つけることが出来たため、そのまま駅まで利用することに決めた。
◆ ◆ ◆
「‥‥‥うぅ、動けない‥‥‥」
駅から少し歩いた所にある長椅子に座り、琥珀と瑠璃を待っていた。最初は頑張ってアパートへ向かおうとしたが、長椅子まで歩いたところで断念した。その距離、僅か30m。
この場所では自分は数多くいる人間の1人にしか見えない筈―――誰も気にしていない。
そう考えていたが、その考えは半分だけ的中している。確かに忙しい人や他に目的がある人は一瞥する程度。だが時間に余裕があったり、目的の無い人にとっては狗の姿はあまりにも目立ち過ぎていた。
ほどよくふわふわした長い銀髪。印象に残る緋色の瞳に、きめ細やかな白い肌。シックなデザインの黒のワンピースに、雰囲気にぴったりな靴と鞄。そこに日除けの帽子と目元を隠すサングラスを掛けたミステリアスな西洋美人―――目立たない筈が無い。
「‥‥‥‥‥‥見てるよぉ‥‥‥」
手元のスマートフォンで瑠璃とのメッセージ画面をひたすら眺めている狗。見られたくは無いが、見られる理由についてもいくつか思い当たるものがあった。
「‥‥‥モデルさんが着ていたものだから変では無い筈‥‥‥ぅぅ‥‥‥じゃあ、私が変なのかなぁ‥‥‥?」
誰にも聞こえないくらいの呟き。視線だけを動かして自身の姿を見る。服も小物も全てオンラインストアで購入したもの。琥珀と瑠璃の身内として、恥ずかしく無い程度には身だしなみを整えてきたつもりであった。ネットで見たものよりも若干出過ぎている部分はあるが、概ね同じ雰囲気は作り出せてはいると思う。変では無いはずだと自分に言い聞かせるが、それでも心配にはなってしまう。
―――長い間、山から出ることもせず、積極的に他者と関わりを持たなかった狗はとても自己評価が低かった。
自身の姿が気になりそわそわしていると、周りから様々な声が聞こえてくる。
”あの銀髪の人って海外のモデルさん?‥‥‥近くで撮影でもしているかな“
”あの女に声でも掛けてみるか?近づきにくい感じが逆に良いかもしれない“
”いや、流石に無理だろ。絶対に彼氏か旦那がいるぞ、あれ“
”ねぇねぇ、あのおんなのひとってがいこくのひと?おにんぎょうさんみたい“
”そうかもしれないね、でも、忙しそうだからそっとしておこうね“
「‥‥‥ひぃぃ」
元は犬なので耳はとても良い。望む望まないにしろ、自分に対する言葉が耳に入ってしまう。
その殆どは好意的なものであったが、気が付いた瞬間に他者の声をシャットアウトするため、狗の心に届くことは無い。人目を引く見た目だが、中身はトラウマ持ちの重度の人見知り。仕方が無いのである。
「私は石‥‥‥路傍の石ころ‥‥‥蹴られて転がるだけの存在‥‥‥」
狗は他者から興味を持たれる事が非常に苦手である。
耳と尻尾の生えた石ころを頭に思い浮かべながら、多種多様なノイズをやり過ごす。
「‥‥‥ころころ、ころころ‥‥‥‥‥‥‥‥‥でも、あの子達の家族になれないのは嫌だなぁ‥‥‥」
心の殻に閉じこもり、ちょっとだけ落ち着きを取り戻した狗は自分を振り返る。
元々1人を好む性格であったが、それに拍車を掛けたきっかけがあった。
今回はその原因と真正面から向き合わなければならない―――
「‥‥‥‥‥‥あっ‥‥‥思い出しちゃった‥‥‥」
過去を思い出すだけで背筋に冷たいものが走る。
緊張とトラウマのコンビネーションを受けた狗は思わず身体が震えてしまった。
「ひぇぇ‥‥‥琥珀君、瑠璃ちゃん‥‥‥たすけてぇ‥‥‥」
本来見守る側の狗が、産まれた頃から知っている2人へ助けを求める。情けないと思いつつ、この現状を打破してくれる事を切に望んでいた。
「たーすーけーてぇー‥‥‥‥‥‥はっ、この声は‥‥‥!」
人化しているため顕現していない筈の犬耳がぴんと立った気がする。車の走る音に混じり、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
狗が座っていた椅子の近くに1台のタクシーが停まり、1年振りに顔を合わせる子達が車から降りてくる。琥珀は会釈し、瑠璃は手を振りながら駆け寄ってきた。狗も2人の元へ歩み寄り、お互いに顔を合わせながら元気な姿を見せる。
「狗ちゃん。久しぶり」
「どうも、ご無沙汰しておりました、狗さん」
「う、うん。久しぶりだね琥珀君、瑠璃ちゃん‥‥‥ごめんなさいね。ここまで迎えに来てもらっちゃって」
「良いの良いの、どうせ人目を気にしてぷるぷるしていたんでしょ、分かっているって」
「とりあえずこの場所から移動しましょうか。一応、タクシーは待たせてありますが‥‥‥」
「えっと‥‥‥出来たら2人だけの方が良いな‥‥‥歩きながら話もしたいし」
「了解。兄さん。タクシーの人に説明してきて頂戴」
「分かったよ」
「ありがとうね‥‥‥」
知らない人間の前では落ち着かない狗は、申し訳無さそうにタクシーの利用を遠慮する。それよりも2人と話しながら歩いていた方が気楽であった。
「じゃあ、歩きながら近況報告。後、兄さんのアパートに着いたらお茶でも飲みましょう。兄さんが全部準備してくれるから安心してね」
「瑠璃ちゃんは相変わらずだねぇ‥‥‥」
「俺の前だけにしてもらえると良いんですけど」
「失礼ね。私だってそこまで我儘じゃないわ。兄さんと狗ちゃんの前でしかこんな事しないわよ」
「‥‥‥信頼されているって事で良いのかな?」
「良いと思いますよ」
琥珀の言葉に対し、瑠璃はわざとらしくぷりぷりしながら反論する。その様子を見ていた2人は小さく笑いながら彼女から信頼されていることを実感していた。
「もう‥‥‥私の事ばかり話していないでさ、狗ちゃんの事も教えてよ。そっちの方が大事なのよ」
「んー‥‥‥とは言ってもねぇ‥‥‥最近始めた株で儲けた事とか、趣味の絵がオークションに出回っていたとか‥‥‥そのくらいよ?」
「何それめっちゃ聞きたい」
「興味深いですね‥‥‥」
「そ、そう?‥‥‥それじゃあ、面白いかどうかは分からないけど‥‥‥この間ね‥‥‥」
狗としては暇つぶしで始めた事がたまたまお金になったという程度であったが、2人は実に興味津々な様子を見せる“子どもみたいに話をせがむなぁ”と温かな気分になった狗は、期待に沿うことが出来るか心配しつつも、普段より饒舌な口ぶりでその時の事を語り始めていた。
◆ ◆ ◆
琥珀と瑠璃が住んでいるアパートに着いた後、琥珀の部屋でお茶を飲みながら一息つくことにしていた。
「とりあえず、2人が元気そうで安心したわ」
「病気も事故も無いから心配しないで頂戴」
「瑠璃の言う通りです‥‥‥それよりも、狗さんがわざわざここに来てまで相談したい事あると‥‥‥そちらの方が心配で‥‥‥」
「通話とかでは話せない事なんでしょ?何かあったの?」
「2人が心配しているような事ではないから大丈夫‥‥‥相談したいことはね、昔の知り合いに会いに行きたいんだけど、中々勇気が出なくて‥‥‥」
心配そうな表情を浮かべている2人に少しだけ驚いてしまう。とりあえず緊急性や事件性が無いことを伝え、相談は個人的な事であると明かす。
「昔の知り合いというと‥‥‥相手も神様ですか?」
「あ、今回は神様としての用事なんだ‥‥‥」
狗の言葉にそれぞれの反応を見せる。琥珀は居住まいを正して真剣な表情を浮かべ、瑠璃は眉尻を下げ、残念そうな表情を浮かべていた。
狗は暗くなった雰囲気を変えようと、素直な気持ちを語る。
「そ、そうだけど‥‥‥でも、2人に会いに来たかった事も本当よ?」
「あらそう?なら良いわ、狗ちゃん嘘つかないし。安心したわ」
「‥‥‥今更なんですが、俺たちって氏神様に馴れ馴れしい感じがしますよね‥‥‥俺もこっちの方が慣れていますが‥‥‥これで良いんでしょうか‥‥‥」
狗の言葉にぱっと表情を明るくする瑠璃。琥珀は彼女の裏表の無い笑顔を見ながら、自分達の行動を振り返る。
狗はすぐさま反応し、彼の疑問に対してはっきりとした答えを告げていた。
「ううん、それは良いの。私には神様って呼ばれる程の威厳も何も無いし‥‥‥そもそも家族として2人の傍にいるって決めたのは私だから‥‥‥寧ろ、これからよそよそしくされる方が悲しいよ‥‥‥」
「私も今更って感じねぇ‥‥‥でも、きちんと敬ってはいるからね。兄さんも同じでしょ?」
「狗さんにはどちらの立場からでもお世話になっていますから‥‥‥尊敬することは当然ですよ」
「‥‥‥本当に良い子達なんだよねぇ‥‥‥」
神様として敬い、家族として接してくれる2人には感謝しか無い。神にとっては人が向ける感情は全て等価値であるが、狗にはそうは思えなかった。
変わり者である自覚はあるが、少なくとも荒噛家の人間に対しては他とは比べ物にならない程、重い感情を向けていた。
「この話はここまでに‥‥‥それで、その神様とはどんな関係が?」
「‥‥‥‥‥‥えっと、そのぉ‥‥‥何と言いますか‥‥‥‥‥‥昔、お世話になった‥‥‥逆らえない存在‥‥‥みたいな‥‥‥?」
「お世話になった人に、逆らえない‥‥‥?」
狗の反応に訝しむ。昔の知り合いに会いに行くと言っていたが、明らかに怯えている雰囲気が感じられた。そのまま捨て置くことも出来ず、思わずその理由を尋ねてしまう。
「‥‥‥狗さん、もしかして怖がっていますか?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥うん」
「ちなみにその神様がいらっしゃる場所の名前は‥‥‥」
「‥‥‥犬飼寺、って言うんだけど‥‥‥知ってる‥‥‥よね?」
「犬飼寺‥‥‥‥‥‥なるほど、だから狗さんが‥‥‥」
「いぬかい?‥‥‥兄さん、知ってるの?」
狗の口から犬飼寺という何処かで聞いた事のある単語を聞き、数日前の記憶を思い出す。同じ境遇の同級生と知り合ってから直ぐに狗から連絡があり、直接会って話しがしたいと申し出があった。それまで寺の外には出たことが無い彼女にしてみればまずありえないこと―――きっかけは少し考えるだけでも分かることであった。
琥珀は事情を知らない瑠璃にも伝わるように、重要な部分を端的に答える。
「大学の同級生。うちと同じように神様を祀るお寺に住んでいるんだよ」
”あー、なるほど“と納得する瑠璃。実に分かりやすい説明であったようだ。瑠璃から視線を移し、狗へと向き直る。
「‥‥‥狗さんは苦手としているようですが、少なくとも悪い神様では無いと思いますよ」
「う、うん‥‥‥それは知ってる。分霊を通して見たからね‥‥‥‥‥‥私を見る目がちょっと怖かったけど、多分良い子‥‥‥そして、その子が信奉する神様もね‥‥‥」
琥珀と同様に、狗も犬飼寺に対して悪い印象は持ってはいない。認識のずれが無いことを知って安堵している最中、瑠璃も狗の考えをはっきりさせるために、犬飼寺の神様との因縁について詳しく尋ねていた。
「えっと、狗ちゃんにとって犬飼寺の神様は怖いけど、悪い神様では無いんだよね?‥‥‥‥‥‥その神様とは過去に何かあったの?」
「‥‥‥うん、瑠璃ちゃんの言う通りだよ‥‥‥ただ、数百年も昔のことだし、会ったのも一度きりだったから‥‥‥」
「差し支えが無ければ、詳しく聞かせて頂けませんか?」
「あ、聞きたい。神様としての狗ちゃんのお話!」
瑠璃の言葉を受けて過去の話に触れる狗。
手がかりになるかもしれないと考えた琥珀とは対象的に、瑠璃は目を輝かせながら狗の話をせがむ。神様としての狗について、知りたい気持ちは抑えられないようであった。
「え?‥‥‥うぅ‥‥‥‥‥‥ま、まあ、隠しておくような事でも無いし‥‥‥うん、良いよ‥‥‥‥‥‥でも、あまり面白く無いとは思うよ?」
狗の方は過去の話に触れられても嫌な素振りは見せないが、2人に話をしても良いのかと少しだけ逡巡する。だがその時間もあまり長くはない。
今更断る事がためらわれるほど、期待に満ちた表情で見つめられていたからだ。
「狗さんが怖がる理由をはっきりさせるためなので面白さは特に求めませんが‥‥‥‥‥‥まあ、狗さんの過去に興味が無いと言ったら嘘になりますね‥‥‥」
「私は半分興味本位だけどね?‥‥‥ただし、狗ちゃんが心配なのは本当よ?」
「‥‥‥ふふっ‥‥‥そ、それなら早速お話しようかな‥‥‥‥‥‥あれは、私が神様になる前の話なんだけどね‥‥‥」
自分に正直な2人があまりにも可愛らしく、思わず笑みを浮かべてしまう狗。そのおかげで肩の力が抜けた事も事実。
内容が内容なので気恥ずかしさもあったが、かつての自分を知ってもらう事も悪くないかもと思いつつ、子どもに昔話を聞かせるような気持ちで過去の記憶を掘り起こすのであった。
◆ ◆ ◆
彼女は元々、野良犬であった。
山で産まれ、山で育ち、山で生を終える―――実に平凡な一生。
ただ他の犬とは違い、死後に非凡な才覚を発揮する。
”‥‥‥なんだ、これ?“
耐え難い重さと苦しみからようやく開放されたと思いきや、再び光を認識する。
同時に今迄とは全く違う感覚に戸惑いを覚えていた。
”なんだ?‥‥‥これ?“
頭に思い浮かぶ疑問に疑問を覚える。
感情や音だけで自分を表していた筈が、犬は初めて人のような思考と言葉を手に入れていた。
”‥‥‥わからないが、うごけるのか“
自分でも何を考えているのか分からないが、興味の赴くまま身体の動きを試してみる。最初は感覚が掴めず、身体を起こすことさえ困難であったが、何度かもがいているとようやく動きのコツを掴み始める。
”‥‥‥ない?‥‥‥それに、じゃまだな、これ“
身体を温めていたものが無くなっていることに気が付く。だが不思議と寒さや暑さは感じることは無かった。無くなったものの代わりに余計な毛や肉が付いていたが、取ることも出来ないためそのままにする。慣れれば全く気にならなかった。
”うごける‥‥‥まえよりもはやい“
覚えているものよりも鋭敏で俊敏な感覚に驚く。
前は数十歩必要であった距離も一歩で到達する。それどころか一息で景色が変わる。匂いも音も視界も全てが身近。寧ろ意識して絞らないと嫌になるくらいであった。
”‥‥‥ああ、なるほど‥‥‥“
犬は眼下に広がる広大な森を見下ろしながら自分に与えられた真実を知る。
”これが、かみというものか“
獣の身では決して知り得なかった存在に成り上がったと自覚する―――そこから先は早かった。
山にいる同じものを喰らい、糧とした。
獣の頃から慣れた行為―――弱肉強食の掟。
たまたま強靭な顎と疲れを知らない四肢を持っていたからこそ、力を付けるための狩りは順調に進む。喰らう度に蓄積されるものが、いつしか犬にさらなる力とより複雑な思考を与えるまでになっていた。
”とりあえず、このくらいで良いか“
目につくものを血肉とした後、自分の力の程を認識する。自分と同じくらいの力を持つものは山のようにいたが、その気になれば餌に出来ると確信していた。事実、それだけの素質はあった。
”神とはいえ、まだ完全ではないか“
犬は獣らしい思考とともに、客観的に物事を見る冷静な判断力も持ち合わせていた。急拵えの力に溺れる事無く、淡々と事実を把握する。力が付いたとはいえ、今は芋虫が栄養を付けている段階と変わりが無い‥‥‥調子に乗ると、蝶に成る前に喰われてしまう。
”力の他に、時間がいるのか“
犬は自分の分を弁え、堅実に力を蓄えていった。
結果、100年後には大抵の神やあやかしにも負けない実力を得る事となる。
そして、神として自分には不可能は無いかもしれないという考えに至ったある日、犬の全てを変える出来事が起きた。
”‥‥‥‥‥‥またか“
その日の糧を喰らい、瞑想のように静かに佇んでいた犬は、何も知らずに山に入ってきた異物に気が付く。時折似たような事があったが、大抵は自分のもとに辿り着く前にその気配を消す。犬にとっては当たり前過ぎて知らなかったが、自身の産まれた山は力あるあやかしや悪霊の巣窟であった。
最初は新しい異物も、いつもと同じ運命を辿ると気にも留めなかったが、異物はゆっくりと少しずつ一番奥へと進んでいた。
”‥‥‥今回は骨があるようだ“
力あるものが入り込んできたという認識であったが、中頃まで進んだ辺りで異変に気が付く。
異物の進みはゆっくりであるが、全く衰えない。
それどころか、その異物の周囲の気配がごっそりと消えていた。
”‥‥‥ほぉ“
ようやく犬は気が付いた。
異物は只者では無い。しかし真の恐ろしさをその時はまだ理解していなかった。
”‥‥‥仕方がない、行くか“
自分の縄張りに土足で入られた上、勝手に荒らされるというのも気分は良くない。
―――力は十分。たまには手応えのあるものと立ち会いがしたくなった。
”食後の運動くらいは楽しめると良いが“
今もなお奥を目指す異物に向かって走り出す。
数分も経たずに接敵し、獲物を狩る行為へと移る―――それはこの時の犬にとっては当然のことであった。
”あれは、私と同じものか‥‥‥“
犬は一目見て自分と同じものと判断するが、それが早計であったと直ぐに気が付く。
”‥‥‥‥‥‥っ!!?“
接敵する直前、神である自分の消滅を予見する。
獣の時の本能が働いたのか、寸でのところで反対側へと身を翻していた。神となってから初めての後退―――それは正しい判断であった。
―――――轟音と衝撃
数歩先‥‥‥犬がいた筈の場所がまるごと弾け飛ぶ。当然、そこにあった岩や土木‥‥‥あやかしさえも。
安全圏にまで退避した犬が思わず目と耳を塞いでしまう程の衝撃。それを作り出したものが土煙の中から悠々と歩いてくる。
「‥‥‥‥‥‥暇潰しにもならん」
腰に手を当てながら深い溜息と嘆きの声を挙げるもの―――狸の神だ。
腰まで届く長い黒髪に、丸みを帯びた獣耳と尻尾。永い年月をともにしたと思われる茶色の地味な着流しに、激しい動きを想定していない古い下駄。犬よりも大きな肉の塊を惜しげも無く布の間から曝け出し、我が物顔で森を歩く姿はまさに圧巻の一言。
だがそれすらも霞む程、濃密な血の匂いが犬に対して底知れぬ恐怖を与えていた。
”愚かだった‥‥‥“
隙だらけにしか見えないが、その実、隙が全く見当たらない。不意打ちをしたとて、姿を見ずとも拳で粉砕される事が容易に想像がついた。
神として不可能な事は無いと思い上がっていた犬は、初めて理解不能なものを目の当たりにし、自分が井の中の蛙であったと自覚する。
”同じなんてものじゃない‥‥‥私とは次元が違う‥‥‥“
戦う前に戦意を失ってしまう。
犬は類稀なる判断力を持っていたがために、絶対に歯向かってはならない存在がいると思い知ることになった。
”早く逃げないと‥‥‥っ?“
背中を向けて全力で逃げようとした瞬間、足元に何かが当たる感触があった‥‥‥元は力あるあやかしであったのだろう。消え去る前の肉片が犬の足元に転がっていた。
”‥‥‥これは“
そこからは一気に視野が広がる。
岩や地面に張り付く肉片。良く分からない液体や不快な匂い。かつてあやかしであったものの塵など‥‥‥犬が立つ周囲だけでも数え切れ無いほどのあやかしの残滓が感じられた。それも糧にもせず、ただ邪魔だからと消し去った事がありありと分かる。
―――口惜しい
―――理不尽だ
―――消える
”‥‥‥っ!“
周囲に意識を向けた途端、怨嗟の声が一気に犬の頭へと流れ込む。ひとつひとつの声など理解は出来ない。ただ一様に存在が消えることの理不尽さを叫んでいた。
”さっさと消えろっ、耳障りだ“
糧とされる訳でも無く、ただただ目障りだからと存在を消される理不尽―――例えるなら遊びで潰される蟻や災害によって命を奪われた人々の無念に近いもの。
許容不可能な怨念の濁流に飲み込まれそうになるが、一方で当事者たる狸神はどこ吹く風。
彼女にも聞こえている筈だが、一切気にもとめない―――もはや同じものとすら考えていないのだ。
”そこに至るまでに、どれほどの死を積み上げてきたというのだ‥‥‥“
糧にする必要が無いほどの余裕―――それがはっきりと分かってしまう。
何故なら彼女が山に入ってから駆除したあやかしの魂を加えても、狸神の爪の先にも満たない。その程度であれば狸神自身が自前で練り上げることの出来る量でしか無かった。
「‥‥‥北には腕の立つものがいると聞いたが、拍子抜けだ‥‥‥」
欠伸をしながら背筋を伸ばす狸神。
その一瞬を逃さず犬は動く。
その場から一刻も早く逃げるために。
”今ならっ‥‥‥!“
「‥‥‥‥‥‥ほぉ」
狸神は瞬きの間に消え去ることの出来る犬を一瞥した。黒とも茶色とも言えない複雑な色の瞳が犬の魂を鷲掴みにする。狸神は意識しなくても、その視線だけで魂を凍らせる事が出来る力を持っていた―――力の弱いものは、実際に心臓が止まる程。
力の強い犬は心臓が止まることとは無縁であるが、誰よりも疾いと思っていた身体が、蜘蛛の巣に捕らわれたと錯覚するほどの束縛を受ける。
”‥‥‥っ!?“
「少しは骨のあるやつが‥‥‥‥‥‥んん?」
見えない巨人の手で握りつぶされたかのように地面に倒れ込む犬と、その場から一歩も動かずに値踏みをする狸神。
全身を無遠慮に視姦されるが、抵抗すら出来ない。自分がしてきた事が、今まさに自分の身に振りかかろうとしている。
”‥‥‥は、ははっ‥‥‥これで終わり、か“
走り去る勢いのまま地面を這いつくばっていた犬。惨めで無様な姿だが、恥と思うよりも先に自身の消滅を悟っていた。
思わず笑いが出てしまうが、嘲りや怒りからでは無く、根源的な恐怖に対する最期の防御反応であった。
恐らく輪廻の輪に入ることが出来ないほど跡形もなく消される―――そう、思っていた。
「‥‥‥‥‥‥只の狗か‥‥‥」
狸神は目の前で泣きながら這いつくばる犬の存在に気が付く。最初は力あるものと思ったが、実際に見てみると相手にすることが馬鹿らしくなるほどか弱い存在。
「‥‥‥‥‥‥はぁ」
先程よりも小さな溜息を付きながら更に奥へと目指す。犬に対しては既に興味を失っていた。
「まったく‥‥‥儂を本気にさせてくれる者は何処にいるのやら‥‥‥」
摩耗しきった言葉を最後に、森の奥へと姿を消す狸神。
見逃されたという屈辱は感じない。
何故なら犬の魂には決して消えない畏怖が刻みこまれていたため、只々呆然とする他無かった。
◆ ◆ ◆
「つまり狗ちゃんは負け犬になっちゃった訳ね‥‥‥」
「くぅん‥‥‥」
「瑠璃」
狗の昔話を聞いた瑠璃の第一声。
狗神様は衝撃を受けて背中から倒れてしまった。
一撃必殺の言葉を口にした妹に対し、少し語気を強めて諌めに入る。流石に負け犬と言う言葉は可哀想であった。
琥珀は倒れてぷるぷるしている狗を介抱する。彼女は静かに涙を流しながら、震える声で瑠璃の言葉を肯定していた。
「‥‥‥い、良いの‥‥‥瑠璃ちゃんの言う通り、私は負け犬だからね‥‥‥上下関係を叩き込まれた犬は‥‥‥上にはもう逆らえないのよ‥‥‥」
「あぁ‥‥‥狗さん。気を確かに‥‥‥」
「あ、ごめんね。意外にも血生臭い昔話だったからびっくりしちゃって‥‥‥」
瑠璃が申し訳無さそうに謝りながら狗の身体を起こし、彼女の身体をぎゅっと抱きしめる。狗としてはちょっとだけ痛かったが、彼女が本当に謝意を伝えていることははっきりと分かっていた。
「私の方こそ、驚かせちゃってごめんなさい‥‥‥最初に前置きしておくべきだったね」
「ううん、良いの。私から聞きたいってお願いしたんだから‥‥‥それにしても、狗ちゃんにも強気な時代があったんだねえ‥‥‥」
「‥‥‥井の中の蛙だったけどね‥‥‥直ぐに心が折れちゃったし‥‥‥」
「それが今でも尾を引いていると‥‥‥」
「恥ずかしながら‥‥‥トラウマになっております‥‥‥」
「あらまあ‥‥‥」
昔と今の違いに驚く瑠璃に対し、事実である事を示した上で自嘲する狗。悟りきったように見える表情の中には、未だに消し去ることの出来ない恐怖の色が浮かんでいた。
「そのトラウマを植え付けた神様のもとへ行こうと考えているのですね?」
「‥‥‥‥‥‥うん」
「‥‥‥そこまでして狗さんが挨拶に行かないといけないのでしょうか?」
「‥‥‥‥‥‥昔の狸神がどう思っていたのかは分からないけど‥‥‥あの時に見逃してもらえたからこそ、今があるからね‥‥‥」
”無理に行かなくても良いのではないか“という意味が込められた問いに対し、琥珀の心配を理解した上で態度を変えない狗。過去のトラウマに対して彼女は精一杯の強がりを見せながら、今の生活が幸せだと断言する。
「‥‥‥‥‥‥」
「狗ちゃん‥‥‥」
狗が会わないという選択肢を取ることが出来るのであれば平和的で良いが、彼女の様子からその選択肢は無い事を察する。狗は気が弱い一方、一度やると決めたら最後までやり通す性格であることを2人は誰よりも良く知っていた。
「‥‥‥そうですか‥‥‥では、俺が同行しましょう」
「当然、私も行くわよ?」
「え、えぇっと、それは‥‥‥」
「狗さんが怖がっているのに、黙ってはいられませんから」
「知り合いの1人や2人がいたほうが安心でしょ?」
狗は恐怖を押し殺してでも狸神に会いに行こうとしている。
そうなると残された手段は唯ひとつ―――彼女を近くで支えるために同行する。琥珀も瑠璃もその考えを変えるつもりは無かった。
「‥‥‥‥‥‥じゃ、じゃあ‥‥‥お願いしても良いかな?」
「勿論」
「‥‥‥ありがとうね、琥珀君、瑠璃ちゃん‥‥‥」
余計な心配を掛けさせてしまったという小さな罪悪感を感じながらも、純粋な気持ちで身を案じてくれる2人の厚意に甘えることにした。
瑠璃の言う通り、1人で行くよりも2人が傍に居てくれる方が心強い。張り詰めていた緊張の糸が少しずつ解れていくと同時に、忘れ去られていた欲求が、充足を求めてお腹の中から抗議の声をあげる。
「あっ‥‥‥」
「お腹減ったの?」
「‥‥‥‥‥‥」
「ぷぷっ‥‥‥」
頬を赤らめながら申し訳無さそうに首を縦に振る狗。雰囲気に似合わず意外と健啖家である事を知っていた琥珀と瑠璃は目を見合わせながら小さく笑い合う。
「も、もう‥‥‥あんまり笑わないでよぉ‥‥‥」
「ごめんごめん、あんまりにも正直だから‥‥‥‥‥‥ぷふっ‥‥‥こうちゃんかわいすぎる‥‥‥」
「先方への連絡は後にして‥‥‥とりあえずお昼ご飯にしましょうか。腹が減っては戦も出来ませんからね」
狗は照れ隠しのために両手を挙げて威嚇するが、その姿がレッサーパンダにしか見えず、笑いを抑えきれない瑠璃。
1年ぶりのじゃれ合いを見ることが出来た琥珀は、穏やかな笑みを浮かべながら、3人分のオムライス作りに取り掛かるのであった。




