第三十二話『犬飼貉の一日』
犬飼貉の朝は少し早い。
起床時間は朝の6時頃。お勤めと朝食の準備の合間に雲雀が起こしに来るため、半強制的に叩き起こされる。この習慣はここ数十年間の間、毎日繰り返されてきたことであるため、起こす方も起こされる方も既に慣れていた。
このお役目の先代は犬飼美毬であったが、最近はその息子の雲雀が勤めていた。美毬は有無を言わさず布団を引っぺがし、無駄の無い動きで挨拶と退室をこなす仕事人といった手際であったが、雲雀は少しだけ違う。引っぺがすところまでは同じだが、起きたくないと愚図る貉の様子をつぶさに観察する。理由は言わずもがな。
貉の方も減るものでは無いという考えと、少しでも微睡む時間を稼ぐために際どい角度で身体をよじることもある。期待通りの反応が返ってくると、してやったりとほくそ笑む事もあった。
そんな駆け引きを楽しんだあと、ようやく布団から身体を起こす。寺の息子である雲雀は礼儀作法はしっかりと叩き込まれているため、普段の奇行が嘘のように折り目正しい挨拶をする。この時だけは“こいつ、偽物なんじゃ?”と小さな疑惑を抱くこともあるが、その後の遣り取りで本物である事を確認する。雲雀の中では礼儀よりも欲望の方がやや強いからである。
雲雀が退室したあと、簡単に身支度を整える。とはいっても寝間着からいつもの作務衣に着替えて、髪を軽く整える。そして母屋の方にある洗面台で顔を洗った後に自室に戻り、朝食を待つ‥‥‥ということが朝の流れであった。その道中、美毬や正嗣といった雲雀の家族と顔を合わせることも多い。朝の挨拶を交わし、軽く近況を話し合う中で”暇なときは茶でも飲みに来い“と誘いを掛ける事もある。大体は雲雀が不在の時にやってくるが、貉にとっても中々に楽しい時間であった。
雲雀が配膳した朝食を食べた後は基本的に1人で自室で過ごすことが多い。たまに雲雀が遊びに来ることもあるが、それ以外はきちんとお勤めを果たしている。貉や紺が絡まなければ基本的に真面目な好青年である。
雲雀は自発的に話をしないため、大学での交友関係について貉はあまり把握していないが、鈴音曰く“男女問わずそれなりに交流はあるみたいです”とのことであった。本人も大学生活はそれなりに張りがあると話していたため、その辺りは全く心配はしていない。本心からその様に思っている事は貉には分かっていた。
「それにしても、暇じゃのぉ‥‥‥」
「ぽん?」
「いや、こういった時間もまた良いものだと考えておったんじゃ。最近は賑やかな事が続いていたからのぉ‥‥‥」
自室の縁側でお茶を啜りながら、膝の上で丸まっているこわみを撫でる。自分の式神とはいえ、こわみを一匹の狸として扱っていた。
雲雀にペットとして育てても良いと伝えた以上、貉も同じ扱いをすることを心掛けていた。
「こわみはふわもこじゃのぉ‥‥‥ま、儂も負けてはおらぬが‥‥‥って、凄く良い匂いがするのぉ‥‥‥」
「ぽぽん」
「‥‥‥‥‥‥もしや儂より良いものを使っておらぬか?」
こわみの毛皮がやたらとふわもこさらつやであったため、両手で抱きかかえてこわみ吸いをする貉。そのような事をしなくても分かるが、気分的に吸いたかった。お日様の匂いに高級感あふれる石鹸の香りが混じっている。花や蜂蜜、乳製品のような複雑な芳香。自分が使っている100円前後の石鹸よりも良いものを使っている疑惑が残り、複雑な気持ちになっていた。
「ぽん」
「‥‥‥ま、まあ、可愛がってもらえているようなら何よりじゃ‥‥‥」
純粋無垢なつぶらな瞳に射抜かれ、文句を言うことは出来なかった。下手人は雲雀であることは分かってるため、後で個別に事実確認をするとして、少しだけ気になった事を呟いてみる。
「お主、前に顕現させた時よりも力が強くなっていないかの?」
「ぽぉん」
「前はそれこそ100年くらい前か‥‥‥あの時は確か‥‥‥そこらへんのものを使って顕現させていた覚えが‥‥‥‥‥‥ああ、なるほど。今のお主は雲雀から貰ったぬいぐるみであったのぉ」
「ぽん」
以前よりも一段と力を増したこわみを眺めながら過去の記憶を探ると、割と早く原因を掴む事が出来た。今のこわみは小さかった頃の雲雀から貰った大切なぬいぐるみを依代とした式神。ぬいぐるみは箪笥の中に大事に保管していたが、雲雀が不在の間、時々昔を思い出しながら愛でていた覚えがある。その時に力が込められていたらしい。
「‥‥‥まさか雲雀から貰ったぬいぐるみが神器に近いものになっていたとはのぉ‥‥‥‥‥‥この間の梅干しもそうじゃが、もしかして儂が意識していない間に、とんでもない事が起きていたりはせんよな‥‥‥?」
「ぽぽぽん」
貉の記憶力は人間を遥かに凌駕するが、必ずしも全てを覚えている訳ではない。それに加えて、貉は無自覚の内に割ととんでもないことをしているという悪癖があった。
元が自由気ままな獣であり、人々の畏れを受けながら各地を転々としていた頃の天衣無縫さが今なお残っている。本人にも自覚はあるが、実際のところ誰よりもその事を理解しているものは紺である。何しろ一番の被害を被っており、なおかつ後処理もしていた。その事で喧嘩に発展したことも少なくはない。ここ最近はその悪癖も鳴りを潜めていたが、どうやら過去のやらかしが今になって現れる可能性も浮上してきた。内心冷や汗ものである。
「‥‥‥‥‥‥紺の奴には少しだけ優しくしておいてやろうかのぉ」
「ぽん‥‥‥」
文句を言いながらも、いつも後処理を手伝ってくれていた紺から愛想を付かされる訳にはいかないなと思いつつ、今度美味しいものでもお裾分けしてやろうと考える貉であった。
◆ ◆ ◆
「貉様、昼食をお持ちしました」
「ああ、ありがとうの雲雀。今日は‥‥‥鶏肉かの?」
「サラダチキンです。手作りなんですが意外と簡単に出来ますし、美味しいですよ」
「食事を作ってくれる事はありがたい。それに美味いことも知っておるが‥‥‥何故にサラダチキンなんじゃ?‥‥‥皿の上で山が出来ておるぞ」
「鶏肉ってカロリーが低い上、たんぱく質が豊富なんです。ダイエット中の貉様にも丁度良いですし、俺も最近無性にたんぱく質が欲しくなるんですよねぇ‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥あれの後遺症かのぉ‥‥‥まあ、食べるが‥‥‥」
”身体がたんぱく質を求めているんですよ“と澄んだ瞳で語る雲雀。貉には心当たりしか無い。
恐らく筋肉が魂にまで侵食してしまったのであろうと考察までしていた。
「こわみにも鶏肉をお出ししますね」
「‥‥‥骨付き肉?‥‥‥なんかこわみの方が良いものを喰っている気が‥‥‥」
「気のせいですよ」
「‥‥‥それに儂よりも良い石鹸を使っておらぬか?‥‥‥いや、別に儂が欲しいという訳ではないんじゃが‥‥‥」
「ああ、それはですね鈴音から貰ったものを使っているんですよ。なんでもかなり良いものだそうで。紺様用の犬用シャンプーらしいのですが、人間が使うものよりも高級品らしいです」
「‥‥‥‥‥‥まあ、それなら‥‥‥」
「こわみには世話になっていますからね。せめてものお返しにと俺も購入を考えています‥‥‥あ、貉様の石鹸が少なくなっていたので買ってきましたよ‥‥‥丁度特売をしていて、なんと1個90円でした。まとめ買いしておいたので暫くそれをお使い下さい」
「明らかに贔屓されていないかのぉ!?」
「気のせいですよ」
「あまり年寄りを虐めんでくれぇ‥‥‥」
「ここ最近は俺の方が酷い目に合っているのでお互い様です」
「むむ‥‥‥まあ、確かにのぉ‥‥‥」
考えてみると、ここ最近の雲雀は何回も死にかけていた。酷い目というにはあまりにも重いが、雲雀はさほど気にしている様子は無い。
そんな雲雀を憐れに思ったのか、貉はお手頃かつ彼が喜びそうな提案を口にした。
「ならば今日の夕食は儂が雲雀の好きなものを作ってやろう」
「あ、それ嬉しいです。ではお願いしても宜しいでしょうか?」
「うむ。任された‥‥‥して何か食べたいものはあるかの?」
「‥‥‥‥‥‥筑前煮、ですかね。後は炊き込みご飯とお吸い物があると嬉しいです」
「渋いのぉ‥‥‥だがそのくらいなら手間もかからんし、儂も作りやすくてよい」
「それでは買い物にでも行きましょうか」
「そうしようかの」
自分とこわみの扱いに対して一言いうつもりが、逆に雲雀が可哀想に思えてしまい、慰めと労いを兼ねて夕食作りを申し出る。押しに弱いと思われてしまうほどの寛容さが貉の魅力の一つであることを雲雀は誰よりも理解しているのであった。
◆ ◆ ◆
商店街を雲雀と貉とこわみが歩く。貉はともかく、こわみが商店街に来ること自体が初めてであった。
他の買い物客から視線を感じるが、悪意や奇異の類では無かった。単純にこわみが可愛いので見ているといった印象である。狸が歩いていても騒ぎにならない所がこの商店街の懐の深さを感じさせる。
「商店街初デビューじゃのぉ」
「ぽん」
「思っていたよりも楽しそうで良かった。きちんと意思疎通が出来る子なので、寺に籠もりきりにさせることも勿体ないと思っていたんです」
「暴れたり盗みを働くことは無いが、一応は首輪とリードでも買っておくかの?別に嫌がらないと思うが‥‥‥」
「ぽん」
「構わないそうじゃ“飼われているという証拠があれば、住民に余計な心配を掛けさせることも無いでしょう”と言っておる」
「こわみが良ければペットショップにでも行って購入しましょうか。丁度ここから近いですし‥‥‥色とかデザインとか希望は無いのでしょうか?」
「ぽ」
「”昼夜問わず良く見えるものであれば“と、目立つものであれば良いみたいじゃの」
「分かりました。ではいくつか候補を選んでこわみの気分で決めましょうか」
「ぽぽん」
「“かたじけない”と言っておるぞ」
「‥‥‥こわみって結構お堅い言葉遣いなんですね‥‥‥」
「そうじゃのぉ‥‥‥特に意識した事は無かったが、もしかしたら昔の儂の影響かのぉ‥‥‥?」
「貉様の?」
「儂にも若い時分はあったものじゃ。強さとやらに憧れていた時代がのぉ‥‥‥その時はそれなりに威厳を出そうと工夫したものじゃ‥‥‥」
「それって中学生男子が罹るという‥‥‥あの?」
「‥‥‥‥‥‥ま、まあ、そうかもしれんの」
かつての自分を思春期特有の病気と評されると、やや複雑な気分であったが、現代を生きる雲雀からしてみればそうも見えるかもしれないと思い、とりあえず相槌を打つ。
「‥‥‥‥‥‥凄く気になります」
「あー‥‥‥今の儂が長いから、ちと面映い感じもあるが‥‥‥ま、今度酒の席で余興代わりに演じてやろうかの‥‥‥」
意外にも興味を持った雲雀が期待に目を輝かせながらせがんでくるため、仕方なく期待に応えると約束した。
「約束ですよ。破ったら紺様を肩車しますからね?」
「意味がわからんし、何故紺の奴が被害を被る‥‥‥まあ、儂は一向に構わんが‥‥‥いや、あまり機嫌を損ねることも良くないのぉ‥‥‥」
「それではお願いしますね‥‥‥それとペットショップが見えてきましたよ」
「おお、そうか。ではこわみの首輪とリードでも探すとするか。いくつか持ってくるからここで待っておれよ?」
「ぽぽぽん」
商店街にあるペットショップ『ワシントン』に着いた雲雀達は、こわみに対して店の外で待つように伝える。こわみは承知したと言わんばかりに店先の隅で丸くなり始める。人の往来の邪魔にならない所を選んでいる事から、周りに気を使えるタイプらしい。
貉とともに店内に入り、こわみの希望に沿うことの出来るものをいくつか選ぶ。貉用のものも購入しようとしたが“犬飼寺のペット枠という肩書だけで勘弁してくりゃれ”と泣きそうな顔で懇願されてしまったため、購入を諦めざるを得なかった。
元はイヌ科動物とはいえ、神として越えてはならない一線らしい。店主に許可を得てからいくつか候補を外にいるこわみに選んでもらおうとした所、既に商店街に来ていた小学生達の人気者になっていた。“可愛い”“大人しい”“いいにおーい”と口々に言われながら無遠慮にさわさわされていたが、こわみは満更でも無い様子である。術者に似て割と子ども好きのようだ。
ちなみに、こわみの首輪は赤くて光を反射しやすいものに決定した。
名残惜しむ小学生に愛想を振りまきながら、ペットショップを後にする。新品の首輪とリードが良く似合っていた。
「本当に良い子ですね」
「儂の影響を受けておるからかのぉ‥‥‥外見は可愛らしい狸だが、中身は儂と似た精神性を持っておるぞ」
「それって凄くないですか?」
「凄いんじゃよ」
「ぽん」
“こわみの装備も整えたし、買い物の続きじゃ”という貉の言葉に同意し、そのまま夕食の材料を求めて商店街を練り歩くのであった。
◆ ◆ ◆
「雲雀や、夕食が出来たから運ぶのを手伝ってくれんかのぉ」
「分かりました、ご一緒しますね」
夕食時。台所で動いていた貉が割烹着を着たまま雲雀の元へとやってくる。
とはいっても雲雀がいる場所は貉の部屋である。夕食を一緒に食べようという貉の提案を受けていたからだ。
貉の背中を追って台所へ向かう。室内へ入る前から煮物の良い香りが漂っていた。
「‥‥‥この匂いだけでご飯が食べられますねぇ」
「そう言って貰えるのは嬉しいが、料理は食べてなんぼのものじゃ。沢山作ったから満足するまで食べると良い。美毬達の分は既に別にしておるから安心せい」
「それなら遠慮なく頂きますよ」
「うむ。若いものはいっぱい喰うべきじゃ」
貉と一緒に夕食を運びながら離れの方へ向かう。
お盆の上から漂う和食の香りが雲雀の食欲を唆る。
逸る気持ちを抑えつつ、貉の部屋に置いてあるちゃぶ台の上にお互いの食事を並べ、向かい合わせで食卓を囲む。
「では、貉様と食材に感謝して‥‥‥頂きます」
「頂くとするかの」
感謝を告げた雲雀は吸い物を一口飲む。
静かに口元から器を離した後、そのままの姿勢で感嘆の言葉を漏らしていた。
「‥‥‥‥‥‥美味い」
「お、それは良かったのぉ」
吸い物の味をきっかけに、炊き込みご飯や筑前煮などに手を伸ばす雲雀。ゆっくりと噛み締めながら実に美味しそうに食べている彼の姿を見て、貉は思わず顔を綻ばせる。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥静かじゃのぉ」
「はっ!?‥‥‥いや、その、あまりにも美味しくて、つい‥‥‥あ、ありがとうございます」
あまりの美味しさに夢中になってしまい、感想も何も伝えることが出来なかったと気が付いた雲雀は、慌てて貉へ感謝の言葉を伝える。
貉は気分を害すること無く、雲雀の感謝を素直に受け止めていた。
夢中で食べてくれる姿こそ、彼女にとっては食事を作る上での最高の誉れであったからだ。
「分かっておる。昔から儂の飯を喰う時は静かになる‥‥‥‥‥‥普通に作ったものなんじゃが、それほどのものかのぉ?」
「それほどのものなんです。いずれ無形文化財にしましょうね」
「スケールがでっかい‥‥‥」
「‥‥‥まあ、そのくらい美味しいというのは本当です‥‥‥俺が作ってもこの味は出せないんですよねぇ‥‥‥」
「美毬や鈴音も同じこと言っておったのぉ‥‥‥作り方自体は同じだから、こればかりは年の功というやつかもしれんの」
「いつかこの味に到達出来るよう、精進します」
「ふふ‥‥‥そう言って貰えると悪い気はせんな」
永い時を過ごしてきた貉にとって、自分の辿ってきた道に続いて来てくれる人がいるという事実は、何よりも得難い喜びの一つであった。
◆ ◆ ◆
「待たせたの、風呂が空いたから入って来ると良い」
「はい、これから入りますね」
犬飼家では貉が一番風呂に入るという自然な流れがあった。寺の守り神たる貉には一番綺麗で温かい湯に浸かり、身体を清めてもらいたいという犬飼家の人々の心遣いであった。
貉としては特に風呂の順番にこだわりは無いが、せっかくの厚意を無下には出来ないと考え、律儀に声を掛けてから風呂に入るようにしていた。
貉の後は大抵の場合、雲雀が2番目に入る。何故なら雲雀の両親は後でゆっくりと風呂に入りたい性質の人間であるからだ。
その事を知っている貉は部屋にいた雲雀に声を掛ける。彼もいつものように返事をした後、着替えを持って風呂場へと向かおうとするが、そんな彼に対してふとした疑問が浮かぶ。
”我ながら変なことが気になるのぉ“と考えながら思いきって尋ねてみることにした。
「‥‥‥儂が言うのもなんじゃが、雲雀は儂と風呂に入りたいとかそういった事は言わんよなぁ」
「当たり前じゃないですか。子どもの頃ならともかく、今の俺がそんな事をしたら死にますよ」
貉の言葉を受け、笑いながら当たり前の事のように話す雲雀。内容は事実だけを述べた簡潔なものであり、その目は本気であった。
”旅行先で混浴は出来んのぉ“と少しだけ残念に思いながらも、話を変える意味合いも兼ねて冗談を交えてみる。
「そっかぁ‥‥‥ちなみに湯は飲んでおらんよな?いつも先に風呂を勧められるから気になってのぉ‥‥‥なんて‥‥‥な?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「嘘でも否定してくれんかの‥‥‥」
「ままっ!?まさかぁっ‥‥‥そそそっ、そんな事はっ‥‥‥し、していませんよぉ!?」
冗談を聞く雲雀の様子が明らかにおかしいと気が付き、途中から少し怖くなってきた貉。
雲雀は、ばっしゃばっしゃと音を立てて泳ぐ目を逸しつつ、震える手で否定しながら震える声で弁解を始める。
―――怪しさが限界突破していた。
「‥‥‥‥‥‥ひぇぇ‥‥‥」
身体を縮こませながら怯えた瞳を向ける。
流石の貉も、彼の奇行には擁護のしようが無かった。
「‥‥‥えふん!むんっ!んんっ‥‥‥すぅぅ‥‥‥はぁぁ‥‥‥流石にそこまではしていませんからご安心を」
「頼むから人としての尊厳は大切にしておくれ‥‥‥後生じゃ‥‥‥」
わざとらしく咳払いをする雲雀に対し、拭いきれない疑惑は残るが、彼の力強い否定をとりあえず信じる事にした。産まれた頃から面倒を見てきた大切な子が、人の道を踏み外さなくて良かったと心から安堵する。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥貉様の後の湯を‥‥‥たぬき汁だとは思ったことはありますが‥‥‥」
「‥‥‥畏まれとは言わんが、流石に食材扱いは止めてくれ‥‥‥儂、悲しい‥‥‥」
”儂が入った後の湯って、たぬき汁扱いなの?“と心に深い傷を負った貉は悲しそうな表情を浮かべる。神様でも耐えきれない事はある。体重の事とか、たぬき汁とか‥‥‥
そこで自分の言動が彼女を悲しませていると気が付いた雲雀は、慌てて誤解を晴らすための言葉を口にする。
「違うんです‥‥‥たぬき汁という先入観と風呂場という状況が俺に常識という制動を掛けるんです‥‥‥‥‥‥貉様が入った後の湯と考えるだけで‥‥‥俺は、俺はっ‥‥‥!!」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥雲雀や‥‥‥明日にでも心のお医者さんにでも会いに行こうかの?‥‥‥きっと雲雀の味方になってくれるはずじゃ?」
雲雀は煩悩に塗れた己と死闘を繰り広げているつもりであったが、貉からはどうにも可哀想な人にしか見えない。ここ最近で一番の優しさを持ってこころのびょういんに掛かろうと、純然たる善意で勧めていた。
「違うんです、貉様っ!‥‥‥俺はただ、汚れきった俺を‥‥‥俺ぉぉ‥‥‥」
「自分を責めるでない‥‥‥雲雀はそのままで良いんじゃ‥‥‥だからお医者さんに会いに行こう、明日にでもっ‥‥‥!」
無意識の中で、欲を是とする邪な自分と人として正しい場所に居たい自分がせめぎあい、雲雀は答えの出ない葛藤で頭を抱えてしまう。彼は本来真面目で良い子なのだ。
誰が悪いという訳では無いが、貉の魅力と母性が雲雀を狂わせてしまった可能性は否定できない―――少なくとも、無意識の中で僅かに残っていたまともな部分の雲雀はそう考えていた‥‥‥ちなみに大体合っている。
彼には真っ直ぐな青年として生きる道もあった。
―――ケモナーにさえならなければ
残念な事に、その場には完全に母親目線になってしまった貉しかいないため、葛藤し続ける雲雀に対し“それなら理由を説明した上で、間に他の家族を挟めば良いのでは?”と冷静な答えを教えてくれるものはいなかった。
◆ ◆ ◆
座して待つには丁度良い月が犬飼寺の庭を照らす。星はきらきらと輝き、雲は微かにたなびく。
肌を優しく撫でる風は、こそばゆいがとても心地よい。
夜に包まれながら空を見上げる事は、貉にとって決して飽きることの無い趣味であった。
「‥‥‥こればかりは辞められんのぉ‥‥‥‥‥‥お、雲雀か?」
縁側で夜を愉しんでいた貉の元に、風呂上がりの雲雀が戻ってくる。寝間着に着替えている所を見るに、少し時間を潰してから自室に戻るつもりであると察していた。
「身体は温まったかの?」
「あたたまりましたねぇ‥‥‥」
「正気に戻って良かった‥‥‥」
「え?‥‥‥いつも正気ですよ‥‥‥?」
「手遅れかぁ‥‥‥」
ほっこりした様子から雲雀が正気に戻ったと安心しかけたが、彼の返事で落胆に変わる。奇行を普通と信じて疑わない時点でもう手遅れであった。
だがそんな彼にも人並みの感性が残っていたのか、貉の隣に座りながら夜空を見上げながら感嘆の溜息を漏らす。
「‥‥‥それにしても風呂上がりに座る縁側は風情がありますね‥‥‥これも寺生まれの特権ですよ‥‥‥」
「じゃろ?‥‥‥儂も昔からこの場所で夕涼みする事が好きでのぉ‥‥‥‥‥‥中秋の名月なんてものが見える日は特に気分が良い‥‥‥」
「分かります‥‥‥俺もここで見る夜空と月は好きです‥‥‥」
「子どもの頃から好きじゃったな‥‥‥‥‥‥うむ。雲雀、少し待っておれ」
純粋な気持ちで自然を慈しむ雲雀の横顔に、幼き日の彼との思い出が重なる。秋の十五夜には貉がこさえた月見団子とすすきをを飾り、その横で月を眺めながら一緒につぶあんのお汁粉を食べた覚えがあった。
今は手元に甘味は無いが、それと同じくらい相応しいものが用意できる。貉は以前の失敗を踏まえて考えた事を実践することにした。
「‥‥‥?」
自室に戻り、常備している品々をそれぞれの器に取り分け、お盆の上に乗せてから縁側で待つ雲雀の元へ戻る。
「待たせたのぉ‥‥‥ほれ」
「それってまさか‥‥‥お酒、ですか?」
「その通り。儂の常飲酒とつまみじゃ」
雲雀の目の前に差し出されたものはいつもの徳利と平べったい2つの杯。そして赤くて丸みを帯びたものが1つずつ乗せられている小皿が2つ。
それらは貉が愛飲している日本酒と400年物の梅干しであった。
思わず生唾を飲んでしまう雲雀。
酒と梅干しの豊かな味わいの裏側に、生々しくも艶やかな記憶がちらついていたからであった。
雲雀はお盆と貉を交互に5秒ずつ眺めた後、自身の身体を抱きしめながら恐る恐る呟く。
「‥‥‥‥‥‥襲いませんよね?」
「どちらかというと儂の台詞では?‥‥‥‥‥‥いやまあ、安心せい‥‥‥紺の奴に叱られてからは儂も考えた。手に取ってみると良い」
成人男性の身体で生娘のような反応を見せる雲雀に対し、複雑な表情を浮かべる貉。自身の酒癖の悪さで警戒させていることは重々承知している。
彼を安心させるため、失敗から学んだ工夫を披露した。
「徳利と杯‥‥‥あ、軽い‥‥‥それにこの杯も‥‥‥」
雲雀は徳利を持った瞬間、貉の考えを理解する。
軽く振ると、ちゃぽちゃぽと軽い音が響く。音と重さの感じから、徳利の半分位しかお酒が入っていないことに気が付いた。また用意された杯の形状から、貉が使っていたお猪口よりも一杯の量が少ないもの。つまり、予めお酒の上限を決めておいてから少しずつ飲めるように工夫していたのである。
「気が付いているとは思うが、徳利には儂がほろ酔い程度になれる量しか入れておらん‥‥‥この杯で4、5杯くらいかのぉ‥‥‥半分ずつ飲めば丁度良いと思うてな?」
「なるほど‥‥‥これなら酔いに任せて際限なく飲むということは無いですね」
「そうじゃ‥‥‥これでもちびちび飲めば十分に愉しめる‥‥‥それに、このつまみも‥‥‥どちらかというと軽いものだから以前のように杯の後押しはせんじゃろ」
「ああ、梅干し‥‥‥最高じゃないですか‥‥‥」
「白米と一緒も良いが、やはり酒が一番かと思ってな‥‥‥どうじゃ、これなら雲雀も安心かの?」
「‥‥‥文句無しです。では、この間の続きといきましょうか」
月明かりが照らす縁側で貉と晩酌をする―――それも安全が担保された酒宴である以上、雲雀には断る理由は無かった。
貉は満足そうに頷きながら、前回の酒宴の時と同じ様に杯へと酒を注ぐ。
「うむ‥‥‥では‥‥‥‥‥‥よし、乾杯‥‥‥」
「ええ、乾杯‥‥‥」
杯を掲げ、そのままゆっくりと口に運ぶ。記憶と違わぬ味わいながら、夜気と月明かりが混じったかのような澄みきった酒が、風呂上がりの火照った身体を優しく静めていく。
「‥‥‥ふぅ」
「美味い‥‥‥思うところはあるが、こうして飲む分にはこの位の量が丁度良いみたいじゃ」
「でも十分愉しまますよ」
「だな‥‥‥梅干しも塩気があって良く合うぞ」
「本当だ‥‥‥これだけで何杯でも飲めそうですね」
酒で潤った舌に、梅の酸味と塩気が沁み込んでいく。400年という時を凝縮したかのような味わいがあるため、一粒でも酒のつまみとして十分に愉しむ事が出来る。
雲雀の言葉を聞いた貉は、空になった彼の杯に1杯目よりも少ない量の酒を注いでいた。
「ほどほどが一番‥‥‥最近になって改めて思い知らされたからのぉ‥‥‥」
「反面教師にします‥‥‥」
「うむ。儂のような失敗をせんようにな」
雲雀は貉の杯にも同じ量の酒を注ぐ。ほどほどの量が酒の味と飲む楽しみを保証してくれる。
杯の中の酒を少しずつ味わいながら、静かな寺の夜を愉しむ。
「‥‥‥酒と梅干しと夜空‥‥‥贅沢な時間ですね‥‥‥」
酒の入った杯を手の中で弄ぶ度に、きらきらと金色の光が反射する。貉の方を見ると、彼女も同じ様に月明かりを杯に閉じ込めていた。
「ああ、ずっとこの瞬間を待っておったんじゃな‥‥‥」
万感の思いを言の葉に乗せ、月が入った酒を静かに飲み干した。
「‥‥‥‥‥‥儂は約束は果たしたぞ‥‥‥お主も美味い酒が飲めたかのぉ?」
400年越しの約束を果たす事が出来た貉の満足そうな笑みは、かつての酒飲み友達にしっかりと届いていたに違いない。
空になった杯をお盆に乗せた貉は、自分の太腿を優しく叩きながら、膝の上に頭を乗せるよう雲雀に声を掛ける。
「••••••酒に付き合うてくれた礼じゃ••••••遠慮はいらぬぞ?」
「‥‥‥はい」
貉の膝に頭を乗せる雲雀。この時ばかりは邪な考えは一切湧き上がらず、純粋な気持ちで彼女のぬくもりを頬で感じていた。
「••••••••••••良い夜じゃのぉ••••••」
「‥‥‥ぇぇ‥‥‥そう‥‥‥ですね‥‥‥」
小さな虫の声や草木の微かなざわめきを聞きつつ、暫く静かな時間を過ごす。
雲雀も貉もお互いに何も語らない―――それが、とても心地良い。
「‥‥‥‥‥‥おや?」
膝の上で眠ってしまった雲雀を見下ろしながら、彼の頭を優しく撫でる。今迄数え切れない程行ってきた行為だが、その中の一つとて同じものは無かった。
「‥‥‥‥‥‥全部憶えておるよ‥‥‥」
雲雀の心身には、かつて貉が出会い、別れた人々の面影がしっかりと受け継がれている。
始まりから現在まで見守り続けたものが、今の貉にとって一番の宝物。
「‥‥‥ふふっ‥‥‥ありがとう、雲雀や‥‥‥」
―――いつの間にか雲は流れて消えていた。
雲一つ無い晴れた夜空に浮かぶ月と星が、今の貉の心を鏡のように映し出しているようであった。




