第三十一話『猫宮紺の一日』
猫宮紺の1日は朝日が昇る前から始まる。
だからといって直ぐにベッドから抜け出す訳では無い。目が覚めたら枕元に置いていたスマートフォンを手に取り、適当に無料動画を漁る。今日のおすすめは、登場人物の名言だけで本編が出来上がると噂されている映画は、本当に名言だけで本編が出来上がるのかという検証を行ったもの。なんとなく動画を閲覧するが、元の映画を見たことが無いので検証結果が正しいのかどうかは分からなかった。
「B級映画にしては見どころはあるようだな‥‥‥」
暇なときにでもサブスクリプションサービスの動画サイトで見てみようと思う紺。齢千年を超える狐神は現代の技術をそれなりに使いこなしていた。
好奇心を満たすために画面を指でスクロールすると、下から上へと様々な動画が姿を現す。
『現代の和菓子職人がお菓子の家を作ってみた』
『バームクーヘンの穴とドーナツの穴の違いとは?〜ブラックホールとホワイトホール理論〜』
『小学生でも出来るおいしいクッキーの作り方』
『20世紀を駆け抜けた名俳優の煌めき〜海を越えた奇跡の出会い〜』
『自己防衛白書CASE138:娘から虐められる母親の対応』
『【知られざる海外ドラマの名作】選した10タイトルを紹介』
『自己防衛白書CASE252:知り合いの息子がおかしくなったら』
『【AIによるカリスマ講座】これを見たらあなたはカリスマ溢れ出る威厳立ち上がれ国民よ』
「‥‥‥•••••」
おすすめにノイズが混じっていたが、気にせずお菓子と海外ドラマに関する動画の閲覧を始める。心当たりのあるタイトルについては閲覧済みだがあまり役に立つ内容では無かった。実践してもいじられるし、おかしいままである。
暫く動画を流し見ていると鈴音が部屋に来る時間が近づいてくる。そこでようやくベッドから出て、部屋の外にある手洗い場に向かい顔を洗う。部屋に戻ったら寝間着からいつもの装束に着替えて鏡台の前に座る。少しの間ぼんやりしていると、鈴音が部屋の前で一声掛けてくるので部屋に入るように促す。部屋に入ってきた彼女は恭しく一礼し、朝の挨拶を述べた後、鏡台の前に座る紺の髪を整え始める。鏡に映る鈴音を眺めながら、幼い頃の鈴音に思いを馳せる。お互いに髪を整えあった事が今はとても懐かしい“今度暇な時にでも鈴音の髪を弄ろうかな”と考えているうちに、いつもの自分の姿が目の前に現れる。
これで朝の身支度は終了。
ここまではいつもと変わりは無い。
問題はここからである。
後は何事もなく朝食にありつける事を祈る。
紺の食事は前日の行動や言動、鈴音の機嫌次第で大きく変わるのである。数日前に鈴音の素晴らしさを貉に話しただけなのに、その日から口を聞いてくれないどころか、ご飯がちくわのみになった。
当然のように抗議の声を上げたが『紺様に辱められました』と目元に涙を浮かべていたため、大人しくちくわを夕食とした。ちくわ分の腹は満たせたが、心は満たされ無かった。
ちなみに紺が全面降伏した後、鈴音の涙は1秒で引っ込んでいる”涙と笑顔は男を殺す女の懐刀“だと言う紺の教えが活きた瞬間である。
男では無いが紺にも効いた。きゅうしょにあたった、というやつである。
『我は何処で間違ってしまったんだ••••••』
紺は鈴音のいない自室で静かに泣いた。
「朝食をお持ちしました」
食事の配膳のために席を外していた鈴音が再び部屋を訪れる。鈴音の声でここ数日間の苦い思い出から意識を戻す。恐る恐る目を向けた先にはご飯と味噌汁、焼き魚に煮物、おひたし、貉が漬けた梅干しが1個。まさに和の朝食。
普通の朝食だが今の紺にとっては何よりもご馳走であった。何より鈴音の作るご飯なので味は保証されている。
「うむ。頂きます」
元々は食事に対して特に敬意を払う事はしていなかったが、神社の氏神として祀られるようになってからは食に感謝する習慣を刷り込まれていた。痛い目に合わされてからは歴代の宮司や巫女には逆らう事は出来なかったので仕方がない。
だが年月と習慣は獣の考えに影響を与えるものである。途中から幼い子ども達の規範となるよう振る舞いに気をつけるようにはなっていた。
子は親を見て育つもの。ゆくゆくは自分の世話をしてくれる人間であるため、ないがしろには出来ない。手間を掛けた分だけ自分が楽を出来るのだ。
‥‥‥単純に猫宮家の人間に愛着が湧いただけであるが。
無意識の内に昔を振り返りながら味噌汁に手を伸ばす。お茶か汁物で口を湿らせるが吉と考えた上での行動であるが、その前に”待った“が掛かる。
「紺様‥‥‥私に何か言うことはありませんか?」
鈴音の問いに対し、味噌汁を持とうとしていた手が止まる。横目で見た彼女はいつもと変わらぬ表情ではあったが、紺にはぷんすか怒っているようにしか見えなかった。
「‥‥‥‥‥‥この間の事で怒っていたのか?」
「‥‥‥」
「はぁぁぁ‥‥‥」
心当たりを指摘すると鈴音は押黙る。図星であると悟った紺は、一際大きな溜息を付きながら正直な思いを口にする。
「‥‥‥‥‥‥我は謝らんぞ、鈴音が恥ずかしがろうが、あの時の言葉は全て事実。覆すことはしない‥‥‥無論、鈴音を深く傷つけてしまったのであれば我とて謝りもするし、責任も取るつもりだが今回はそうでは無いだろう」
「‥‥‥」
はっきり謝らないと告げる。つまり、謝るような事はしていないという悪びれない態度の表れ。鈴音は僅かに眉を動かしただけであるが“その心は?”と静かな圧を掛けていることは紺にはお見通しである。
「恥ずかしいことや嫌なことなどは我にもある。確かに濫りに言いふらされたり、曲解して吹聴されるようであれば怒りもするし、恥ずかしくもなる‥‥‥だがな」
「‥‥‥」
「真摯な気持ちで口にしたことであれば我は許す。逆もしかり、我が鈴音の事について話す時はそれ相応の自信を持って口にしている。時に批難されることも覚悟の上だ‥‥‥それを受け止めるだけの器量もある」
「‥‥‥」
「だから鈴音が何と言おうと撤回はせん。それで我を嫌おうとも、我が鈴音を嫌うことなど無い‥‥‥‥‥‥まあ、その時はこの身を隠し、目に入らない場所で最期まで見守るつもりだ‥‥‥鈴音がどう思おうが、鈴音の全ては我にとってかけがえのない宝物だからな」
「‥‥‥紺様」
鈴音に言い聞かせるように思いの丈を話す。彼女の良い所も悪いことも是とした上での行為であった。当然、今の鈴音の気持ちも理解した上で紺は鈴音の全てを大事に思い、愛し続けるとはっきりと告げていた。
紺の深い愛情を再確認した鈴音は、その言葉を聞いて肩から力を抜く。
「‥‥‥頂くぞ」
「‥‥‥はい、どうぞお召し上がり下さい」
鈴音に思いが伝わったと解した紺は、再び味噌汁に手を伸ばして音もなく啜る。丁寧に調理された味噌と具の出汁がしっかりと活きている。紺の好みの味であった。
「‥‥‥‥‥‥あぁ‥‥‥やはり鈴音のご飯は美味しいな」
「ありがとうございます」
「ふっ‥‥‥」
“これ以上の言葉は無粋”と、決め顔のままご飯に手を伸ばす紺。ちくわ以外の固形物は久しぶりなので早く口に入れておきたかった。
「ですが、それは別として謝って下さい。嫌なら甘えさせて下さい」
「ひ、卑怯なっ!?‥‥‥謝らんと言った矢先に‥‥‥!」
「ご飯も食べたじゃないですか。食後はいっぱい甘えますからね。ここ数日分の思いをしかと受け取って下さい」
別の刃で背中から刺されてしまう紺。数日前の弁解は通ったが、その間甘える事の出来なかった鈴音の不満は解消できていなかった。
欲求不満に陥っている鈴音は割と歯止めが効かない。とんでもない方法で辱められてしまうのかと戦々恐々となりながら恐る恐る尋ねてみる。
「‥‥‥‥‥‥我に何をする気だ」
「‥‥‥‥‥‥髪を結って下さい‥‥‥久しぶりに」
予想よりも遥かに可愛らしい要望を突きつけられ、紺は一瞬虚を突かれた表情になってしまう。対する鈴音は頬を僅かに赤く染めている。彼女にとってはかなり恥ずかしい要望なのである。
いち早く正気に戻った紺は“子どものような甘え方だな”と思いつつも、彼女の期待に応える事にした。
「‥‥‥‥‥‥はぁ‥‥‥仕方が無いやつだ。許す。食事が終わったら結ってやる」
「‥‥‥ありがとうございます‥‥‥嬉しいです」
短い時間であったが、ここ数日分のわだかまりが綺麗さっぱり払拭出来た気がする。言いたいことはきちんと言う―――これは紺の性分であり、相手に対する誠実な対応であると考えていた。時としてそれが相手を苦しめることが分かっていても、それすらも全て受け入れる所存であった。良いも悪いも酸いも甘いも飲み込むものが神なのだ。
最後は美味しい食事にもありつく事が出来たし、鈴音の髪を慈しむ事が出来る。まさに万々歳な結果だ。自分の選択が間違っていなかった事に満足しながら朝食を平らげる紺であったが、お膳を下げてから戻ってきた鈴音の手に抱えられた山のような衣装を見て、結末は非情なものであると静かに悟るのであった。
◆ ◆ ◆
「それでお前はその格好なのか‥‥‥」
「‥‥‥鈴音の機嫌を取るためだ」
「よりにもよって園児の服とはのぉ‥‥‥そんな年じゃなかろうに‥‥‥」
犬飼寺の縁側。いつもの作務衣に身を包んでいる貉の隣では、空色のスモックに身を包んでいる紺の姿があった。下は短パンのようなものを履かされているため、より幼さが際立っている。
「‥‥‥笑え‥‥‥今なら許す」
「ぶっふぉ!?‥‥‥ぷぷっ‥‥‥くくっ‥‥‥」
許可が出たので遠慮なく吹き出す貉。口を抑えてもなお笑いが止まらない。
そんな彼女の様子をひとしきり見届けた紺は、昏い瞳で見つめながら静かに呟いた。
「‥‥‥‥すぞ」
「許す言うたじゃろ!?」
唐突に殺意を向けられ焦る貉。園児服が原因で殺されたとなっては笑うに笑えないのである。
見かねた雲雀は神様達の間に入り、明らかに非のある貉へと諭すように声を掛ける。
「貉様。紺様のお気持ちも考えてあげましょうよ。たとえ幼稚園児のような可愛らしい服に身を包んでいたとしてもはぁはぁ‥‥‥」
「こいつは牢屋にでも入れておいたほうが平和じゃないか?」
「通報は止めてくれんかのぉ‥‥‥普段は真面目で優しい子なんじゃ‥‥‥」
途中で鼻息を荒くしながら宜しくない目を向け始めた雲雀に対し、紺は真顔で正論を述べる。
自身の思いを暴露されてからは割とタガが外れるようになってしまった雲雀を庇い、貉が擁護に回る。貉自身が“そのとおりかもしれない”と思いつつも、確かな情はあるので見捨てることなど出来なかった。
「そうですよ紺様。元はといえば紺様が悪いんですからね」
紺に結って貰った黒いあみあみの尻尾を揺らしながら貉を擁護する鈴音。貉と雲雀に可愛いと言って貰えた事が嬉しかったので犬飼寺側に味方する事は自然であった。
それに加えて、雲雀が捕まってしまうと貉も紺もしょんぼりしてしまう事は分かりきっていた。無論、鈴音も同じ気持ちになる事は自覚している。
「悪いとは思っていないが‥‥‥そもそも我だけではなくこやつも関係しているだろう。何故責めんのだ」
「よそはよそ、うちはうちです‥‥‥それに、紺様は遠慮がなさすぎると思います‥‥‥もう少し手加減をしてくださいね」
「鈴音に配慮が足らんかったのぉ‥‥‥」
「貴様が言うか」
「まあ、儂は鈴音にはきちんと謝ったぞ『恥ずかしい思いをさせて悪かった』とな‥‥‥まあ、あの時の言葉は全て本心であるから撤回はせんが」
「貉様は良いんです。謝罪に誠意を感じましたから‥‥‥それに貉様にもそう思われていて嬉しいですし‥‥‥」
「当たり前じゃ。儂も鈴音が大好きじゃからの。良い所も悪い所も含めて愛しておる」
なんてことの無いように言い放たれた言葉。実際のところ貉の中では当たり前の事実ではあるが、その真っ直ぐな言葉を聞いた鈴音は口元に手を当てながらもじもじし始めていた。ちなみに薄っすらと頬が赤く染まっている。
「‥‥‥紺様、今のはプロポーズでしょうか?」
「まあ、そう解釈しても良いんじゃないか?‥‥‥そこの小僧が凄いことになっているが‥‥‥‥‥‥いや、我も凄いことになっているな‥‥‥」
「‥‥‥ォォオ‥‥‥フシュゥゥ‥‥‥!」
「冗談よ。ごめんなさいね、雲雀君‥‥‥いえ、貉様が良ければ私は全然構わないのだけれど」
「安心せい、今は雲雀が一番じゃよ。だから紺を持ち帰ろうとするでない。めっ」
貉の言葉と鈴音の反応を見聞きしていた雲雀は無言のまま紺を小脇に抱えて何処かへ行こうとしていた。目は血走り、力強く噛み締めた歯の間からは微かに荒い息が漏れている。心の裡から溢れ出る嫉妬心と復讐心が雲雀を突き動かしていた。
傍から見たら園児を誘拐する変態にしか見えないが、運が良いことにこの場には身内しかいない。もしも国家権力の尖兵が居たら即刻お縄であること間違いなし。
「ヲレ、マチガッテタ‥‥‥コンサマ、メデルモノ‥‥‥」
「‥‥‥何故我が割をくわねばならんのだ」
「もとはといえば紺様が悪いので‥‥‥」
「どうして世界は我に厳しいんだ‥‥‥」
「可愛いからです」
「そっかあ‥‥‥」
興奮した獣のような雲雀にも僅かな理性が残されていたのか、鈴音と貉の説得に応じ、紺を鈴音の方へそっと戻す。準備していた鈴音の膝に乗せられた紺は大人しく座り、そのまま遠くの空を眺めていた。
因果応報であれば仕方がないかと無理矢理自分に納得させる事でしか、心を守る術を持ち合わせていなかった。
◆ ◆ ◆
犬飼寺から戻り、15時のおやつを食べた紺に鈴音が声を掛ける。買い物用のエコバックを手に持っていることから、夕食の材料を買いに行くのであろうと紺には察しが付いていた。
「今日は一緒に商店街までお買い物に行きませんか?」
「やだ」
「いつもの衣装に着替えても良いですから」
「なら行く」
この姿のまま買い物に出ろと言われたら絶対に動かないつもりであったが、脱いでも良いと許可が出たので喜んでいつもの装束に着替える。
実は、意外と動きやすく快適なので“普段着に良いかも”というあまりにも危険な考えに傾いていた事には気が付いていた。しかし鈴音の許可がなければ着替えることは出来ない。無理に着替えると鈴音は泣いてしまう。時間とともにスモックに慣れていく身体との勝負であったため、鈴音の提案は渡りに船である。
着替えた後は部屋の外で待機していた鈴音と合流し、一緒に商店街へと向かう事にした。
「今日の夕食で何か食べたいものはありますか?」
「おいなりさん」
「昨日食べましたよ」
「ちくわだったぞ?」
「気のせいです」
「そっかあ‥‥‥」
夕食の希望を聞かれたため一番食べたいものを正直に答えたが、あっさりと一蹴されてしまう。
さり気なく記憶の改ざんも行われていたが、突っ込む事はしない。料理を作ってくれる人に逆らってはいけない事を紺は深く理解していた。
「しょんぼりした紺様が可愛いのでおいなりさんにします。感謝して下さい」
「わーい、すずねありがとう」
「‥‥‥‥‥‥スモックのままなら死んでいました」
「最近雲雀に似てきたか?‥‥‥いや、元からか‥‥‥」
優しい鈴音なら期待に応えてくれると信じていた紺は素直に喜びの声をあげる。嬉しさのあまり、やや舌っ足らずな声色になっていたが、それが鈴音の心に深い爪痕を残していた。口元から流れ出た一筋の涎を拭いつつ心を立て直す鈴音。彼女はとても強い女性なのである。
紺は一部始終を見て“あれと似てきたら嫌だなあ”と呟きつつ、ふと思いついた事を口にしてみる。
「‥‥‥それはそうと、今日は我と一緒に夕食を食べないか?」
「食べます」
「早いな」
即答。鈴音は断られるとは思ってもいない紺を見ながら、小さな疑問を投げかける。
「でも珍しいですね。紺様から誘うなんて」
「いや、朝から昔の事を思い出してな‥‥‥鈴音にも小さい頃があったなと」
きっかけは些細な事であったが、鈴音が無意識の内に自分の考えを汲み“髪を結ってほしい”と口にしていたのであろうと解釈していた。
紺の方も鈴音の髪を結ってから、昔を懐かしむ行動も悪くはないと考えていたのであった。
今の言葉は純粋な親心と言ったところであるが、鈴音は紺の言葉を少しだけ曲解して受け取っていた。
「‥‥‥流石にスモックは着れません‥‥‥でも、紺様がどうしてもと言うのであれば‥‥‥」
「やめろ。成人女性としてそれは不味い」
「笑止」
「いや、鈴音の為に言っておるんだが!?」
「‥‥‥ふふっ‥‥‥冗談ですよ。実は私も紺様に髪を結ってもらって嬉しかったんです」
「珍しく舞い上がっていたのはそのせいか‥‥‥」
「あら、バレていましたか?」
「当たり前だ。産まれた頃から知っているんだぞ?」
鈴音が様子のおかしいことをのたまい、紺がすかさず応える。いつもの遣り取りであるが、こんな軽口の叩き合いが鈴音は何よりも大好きであった。勿論、紺も同じである。畏敬や威厳といったものを重視はするが、家族のように堅苦しくない関係もまた、紺にとっては非常に好ましいものであった‥‥‥そのため鈴音の悪ふざけはまだまだ続く。
「紺お母様‥‥‥」
「産んではいない‥‥‥‥‥‥まあ、それに近い自負はあるが‥‥‥」
「家事全般出来ない紺お母様‥‥‥」
「いい加減泣くぞ?」
「紺様を泣かせる人間は私が許しません」
「鏡を見ろ。そこにいるから」
夕方というにはまだ早い時間帯。買い物客に紛れながら惣菜の匂いが漂う商店街を歩く。目指すは行きつけの豆腐店。そこで油揚げを買い、紺に持ってもらおうと考える。手元の香りで夕食のおいなりさんを想像する紺の笑顔が見ることが出来る筈。どんなものでも紺の笑顔があれば、それだけで鈴音は満足であった。
◆ ◆ ◆
夕食はおいなりさんとお吸い物。そこに天ぷら少々と冷奴、箸休めに香の物がついていた。
目的のおいなりさんと美味しいおかずを口に出来た紺は、大層ご満悦な様子であった。
「ふわぁ‥‥‥美味しかったぁ‥‥‥」
「お粗末さまでした」
「明日も食べたい。まだあるんだろ?」
「私が食べるので紺様の分はありませんよ?」
「そんなぁ‥‥‥」
あまりにも自然に“無い”と言われてしまう。それはありえないだろうと高を括っていると本当に出さない娘が鈴音である。紺をいじめるためには手段は問わない。
それを理解していた紺は思わず涙目になってしまった。二週間ぶりのおいなりさんで涙腺が少し緩くなっているのである。
「嘘です。ちゃんと朝食でお出ししますよ」
「我をいじめて‥‥‥楽しいよなぁ‥‥‥」
「ええ、ご存知の通りです」
諦めの色が強い言葉に対し、悪びれもなく同意する鈴音。紺は、もうどうしようもない段階まで育ってしまった事実に打ちひしがれながらも、幼い鈴音への懐かしさはさらなる行動を起こし続ける。
「‥‥‥‥‥‥腹を休めたら風呂に入るぞ。久々に我の背中を流せ」
「‥‥‥‥‥‥」
「なんだその目は?‥‥‥おかしいことを言った覚えは無いが‥‥‥って、何故我の耳と尻尾を触る?」
目を丸くしたと思ったら、ふらふらと紺のもとに近づき彼女の耳や尻尾をもふもふし始める。
気位の高い紺は髪は勿論、狐耳も尻尾も親しい身内以外には絶対に触らせない。
しかし、その繊細な部分を無遠慮に触っている鈴音に対しては、もはや何も言わずに好き勝手にさせている。幼少期から注意してもくじけることが無かったため既に諦めているからだ。
一通りもふもふし終えた鈴音は、黒くて艷やかな尻尾を手に乗せながら、今しがた確認した結果を口にする。
「この色艶、感触、さらさらもふもふ感‥‥‥本物の紺様ですね」
「疑われていたんか‥‥‥」
「匂いは‥‥‥‥‥‥あう」
「嗅ぐな」
真面目な顔で尻尾を顔に近づけようとした鈴音の頭に軽い手刀を入れる。ぽふっという軽い音ともに尻尾の匂い嗅ぎを中断させる事に成功した。
紺自身は恥ずかしいと言うことはないが、これ以上彼女には変な性癖に目覚めて欲しくないのである。そんな心遣いを知ってか知らずか、尻尾をゆっくりと手放し紺へと向き直る。目元にきらりと光るものが滲んでいたが、今のは言い逃れが出来ないほど鈴音が悪い。
「紺様に叩かれたぁ‥‥‥ぅぅ‥‥‥」
「今のは自業自得だ‥‥‥風呂の後は一緒の布団で寝てやるから、さっさと‥‥‥」
「お風呂の準備をしてきます」
「立ち直りが早いな‥‥‥」
涙目で悲しそうな表情を受かべていたかと思えば紺の一声で気を取り直し、すぐさま入浴の準備を始める鈴音。一緒にお風呂に入ることと同じ布団で眠る事が出来ることは彼女にとってなによりもご褒美なのであった。
◆ ◆ ◆
湯けむりが漂う中、ゆるやかな水音が続く。冷え切っていた訳では無いが、身体を湯に沈めると一気に身体が温まる。全身から疲れが取れる感覚とともに、心地よい脱力感が得も言えない快楽を与えてくれる。今までに数え切れない程経験してきた行為だが、決して飽きることは無いだろうと確信していた。
鈴音は入浴という行為が割と好きである。機会があれば紺と一緒に地方の温泉旅館にでも行きたいと思っていたが、実現するには中々骨が折れる事も理解していた。何しろ紺が首を縦に振るとは思えないからである。
紺は風呂が嫌いという訳では無いが、いざ入るとなると面倒臭さが勝ってしまう性質であった。別に入らなくても汚れないし、死にはしないと考えている節すらある。定期的に鈴音が無理矢理にでも入浴を促さないと入らない事が殆どであった。
そのため、紺の方から風呂に入ると言われた時は本当に驚いていたのである。
「‥‥‥珍しいですね」
「まあ、そうかもしれんな‥‥‥だが悪いことではあるまい?」
「ええ、今日をきっかけに、自発的にお風呂に入って頂けると更に嬉しいのですが」
「‥‥‥」
今日のように気まぐれで入ることもあるが、本来は風呂に入ること自体が面倒。肯定も否定もせずに押し黙っていると鈴音は更に言葉を続ける。
「汚れないことは分かっていますが、さっぱりした紺様も諦めきれないんですよ」
「汚れはないとはいえ、湯の心地よさや爽快感は我も自覚はしているが‥‥‥どうにも面倒でな‥‥‥髪も耳も尻尾も洗わないといけないし‥‥‥」
「その度にお手伝いさせてくれることには感謝しておりますよ?」
「‥‥‥感謝すべきは我だと思うが‥‥‥まあ、いいか‥‥‥今日は本当にきまぐれだ‥‥‥夕食前にも言ったが、鈴音の髪を結ってから懐かしい気分になってな」
「それなら毎日でも結ってくれても良いんですよ?そしてお風呂もお布団も‥‥‥」
「面倒だ‥‥‥それに、鈴音はもう1人で出来るだろう」
「むぅー‥‥‥ぶぶぶぶ‥‥‥」
鈴音による甲斐甲斐しい世話には感謝はしているが、それでも面倒な事には変わりは無い。鈴音が小さい頃は、彼女の身だしなみについて色々と面倒を見ていた覚えがあるが、今は1人で身の回りの事が出来ている。あえて手を出す必要も無いと、お湯の中に沈んでいく鈴音に伝えるが、彼女はまだ甘え足りないらしい。
「そんな顔をしても駄目だ。まったく‥‥‥大人になったかと思えば‥‥‥」
「大人にはなりましたが、紺様の前ではいつでも子どもです」
「甘やかし過ぎたか‥‥‥」
「足りないくらいです」
「••••••••••••」
「もっと甘やかしてくれても良いんですよ?」
「••••••••••••‥‥‥そうか」
自分なりに精一杯甘えさせたつもりではあったが、それでもまだ足りないと言う鈴音に対し、一寸だけ悪戯心が芽生える。
もう一柱の神様と同じ様に、神の一寸は時として人の予想を遥かに越えてしまうものである。
「紺様?何を••••••っ」
風呂の中を這うように、紺が鈴音もとへ近づく。
突然の行動に戸惑う鈴音は紺の行動の意図が分からず、無防備な姿を晒したまま―――それが紺の悪戯を許してしまった。
鈴音の隣から前のめりに身体を寄せ、鈴音の肩から腕にかけてしなだれかかる。手を彼女の背中に回し、そのまま体ごと自分のもとへと引き寄せると鈴音の顔と紺の顔が一気に距離を詰める。
―――身体の小さな紺が片腕の中に鈴音を抱える。見た目は紺が鈴音に抱きつくような格好。昔は両腕の間に彼女を入れてあげたが、体格が逆転してしまったためこのような形を取る。
だがそれでも紺には十分。身体と身体が密着していれば事足りるのである。
「何だ、子どもの頃はこうしてやっただろう?」
「••••••確かに、そう••••••ですが••••••」
鈴音の記憶とは少し違う態勢であったが、彼女の柔らかさや安心感には確かな覚えがあった。一瞬、幼い頃に戻ったかのような感覚に陥る。
しかし大人になった今は、密着している紺の美貌と肢体が自分にとっては強心剤のような劇薬でしかない。
幼い頃からずっと憧れていた彼女と肌を合わせているだけでなく、あまつさえ自身の身体に柔らかな掌とたおやかな指を這わせている。
「ふむ••••••気にする程、変わりは無いと思うが••••••」
「••••••あの、そろそろ••••••上がりませんか?」
肌を這う甘い刺激と自分のものよりも少し大きいものが重なる感触に頭が茹だる感覚に陥ってしまう。
視線を落とすと西洋の彫刻を彷彿とさせる美しく滑らかな裸体が広がっている。普通の女性に対しては興味すら湧かないが紺は別物である。女すら落としかねない魔性の魅力に対し、鈴音は早く湯から上がりたいと訴えることしか出来なかった―――だが、紺はそれすらも許さない。
「駄目だ。100を数えるまでは上がるなよ?」
「100なんて••••••保ちませんよ••••••」
「頑張れ••••••我の背丈を抜く前はきちんと100まで風呂に入っていただろ」
「その頃とは色々と違うと言いますか••••••」
「‥‥‥昔も今も、我の事が好きな事に変わりはあるまい?‥‥‥この顔も心も‥‥‥‥‥‥身体もな」
「••••••」
子どもに言い聞かせるような口調で100を数えろと言う。昔の鈴音なら無邪気に口にしていたことも、今の鈴音にとっては目を閉じながら針の穴に糸を通すかの如く難易度が高いものであった。
遠慮がちに抗議の声をあげるが、それをものともせず、一番気にしている核心部分を盾に詰め寄って来た。
一瞬だけ見えた、タオルで纏められた長い黒髪と肌の境目。首から鎖骨に掛けて流れる雫。熱で上気した頬に、紅い果実のような唇から漏れ出る吐息―――これらは紺の魅力の一端でしか無いが、今の鈴音にとっては、どれをとっても致命の刃となりうるものであった。
「ふふ••••••鈴音の事は誰よりも知っているからな••••••」
「••••••紺様、お許しを••••••」
全てを見透かされてしまった鈴音の心は限界。
感情という水が決壊を求めて杯の淵で丸みを帯びている感覚。
―――そこに紺は一滴の水を垂らす。
「ご希望通り、甘えさせてやろう‥‥‥おいで」
妖艶な瞳と極上の微笑み。
その顔を見た瞬間、抑えていた感情が一気に溢れてしまった。
「•••••••••••っ••••••」
瞳を閉じ、唇を固く引き結ぶ鈴音の目元から細い涙が流れていた。
「あっ‥‥‥」
十数年ぶりに見た感情の発露―――いつもの冗談ではなく、本気で泣かせてしまった。
悪戯のつもりが思わずやり過ぎてしまった事を悟る。慌てて身体を離し、彼女の様子を窺う。
鈴音は小さな嗚咽を上げながら、調子に乗りすぎていたと紺に謝罪していた。
「••••••••••••ごめんなさい、紺様••••••私、わがままを••••••」
「••••••••••••身体は温まったし、上がるか‥‥‥」
「••••••••••••はい」
鈴音の身体から離れた紺は先に湯船からあがり、鈴音の手を取って脱衣場へ向かう。髪と身体を拭いた後、何も語らずにお互いに寝間着へと着替えるのであった。
◆ ◆ ◆
「私をいじめて楽しいんですか?」
「楽しいというか••••••期待に応えようとしただけだが••••••」
着替えを終えた後、鈴音の強い希望で紺が彼女の髪を乾かし、櫛で整えていた。
理由はどうあれ、自分の行いのせいで彼女を泣かせてしまったため、流石の紺も素直に言うことを聞くしか無かった。
紺愛用の鏡台越しに”そろそろ機嫌を治してくれたかな“と顔色を窺うが、彼女はまだまだご機嫌ななめ。先に自分が悪いと謝っていた筈だがこの態度はいかに?と思う。しかし女心は秋の空である。何も言わずに受け止める紺の心は山よりも高く、海よりも深いのだ。
「辱められました••••••2回目ですよ」
「戯れが過ぎた事は謝る‥‥‥泣かせてしまった事もな‥‥‥‥‥‥だが、別に嫌ではなかっただろう?‥‥‥寧ろ‥‥‥」
一度受けた恥は決して忘れないもの。鈴音もその例に漏れず、数日前の事を含めてカウントしていた。
紺は小さく溜息をつき、先程の戯れを振り返る。結果的には泣いてしまったが、行為自体に忌避感は無いという確信はあった。何故なら紺には鈴音の事が良く分かる。良い所も悪い所も―――秘めていることでさえも。
「‥‥‥勿論ですが、私にも色々と準備というものがあるんです••••••‥‥‥あのまま恥ずかしさで死んでしまうかと思いました」
「‥‥‥むぅ‥‥‥それは困る」
未だに赤い頬を隠そうともせず、横目で紺を見つめながら呟く。
事実はどうあれ、鈴音の口から“死ぬ”と言われると紺は本気で困ってしまう。万が一、恥ずか死んでしまった場合は死に物狂いで蘇生させるつもりではあるが。
なんとなく居心地の悪さを感じ、もにょもにょしている彼女の姿があまりにも可愛らしく、そして可笑しく見えてしまい、鈴音は思わず小さく吹き出してしまった。
「ぷふっ‥‥‥申し訳ないと思う気持ちがあるのなら、お布団の中では私の抱き枕に徹してくださいね」
「結局そうなるのか‥‥‥今日だけだぞ」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「諦めが悪いな‥‥‥」
うんともすんとも言わずに黙り込む。今日だけで満足出来る筈が無いのである。
呆れている紺の視線から逃れるために、彼女の興味をそそる提案を持ちかける。
「とにかく‥‥‥今日は私の我儘を聞いて下さいね‥‥‥代わりにお風呂上がりのアイスを奉納致しますから」
「くっ‥‥‥寝る前のアイスめぇ‥‥‥」
和菓子や洋菓子だけでなく、氷菓子にも目がない紺は、鈴音の提案に一も二も無く陥落してしまった。
全ては風呂上がりのアイスの美味さが悪い。
◆ ◆ ◆
紺の部屋でアイスを食べながら鈴音の大学生活の話を聞いていた。
大学での一日や友人との交流、三毛猫と遊んだことなど様々な視点から語られる話は紺にとっては興味の薄い事柄だが、楽しそうに語る鈴音の顔は何度見ても飽きる事は無い。それだけ彼女が人生を謳歌している証拠。鈴音には言えないが、大学への進学を薦めた際は、彼女に余計な負担を押しつけてしまったかと少しだけ心配していたが、それが杞憂であったと理解する。
鈴音が楽しければそれで良いのだ。
「‥‥‥と、いう訳なのです」
「‥‥‥我としては鈴音の交友関係に口出しはせんが‥‥‥‥‥‥」
「ご心配には及びません。失礼にならないように断りましたから」
変わった事として大学の同級生や先輩から遊びに誘われた事を話していた。あくまで“遊び”ではあるが、その最終目的が鈴音であることを紺はすぐに理解していた。当然、鈴音も理解している。
紺としては鈴音が選んだ男なら特に文句は無い。強いて言うのであれば、変な奴は控えてもらいたいくらいだ。既に変な奴が1人いるので飽和状態になることは避けたかった。しかし鈴音は軽率に近づくことも愛想を振りまくこともしないことは分かっている。そも、あまり他の男には興味を持たない娘であった。学校での付き合いも知り合い以上友人未満といったところ。唯一の親友かつ、最有力旦那候補が既知の変な奴であるが、そいつは昔から知っている良い子なので危険では無い。変な奴だが。
「‥‥‥‥‥‥どんな言い方を?」
「心に決めた方がいるのでお受けできません、と」
「‥‥‥‥‥‥何故我を見る」
「分かっている癖に‥‥‥」
その場で相手に好意を確認した上でばっさりと切り捨てたという事は分かった。それでも波風立てずに済むのも、鈴音の振る舞いがなせる業である。
そこまで読み取る事の出来た紺は、鈴音の様子がおかしい事に気が付く。わざとらしく、もじもじとしながら熱っぽい視線を送っていたからだ。冗談半分ではあるが、残りの半分は本気ということが分かっているので始末に負えない。だが、今の紺には全く通用しない。
「はっ、軽い戯れで泣き出すような小娘に‥‥‥いや、泣くな済まん我が悪かったごめんなさい」
鼻で笑った瞬間、再び涙を流し始める鈴音。嘘のような本気の涙に紺は慌てて全面降伏する。
落ち着いたのは上辺だけ。紺に似て心は強いが、打たれ弱さも紺とそっくりである。
「次はありませんよ‥‥‥」
「爆弾みたいな扱い方をしないといかんのか‥‥‥?」
腫れ物と言うよりも、爆弾処理に近い心境で鈴音を見る。あまりの繊細さに戦々恐々である。
鈴音はびくびくしている紺を可愛いと思いながら、思わず流れてしまった涙を拭う。
思いがけず微妙になってしまった空気を払うため、前々から気になっていたことを思い切って相談してみることにした。
「‥‥‥それとは別に折り入ってご相談したいことがあるのですが‥‥‥2つほど」
「聞くだけ聞いてやろう」
紺の方も気まずい空気を払拭するため、鈴音の提案に乗ることにした。
「ありがとうございます‥‥‥相談というのは大学に憑いている三毛猫さんの事なのですが、どうやら最近暇を持て余しているようで‥‥‥」
「暇?‥‥‥元々大学で引きこもっていたような奴だろう。何故そのような事に‥‥‥あれか」
「傷を負ってからは大学で余生?を過ごしていたようですが、傷が癒えてからはそんな素振りは全く見せなくなりました‥‥‥私の膝に乗ってくれたり。猫じゃらしで遊んでくれる優しい猫さんです」
大学に憑いている三毛猫を思い出す。紺的にはややいけ好かない奴だが、まともに話した事が無いのでなんとも言えない。ただ猫というものは気まぐれで自由奔放なものである。そんな猫が自身を縛る傷が無くなったとなれば、再び本能のままに振る舞うことは容易に想像がついていた。
そこで調子に乗って悪さをするようであれば教育し直す事も辞さないが、鈴音とは割と良好な関係を築いている事から、それほど悪さをするような奴では無いと考えていた。
「傷は見た目以外完全に癒えておるからな‥‥‥で、鈴音はどうしたいと?」
「たまに神社に連れてきてもよろしいでしょうか?三毛猫さんから希望があれば、ですが‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥勝手にしろ」
結構考えたが一応許可は出す。あまり今の鈴音を刺激したくは無かった。泣かれても困る。
「ありがとうございます。三毛猫さんをお連れする際には紺様にも美味しいものをお出ししますからね」
「餌で釣られると思われているのか、我?‥‥‥まあ、貰えるのであれば貰うが‥‥‥‥‥‥それと、三毛猫には暇という以外変わりはないんだな?」
「はい、変わりなくお元気な様子ですが‥‥‥それが何か?」
「いや、何でも無い」
「そうですか‥‥‥では三毛猫さんの事はお許しを頂けたということで宜しいでしょうか?」
「思うところはあるが、我の言葉に二言は無い」
結果的には餌で抑え込まれた感は拭えないが、一度出した許可を撤回する気は無い。それに三毛猫にも少し気になる部分があった。直接目で見て確認する事も悪くは無い。
「ありがとうございます‥‥‥では2つ目のご相談ですが‥‥‥その‥‥‥」
「何だ?言いづらいことなのか」
「‥‥‥‥‥‥もう少し先の話ですが、お休みを使って紺様と温泉旅行に行きたいなあと思いまして‥‥‥どうでしょうか?」
「温泉旅行か‥‥‥」
「駄目、でしょうか?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥考えておいてやる」
温泉旅行―――正直紺にとっては面倒臭さが勝ってしまう。しかし鈴音のお風呂好きを知っている紺は彼女の提案を無下には出来ない。なにより彼女と行く旅行というものにも興味はあった。色々な事を踏まえて長考し、肯定寄りの答えを鈴音に示していた。
「ありがとうございます。では、丁度よい時期が来ましたらまたお話させて頂きますね」
「ふん‥‥‥期待はするなよ」
「それはもう期待します」
「‥‥‥はぁぁ‥‥‥‥‥‥話はこれで終わりか?‥‥‥なら歯を磨いてから寝るぞ。明日も早いからな」
鈴音の中では既に紺と温泉に浸かっている所まで想像している。それだけ期待が大きい事を紺は知りつつ、とりあえず寝床へと誘導することにした。あまり夜更しをしていると鈴音の美容と健康に悪い。
「眠れるかしら‥‥‥紺様と一緒に寝るとなると寝不足になりそうです」
「いつも布団に入ったら5分で寝るだろうに‥‥‥ほら、さっさと磨いてこい」
「はい、直ぐに戻りますね」
「丁寧に磨いてこい‥‥‥」
「‥‥‥今日もまた、いつもと変わらぬ一日であったな‥‥‥」
紺は部屋から丁寧にかつ素早く飛び出ていく鈴音を見送り、静かになった部屋で一人呟く。
いつもと変わらず賑やかで平和な一日であったと結論付けていた。




