第二十九話『犬飼雲雀の筋肉』
犬飼雲雀の朝は早い。
日が昇る前に起床し、朝の身支度を始める。
今日は自身の身だしなみを整えたら朝食の確認と軽い下準備を行い、ほどよい時間に貉を起こす予定だ。
何年も続く習慣。いつもと変わらない日常が始まると思っていた。
―――身支度の為に洗面台の前に立つまでは。
「‥‥‥‥‥‥あれ?」
鏡に映る自分の姿に違和感を感じる。
それもその筈。何故なら‥‥‥
―――――そこには寝間着がはちきれんばかりの肉体があった。
「‥‥‥‥‥‥いや、まさかな‥‥‥」
寝ぼけているのだろうかと思い、先に顔だけ洗って意識を完全に覚醒させる。
冷水でしゃきっとした目で鏡に映る自分を見る。
―――――そこには寝間着がはちきれんばかりの肉体があった。
「‥‥‥‥‥‥成長期か?」
目の前の光景が信じられず、思い当たる単語を呟いてみる。しかし雲雀の成長期は高校を卒業する前には終焉を迎えている。
「‥‥‥ふふ」
とりあえず笑ってみる。鏡の男もにっこりだ。
―――――そこには寝間着が(以下略)
思わず顔に手を当てながら天井を仰ぎ見る。
ここでようやく事態を飲み込む事が出来た。
「‥‥‥‥‥‥あの梅干しかぁ‥‥‥」
以前、猫宮神社の宝物殿で発見した貉謹製の400年物の梅干し。それが原因であった。
◆ ◆ ◆
「ご立派様じゃのぉ‥‥‥」
「その言い方はちょっと‥‥‥」
「‥‥‥んー?‥‥‥雲雀の身体の事じゃが‥‥‥変な言い方だったかのぉ‥‥‥」
「あ、いえ、何でもないです‥‥‥」
筋肉隆々となった雲雀を見た貉は開口一番に誤解を招きかねない言葉を発する。彼女は漫画で見た知識を活用しているだけに過ぎないが、今の雲雀にとってはセンシティブな発言であった。
「それよりも、我ながらとんでもない効果があったものじゃのぉ‥‥‥他の者はどうじゃ?美鞠とか正嗣とか‥‥‥」
「2人はなんともないみたいです‥‥‥それよりも俺の身体を見ても驚きもしなかったのですが、あれは何故でしょうか?」
異変に気が付いた後、別室にいる両親の様子を窺うが彼等には特に変化は無かった。既に起きていた2人は雲雀の身体を見ても驚かず、いつものように挨拶をしてくれていた。
『まあ‥‥‥貉様も居るからねぇ‥‥‥』
美鞠が呟き、正嗣が静かに深く頷いていた。
それ以上は目新しい反応が無いと判断した雲雀は、そのまま貉のいる離れに向かっていた。
「あの2人にも色々とあったんじゃ‥‥‥特に美鞠にのぉ‥‥‥」
「あー‥‥‥」
現在の雲雀と同様に、美鞠も貉とは長い付き合いである。犬飼家のしきたりで直接顔を合わせる機会は少なくなったが、それでもたまに2人で当時の話に花を咲かせる事もあった。
ちなみに犬飼家全員、貉とは仲良しである。
「‥‥‥話を元に戻しますが、俺の身体って元に戻るのでしょうか?」
「‥‥‥見た所、少し時間は掛かるようだが元には戻るじゃろ‥‥‥‥‥‥多分」
「結構不便なんですよね‥‥‥動く度に身体が引っ掛かりますし」
「‥‥‥‥‥‥ぷふっ」
「‥‥‥‥‥‥」
困った表情を浮かべる雲雀に対し、貉は笑いを抑えきれない。
それもその筈、雲雀の大胸筋から僧帽筋は内なる力を持て余しているかのごとく、ぱっつんぱっつん。ひねると三角筋から上腕二頭筋、上腕三頭筋側の作務衣が悲鳴をあげる。筋肉がキレているどころか、ぶちぶちと縫い糸が切れる始末。
ボディビルダーであれば誉れだが、生憎雲雀は僧侶志望の大学生。普段の彼を知る者であれば、緑色の大男と遜色ない姿になりおおせている雲雀を見て笑わぬ者はいないのである。笑われている雲雀は瞳に光を失っているが。
「あ、すまん。その時の雲雀を想像したらついの‥‥‥それと雲雀の話で思い出したが、鈴音達は大丈夫なのかの?‥‥‥望まぬ形で雲雀と同じ様になっていたら鈴音が可愛そうじゃ」
「それは大丈夫みたいですね。ここに来る前に連絡を入れたら返信が返ってきていました」
犬飼家はともかく、猫宮家の住人には迷惑を掛けたくはない。特に鈴音のような年若い女性に余計な心配や不安を与えたく無かった。
貉に指摘される前に確認を取っていた雲雀は、猫宮家の住人の無事を知らせるメッセージ画面を彼女に見せる。
『私や家族にも異常は無いみたい。梅干しも美味しいし、そのまま残りも食べるつもりだけど。それよりも写真で撮って送って頂戴。筋肉達磨の雲雀君を見てみたいわ』
「‥‥‥写真は、送ったのか?」
”鈴音も大概変な娘よのぉ“と思いつつ、先方の希望に応えたのかと問う。
「ええ、送りましたよ‥‥‥あ、返信が来ましたね、どれどれ‥‥‥‥‥‥ぅぉぉぉぉん‥‥‥」
「‥‥‥おぉ、揺れたのぉ‥‥‥で、どうしたんじゃ一体?」
「‥‥‥」
貉との会話中に届いた返信を確認した雲雀は絶望に顔を歪ませながら近くの柱にもたれかかるようにうなだれていた。反省している猿を連想させる姿だが、そのような可愛いものでは無い。雲雀の筋肉に耐えきれず、柱ごと家屋が揺れたからだ。
震度3くらいの揺れでも動じず、雲雀の行動の意図を探る貉。震える手で差し出されたスマートフォンの画面にはその答えが表示されていた。
『私はぎりぎり許容範囲だけど、紺様は駄目かもしれないわ。今の雲雀君を見たら怖がっちゃうかも』
「‥‥‥‥‥‥あやつ、神だよな?」
あまりの情けなさに、本当に自分と同じ存在であるのだろうかという疑問が浮かぶ。
紺がその場に居たら間違いなく文句を言う場面だろうなと思うが、どちらかというと筋肉に怯えて部屋の隅でぷるぷる震えている画が容易に想像出来る紺が悪いという考えに至る。
ふと意識を雲雀に向けると、彼は床に倒れ込んだ状態に移行しており、ひたすら独り言のような呟きを繰り返していた。
「‥‥‥‥‥‥紺様にお目見え出来ない人生なんて‥‥‥砂糖抜きの甘酒みたいなものですよ‥‥‥」
「只の酒粕汁じゃのぉ‥‥‥って、訳分からん事を言うでない。頭まで変になってしまったか‥‥‥いや、紺に会えない事実が雲雀を狂わせてしまったのか‥‥‥」
「俺には最愛の貉様がいますが‥‥‥それでも一度紺様を知ってしまったら、知らなかった自分には戻れません‥‥‥っ!」
「その身体で変な事を言うなよぉ‥‥‥儂でもちょっと怖い」
”紺も罪づくりな女よのぉ“と他人事のように思いつつ、ブルドーザーが走る山みたいな巨体を小刻みに震わせながら、気色の悪いことをのたまっている雲雀に対し”儂でもちょっと怖い“と率直な感想をぼやく。
裏も悪意も無い、ただの感想であったが、今の雲雀の背中を押すには十分過ぎる言霊であった。
雲雀は静かにその場から立ち上がり、死んだ瞳で覚悟を決める。
「うん、死のうかな」
「すまん。嘘じゃ。やめれ。儂も雲雀が大好きじゃ」
死ぬ運命に収束し始めた雲雀の身体に抱きつき、彼の暴走を止める。自身の漬けた梅干しが原因で若い命を散らせたくは無い。割と必死で謝意と好意を示す貉に対し、雲雀は晴れ晴れとした微笑みで言葉を変える。
「あぁ‥‥‥死ぬには良い日だ‥‥‥!」
「今日ほど儂と紺の存在が厄介だと感じたことは無いわい‥‥‥‥‥‥力強っ!?」
ややどんよりとした曇り空を見つめながら、死んだ魚のような目で爽やかな笑みを浮かべる雲雀。
”ここで引き止めねば雲雀は死ぬぅ!“と内心かなり焦りながら、死へとずんずん突き進む彼の身体をなんとか押し留めていた。
―――――その頃、猫宮神社にて。
「へくち」
「風邪ですか?」
「いや、引くはずが無いだろう‥‥‥」
可愛らしいくしゃみとともに、てろーんと飛び出た鼻水とティッシュで拭き取る紺。ちーんと鼻をかむ姿がなんとも愛らしい。さりげなくデジタルカメラで撮影してしまった程である。
「紺様はお強いですものね」
「ふっ‥‥‥我は齢千を超える猫宮の神であるぞ。強い事は当然であろうに‥‥‥」
威厳たっぷりのまま背後にあるゴミ箱を見ずに、丸めた鼻紙を格好良く投げる。きちんと入ったか、ちらりと横目で見る所に愛嬌を感じる。
残念な事に鼻紙はゴミ箱から30cm程離れた場所に落ちてしまったため、そそくさと四つん這いで拾いに行く紺。はいはいする赤ちゃんを眺める母親の気分でカメラのシャッターを連射する鈴音。これだけで今日のノルマは達成(?)だ。
一通り満足した鈴音は、直前の質問に絡めて目的の言葉を引き出しに掛かる。いきなり見せるよりも、相手に受け止める態勢を取らせた方がダメージが少ないからである。
「‥‥‥紺様には怖いものとかってあるんですか?」
「何を言い出すかと思えば‥‥‥我に怖いものなどは‥‥‥‥‥‥‥‥‥無いな」
「凄く考えましたね?」
「‥‥‥‥‥‥全く無いとは言い切れんな」
「正直な紺様格好良い」
「ふっ‥‥‥強みも弱みも全て飲み込むのが神よ」
何者に対しても臆さず立ち向かう事が出来る紺であっても怖いものは幾つかある。現在、その代表格である鈴音を盗み見ながら、偉そうな態度を崩さず正直に答える。
虚勢を張るよりも、そちらの方がより威厳がありそうだからだ。
調子の上がってきた紺を見届けた鈴音は”今ならいけるかしら?“と判断し、問題の画像を見せる事にした。
「ではこちらはどうでしょうか?」
「今日の鈴音は何だか変だぞ?我に何を見せるつもり‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥紺様?」
鈴音の突飛な行動に対して怪訝な表情を浮かべながら、差し出されたスマートフォンの画面を覗き込む。
画面を見た瞬間、息を呑む音とともに彼女の動きが止まる。そして10秒経過した後、油の切れたゼンマイ人形のごとくぎこちない動きで画像の人物を指し示す。
「‥‥‥‥‥‥この雲雀らしきものはなんだ?」
「雲雀君です。貉様の梅干しを食べたらこうなったそうです」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥紺様的には‥‥‥あり、ですか?」
目を見開いたまま言葉を失ってしまった紺。受け入れてくれるかどうか紺の審判を待つこと3秒。彼女は目に涙を溜めながら、画像の男に対する致命の一言を呟いていた。
「やだ、むりぃ‥‥‥こんなのひばりじゃない‥‥‥」
―――――同時刻、犬飼寺にて。
「ごっふぉっ!!?‥‥‥がひゅぅ‥‥‥びひゅぅ‥‥‥」
「ひばりぃっ!?」
近所にいる大好きな狐神様から拒絶の一言の気配を感じ取った雲雀は、消化器系の臓器に深刻なダメージを受けて前のめりに倒れてしまった。胃から滲み出た血液が吐血となって雲雀の口から勢いよく流れ出す。流石の貉もびっくりである。
「‥‥‥貉様‥‥‥今迄‥‥‥本当にありがとうございました‥‥‥‥‥‥」
「儂を遺して逝くなぁっ!!まだ早い、まだ早い!」
瞳から少しずつ光を失う雲雀と、彼を抱き上げながら”戻ってこーい!“と焦る貉。と映画の主要人物が死ぬ時のような光景―――傍から見たら完全に手遅れである。
―――――その頃、雲雀の容態が急変した事を知らない猫宮神社。
「どうしても無理ですか?‥‥‥雲雀君、泣きますよ?」
「その前に我の心が保たないよぉ‥‥‥こわい」
鈴音と共に小さな頃から見守ってきた雲雀の急激な変化に耐えられなかった。
素直では無いが、紺も雲雀が大好きなのである。だからこそ一夜で筋肉隆々男になってしまった雲雀を認められない。顔から上は雲雀、下は緑色の大男―――紺は正直怖かった。
―――――その場にいないはずの紺の様子を第六感で感じ取り、己の死期を悟った雲雀。
「‥‥‥我が心、常に狸と、共にあり、最期はせめて、傍で逝きたい‥‥‥」
「辞世の句を詠むでないっ、それと句のセンスが無いぞ!?」
枯れ果てた雰囲気を醸し出しながら辞世の句を詠い始めた雲雀に対し、そろそろ限界を感じる貉。
腕の中の身体から何かが抜け出していく錯覚に陥る。雲雀の頭上に天使のようなものがうろついているが、きっと気のせいであろう。
「‥‥‥分かるんです‥‥‥‥‥‥俺は今‥‥‥紺様に見放されて‥‥‥」
「えぇい!まどろこっしい‥‥‥ほれっ」
まともに相手をしていたらキリがないと考えた貉は、一か八かの賭けに出る。
”ぽん“と小さな音と煙の後に、貉の頭から狸耳が生えていた。その姿を目の当たりにした雲雀の瞳に光が戻り始める。顔色の血色とともに、僅かではあるが生気を取り戻していた。
「ふゎぁ‥‥‥最期の景色に相応しいなぁ‥‥‥」
「生き延びたらこの姿で添い寝してやるぞ?」
「‥‥‥‥‥‥もう少しだけ、生きていようかなぁ‥‥‥」
「よし、延命完了‥‥‥次は奴じゃ‥‥‥」
狸耳の貉と添い寝―――所謂ショック療法であるが、これが自動体外式除細動器のような効果を発揮した。
途切れかけた命脈をなんとか繋ぎ止める事が出来た貉は、状況を打開する為にもう一柱の神に助けを請うことにした。
◆ ◆ ◆
頭を抱えて丸くなってしまった紺と困り果ててしまった鈴音。とりあえず写真には収めたが、怯えて動かなくなってしまった紺をどうしようと考えていた所、境内の方から葉と土埃を巻き込む旋風とともに貉が姿を現していた。
「突然で済まん‥‥‥鈴音、紺‥‥‥」
「っわあ?‥‥‥なんだいきなり。術まで使いおって何事だ」
「あ、貉様。おはようございます」
「おはよう鈴音。っと‥‥‥紺よ、頼みがある‥‥‥」
「早朝から土足で上がりこんでおいて頼みとは‥‥‥‥‥‥って、まさか‥‥‥」
術を使ってまで神社を訪れた貉を見て、紺はようやく正気を取り戻す。火急の用事がある事を理解しつつも、ストレス解消のため文句の一つでも言ってやろうと考えた瞬間、紺の中で全ての線が繋がった。その動揺を察知した貉は、彼女を問い詰めるかのように低い声で語りかける。
「‥‥‥心当たりがあるんじゃな?」
「ほら‥‥‥紺様が雲雀君の事を怖がるから‥‥‥」
「いやいや、確かにあの雲雀は無いだろっ‥‥‥我が知っている雲雀はあんなに怖くは‥‥‥」
「お前がそう思うだけで雲雀には致命傷なんじゃ‥‥‥」
事情を把握した上でなお、筋肉達磨を認めたくない紺に対し、貉は時間が惜しいと言わんばかりに歯噛みしながら拳に力を込める。二柱の神様に拒絶された雲雀がどうなるのか手に取るように分かってしまう鈴音は、すぐさま貉の援護に回る。
「貉様は勿論、紺様に拒絶されたら雲雀君は瀕死になっちゃいますよ?」
「何年雲雀と顔を合わせておるんじゃ。お前も良く分かっているじゃろうに」
「嘘だろう?‥‥‥いや、まさかな‥‥‥い、いや‥‥‥そんな‥‥‥ぅぅ‥‥‥‥‥‥そうかも、しれない‥‥‥」
あまり認めたくは無いが、拒絶した際の雲雀の様子が容易に想像できてしまった。衰弱死するか、俗世から離れて即身仏となるかの二択。どうしようも無いのである。
「お前も来い‥‥‥雲雀の命が懸かっておるのでな‥‥‥」
「い、いやじゃ‥‥‥嫌じゃあ!‥‥‥我はあの雲雀は認めんぞぉ!?どうせ放っておいても雲雀は死なんし、我も死にとうない(?)‥‥‥‥‥‥って、本気か貴様ぁ!?」
逃げようとした紺の肩を、ゆらりとした動きで掴む貉。筋肉山脈を直視したくない紺は、彼女の手から必死で逃れようとするが、いかなる行動を取ろうとも何故か振り払う事が出来なかった。
「‥‥‥お前の身体はたった今掌握した‥‥‥儂の体術は誰よりも知っておろう?」
「ひぇっ‥‥‥」
恐る恐る振り向いた先には、かつて本気で殺し合った時の片鱗を感じさせる貉がいた。菩薩のように穏やかな表情であるが”逃さんぞ?“という有無を言わさぬ強い意思があった。
「儂だけでなくお前の力があれば一瞬で済む‥‥‥さっさと来るんじゃぁ‥‥‥」
「嫌だぁ‥‥‥助けて、鈴音ぇっ‥‥‥!」
肩を掴まれたまま境内の方へずるずると引きずられていく紺。神社は自分の縄張りであるが、どうにもこうにも雲雀と貉への恐怖が勝ってしまい、まともな抵抗が出来ていなかった。
じたばたしても少しずつ遠ざかる自室。そこで佇んでいる鈴音に向けて手を伸ばし、恥も外聞も捨てて助けを求める。
誇りを擲った事が功を奏したのか、鈴音は紺を追いかけるように縁側まで進み―――
「いってらっしゃいませ、紺様」
手を振って見送りをしていた。
―――つまり、鈴音に見捨てられたのである。
「裏切りおったなぁっ!?」
紺の悲痛な叫びの余韻を残し、神社から姿が消える。二柱の神様の力を持ってすれば5分もかからず異変は収束する事は確実であった。
「‥‥‥‥‥‥紺様、大丈夫かな‥‥‥トラウマにならないと良いのだけれど」
縁側で煎餅をかじり、お茶を啜る。とても美味しい。
「今日も平和ね‥‥‥」
“うわぁぁん、こんなのひばりじゃない、きんにくのばけものだよぉ、こわいよー”
“泣くな阿呆狐っ、お前のせいで心の臓が止まってしまったじゃろ、って、あぁっ魂が天にっ、まだ逝くな雲雀ぃぃっ!”
近所で聞き覚えのある神様達の悲鳴が聞こえた気がしたが、気にしないことにした。
―――平和とは誰かの犠牲の上で成り立っているものである。
「どんな事があっても、今を精一杯生きていかないといけませんね‥‥‥紺様がんばれー」
―――――日々是好日なり。
◆ ◆ ◆
二柱の神様の力により雲雀の筋肉は正気を取り戻した。つまりいつも通りの雲雀に戻ったのである。ちなみに二柱の神様の尽力により、梅干しの力に対して過剰な反応を起こさないようになった。
雲雀は身体が元に戻り、不便や紺への印象回復が出来た事に対する安堵と喜びで、無事生き延びる事が出来た。
紺は畏れを受けていた頃の貉の片鱗と雲雀の筋肉、そして鈴音の裏切りにより心に傷を負っていたが、雲雀が元に戻れたことを喜んでいた。
今回の元凶ともいえる貉は、雲雀と紺が喜ぶ姿を見て誰よりも深く安堵していた。
『今回は本気で危なかった‥‥‥梅干しが原因で死なれたら笑い事では‥‥‥‥‥‥いや、あやつなら笑うのぉ‥‥‥‥‥‥はぁ、犬飼家の人間は変な奴しかおらんのか‥‥‥』
自分が漬けた梅干しが原因で死なれてしまっては雲雀の先祖に申し訳が立たない。
だが手の届かない遠くの世界で、梅干しを託した男が酒を飲みながら爆笑している気もしていたが。
『みんな貉様の母性と魅力に狂わされただけなんですよ、きっと』
『えぇ‥‥‥?』
変な奴の子孫も、また変な奴であった。
『貉様、添い寝の約束を忘れないで下さいね‥‥‥後で相応のお礼はしますから‥‥‥』
『儂が原因なのに‥‥‥律儀じゃのぉ‥‥‥』
とぼとぼ神社に戻っていく紺の背中を見送りながら貉と雲雀はそんな会話を交わしていた。
―――それが昨日。
時間は進み、現在に至る。
狸耳だけを表出させた貉は、雲雀が事前に用意していた大きめのハンチングキャップを被っていた。
直接見ると刺激が強いため、帽子の下に存在する狸耳を想像することで満足感を得る―――今の雲雀が受け止められる事の出来る限界。
ちなみに尻尾は雲雀が丁重にお断りしていた。
”ある“だけで雲雀の心臓が停止しかねないからだ。
「あぁぁ‥‥‥むじなさまにおぼれるぅ‥‥‥」
「添い寝は良いが、お口を閉じてくれんかの?‥‥‥流石の儂も、ちと怖い‥‥‥」
「貉様の帽子の下には麗しの狸耳が‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥こうなったのも儂のせいなのかのぉ‥‥‥はぁぁ‥‥‥」
自分から交わした約束事とはいえ何だか気持ち悪い反応を見せる雲雀に対し、製造者責任を感じてしまう貉。
もとはといえば自分に責任があるので文句も言えず、ひたすら雲雀が満足するまで付き合うことにした。
「ぁぁぁ‥‥‥ぁぁ‥‥‥すぅ‥‥‥すぅ‥‥‥」
「‥‥‥布団に入ると直ぐに寝る‥‥‥‥‥‥ここらへんは子どもの頃と変わらんのぉ‥‥‥」
布団に入ってから10分。雲雀は一足先に眠りの世界に旅立ってしまった。穏やかな表情で静かな寝息を立てている姿には何度も見覚えがある。
「寝顔も変わらん‥‥‥‥‥‥大人になった雲雀との添い寝も‥‥‥また良いものじゃのぉ‥‥‥」
貉の布団で仲良く並んで昼寝をする。
十数年振りの添い寝だが、思ったよりもほんわかした雰囲気で過ごすことが出来て、中々に心地良い時間であった。
◆ ◆ ◆
雲雀の異変解決に一役買った神様はもう一柱存在する。
貉と一緒に雲雀の異変を解決した日。
紺は、雲雀を助けた礼の代わりに新たな心の傷を引っ提げて帰ってきた。
その日は何も言わずに自室に戻り、ベッドの布団に潜り込んでいた。声を掛けても”やだ、こわい“と小さく答えるだけで出てこない。仕方がないのでお手軽なごはんとお菓子を置いておいたらいつの間にか無くなっていた。食欲があることに安心しつつ、そのまま放置することにした。
翌日に部屋を訪れた所、布団を宿に紺つむり(UR)に進化していた紺の姿を、たまたま持っていたデジタルカメラで思わず撮影してしまったが、誰も責めることは出来ないだろう。なお紺つむりは、ぱふっと顔を隠してしまった‥‥‥油揚げを使った朝ごはんで紺をおびき出し、事なきを得たが。
そんなこんなで朝食を済ませ、紺と仲良く縁側でお茶を愉しむ事にした。
「一晩経ちましたが‥‥‥紺様、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない。筋肉怖い」
「‥‥‥怖いものはそうそう無かったのでは?」
「雲雀の筋肉が怖い」
「あー‥‥‥受け止めきれなかったんですねぇ‥‥‥」
一晩経っても心の傷は癒えなかったらしい。
自発的に鈴音の膝の上に乗って来た時から予想はしていた。
この行動は鈴音が紺の身長を越えた頃から始まった。ごはんやおやつを抜きにされた時や処理しきれない問題に直面し、一時的に威厳が何処かへ飛んでいった時に起きる現象である。
人肌を恋しがると同時に鈴音を逃さないという強い意思を感じさせる攻防一体の構え―――永い時を過ごした狐神の智慧の真髄なのである。
「まあ、そのおかげで私はとっても幸せなんですけれども‥‥‥」
「裏切った鈴音も怖い」
「‥‥‥紺様、それ以上は死んでしまいます‥‥‥」
「死んだら駄目。許さんぞ」
「‥‥‥‥‥‥」
ぷるぷる震えながら鈴音の腕をぎゅっと握る紺。
紺の発言と可愛らしさに意識が遠のくが、なんとか踏ん張る。こんな可愛いものを置いて逝くことは出来ない。
とりあえず、膝の上にいる小さくて可愛いものを抱きしめる‥‥‥柔らかくて良い匂い。
―――――鈴音も紺譲りの強い精神力の持ち主であった。




