第二十一話『犬飼貉の減量』
とある日。パステルカラーの青空に程よい雲が浮かんでいた。暖かな陽気に爽やかな風が吹き抜ける。
そんなお昼寝日和の犬飼寺の離れでは一柱の神様が自然体で身体を横たえていた。穏やかな視線は人間の叡智に注がれ、手には長きに渡り磨かれた手仕事の結晶が握られている。
「‥‥‥平和じゃ」
目に見える争いが絶えて久しい現代。世界の何処かでは今も燻り続けていたり、時々炎上することもあるが、少なくとも貉が見ている範囲では起こる可能性は低い。
内外で小競り合いはあれど、日の目に当たらぬ場所で支える人間達の尽力によってこの世界は守られているのであった。
「人の争いに‥‥‥絶対的な正義はないからのぉ」
真理のような言葉を呟く。人が語るにはあまりにも重い言葉であるが、人の世を俯瞰で眺めることの出来る貉にとってはあまりにも儚い言葉である。尊重はするが、さして重要なものでもない。
勝手に産まれ、自由に生き、自然に死ねば良い。その程度の感覚。神の尺度はあまりにも遠大なものなのである。
「ま、それを愛でるも壊すも神次第よ‥‥‥のう‥‥‥雲雀や?」
大いなる存在である神が矮小な人間に問う。
人間は神への問いに対し、真正面から答えを告げた。
「はいはい‥‥‥それより、いつまでもごろごろしていないで境内の掃除を手伝ってくださいよ」
「‥‥‥‥‥‥儂、神っぽい事を言ったつもりなんじゃが‥‥‥」
「神様でも働かざるもの食うべからずです‥‥‥おやつとごはん、いらないんですね?」
「‥‥‥‥‥‥そ、それだけはご勘弁を‥‥‥手伝うからぁ‥‥‥」
先程までの威厳が貉の中で音を立てて萎む。神とはいえ、ごはんとおやつを抜きにされては堪ったものでは無い。
無料動画の画面を閉じながら、手に持っていたどら焼きの残りを口に放り込む。至福の一時は終わりを告げた。
「よっこいしょ‥‥‥はぁ、めんどくさいのぉ‥‥‥ふぅ‥‥‥」
貉はだらけきった身体を起こす。重力に従ってぱさりと動いた作務衣。その隙間から見える肌を雲雀は見逃さなかった。
「‥‥‥‥‥‥貉様、俺の目に狂いがなければなんですが‥‥‥」
「ぬ?‥‥‥なんじゃ、突然畏まりおって?」
立ち上がろうとする貉を手で制し、そのまま座っていて欲しいと暗に伝える。
怪訝な表情を浮かべる貉を尻目に、雲雀も畳の上に座りながら居住まいを正す。そして、告げる。
「‥‥‥太りましたね」
「‥‥‥‥‥‥えっ?」
―――空気が凍る。
暖かな陽気が降り注ぐお昼寝日和であった筈が、雲雀の一言で全ての熱と精彩を失う。
「太りましたね」
「‥‥‥いやいや‥‥‥い、いや、そんなことは‥‥‥」
「太りましたよ」
2度、3度と言葉の刃が貉を襲う。
過去に数え切れない程の剣客と立ち会い、その全てにおいてほぼ無傷で打破してきた貉であったが、無慈悲な言葉の刃だけは受け流すことは出来なかった。
「‥‥‥儂、神ぞ?‥‥‥まさかそんな‥‥‥」
「現実を、見ましょう‥‥‥」
現実を直視出来ずに引きつった笑みを浮かべる貉であったが、あまりにも透明度の高い雲雀の微笑みと“現実”という言葉により心のダムが決壊してしまった。
「‥‥‥ゃ」
「‥‥‥貉様」
「いやじゃぁぁっ!!儂、太ってないもん!?」
どたばたと後退り、部屋の隅っこに畳まれていた布団を頭から被る。認めたくない気持ちとは裏腹に、心当たりは際限無く脳裏に浮かぶ。
“日がな一日、紺に教えて貰った海外ドラマを鑑賞しつつ、雲雀から貰ったおやつを頬張る自分”
“運動がてら頼まれた境内の掃除を式神に任せていた自分”
“鈴音と裏取引(抱っこで団子2本提供)を行い、雲雀に隠れて甘味を貪っていた自分”
その全ての貉が今の貉に収束する。
―――――結果として。
「‥‥‥全部、乳にいくから大丈夫なんじゃあ!」
布団の中からくぐもった悲鳴が聞こえる。
豊穣の化身ともいえる貉の言葉には確かな説得力がある。さらしを押し返してあまりある胸はその証拠だ。しかし残念ながら彼女の成長期は当の昔に終わりを迎えている。結果として余剰分の栄養は肉体の中でも変動する部分に蓄積される―――その名も贅肉。
貉の腕、腹、尻、脚‥‥‥その全てが以前よりもむっちりしている事を雲雀は見逃さなかった。
それを直接指摘したところで天岩戸(おふとん)から姿を表さないことは明白。
それなら、と最後の手段に手を掛ける。
「‥‥‥‥‥‥あ、鈴音?悪いんだけど今から貉様‥‥‥」
「それだけは勘弁してください‥‥‥」
「‥‥‥とお出かけに行ってくるよ。突然連絡して悪かった。今度貉様を貸し出すから紺様を貸してくれると嬉しいな‥‥‥それじゃあ」
時代が変われば神をおびき出す方法も変わるものである。今は踊りよりも電子機器を使った脅しの方が効率が良い。
鈴音と紺に事情を話して協力を得ようと画策するが、貉的には最も嫌なことらしい。鈴音も紺も貉をいじれるネタを掴んだら容赦はしないのだ。
泣きそうな顔で足元に縋り付く貉を見下ろしながら、鈴音との連絡を終える。
「‥‥‥年寄りとはいえ、儂だって女だぞ‥‥‥体重はデリケートな話題なんじゃぞ‥‥‥」
「では、ダイエットを始めましょうか。当然、おやつも抜きです」
「ミ"ッ」
羞恥心で頬を染める貉の表情を堪能しながら冷たい現実を叩きつける。こうかはばつぐんだ。
堕落しきった今の貉にとって運動とおやつ抜きは
なによりも耐え難い仕打ちであったのだ。
◆ ◆ ◆
町外れにある土手を走る影が2つ。貉と雲雀である。貉は紺色のジャージ、雲雀は黒色のジャージに身を包んでいた。普段から身体を動かしている雲雀の足取りは軽やかであり、乱れぬ呼吸は余裕すら感じられる。
一方、貉は長年の堕落した生活が祟り、すっかり身体が錆びきってしまっていた。犬飼寺から大きく迂回し、田畑を越えて河川敷に沿って走り込みをしていたが、既に貉は息も絶え絶えである。
喘鳴のような吐息を漏らし、汗と涙と涎を滲ませながら必死に雲雀の後ろについていく。
「ひぃ‥‥‥ひょぇ‥‥‥ぴぃぃ‥‥‥」
「貉様、頑張って下さい」
「ひゃぁぇ‥‥‥がっ‥‥‥はひゅぅ‥‥‥がんばっとるわい‥‥‥ふへぇ‥‥‥」
雲雀の言葉に対し、死にものぐるいで返答するが、その声はあまりにもか細く掠れ切った情けないものであった。
「あともう少しですよ」
「おうち‥‥‥みえないよぉ‥‥‥」
「折返しですよ?」
「まだ半分も行ってないのぉ‥‥‥もう、だめじゃぁ‥‥‥おしまいじゃぁ‥‥‥」
雲雀は背後から聞こえる声のトーンで貉の心がぽっきり折れてしまった事を悟る。少しずつ速度を落としてから背後へ振り返ると、遠くの方で立ち止まっている貉の姿が見えた。
両膝に乗せた手で上半身の体重を支えながら、肩で呼吸をしている。ゆっくりと近づき、腰に取り付けていたボトルを貉へ手渡す。
「少し休憩しましょうか。無理は禁物ですからね」
「み、みずぅ‥‥‥んっ、んくっ、んんっ‥‥‥ぷはぁ‥‥‥はぁ‥‥‥そこの野っぱらで‥‥‥はぁぁ‥‥‥‥‥‥休ませてくれぇ‥‥‥」
「そうしましょうか」
ボトルを受け取り、中身のドリンクを飲み干す。
空になったボトルを雲雀へ突き返し、そのまま河川敷の草の上で大の字になる。
「あー‥‥‥草が気持ちいいのぉ‥‥‥うごきたくなーい‥‥‥」
「動かないと鈴音と紺様に言いますよ?」
「そ、それだけは‥‥‥お慈悲を‥‥‥」
「では息を整えたらまた再開しましょうね」
「ぶへぇ‥‥‥」
脱力した声を最後に沈黙が続く。身体を撫でるそよ風が火照った身体を優しく冷やす。後数時間で夕方になり、今よりも肌寒くなることだろう。その前には自宅に戻りたかった。
「‥‥‥‥‥‥よし、そろそろ再開しましょうか」
「えぇ‥‥‥わしはここにほねをうめるんじゃぁ‥‥‥」
「それではお家とごはんの用意が必要ですね‥‥‥素材は段ボールで良いでしょうか?ごはんはドッグ‥‥‥」
「冗談じゃ‥‥‥今更家無しにはなりとうない‥‥‥」
嫌にリアルな想像をしてしまった貉は自身の発言を撤回する。雨風凌げるお家とあったかおふとん。それに美味しいごはんとおやつは手放し難い。
”はー、どっこいしょー"と腰を上げ、その場で立ち上がる貉。ジャージについた汚れを払いながらストレッチのような動きを見せる。
「‥‥‥昔はもっと格好良かったのに」
「聞こえておるぞー‥‥‥今も格好良いじゃろ?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「いや、そこは嘘でも答えてくれないかの‥‥‥そんなに真面目に考えられると流石に傷つくのぉ‥‥‥」
身体は鈍っているとはいえ、元の運動能力は人間とは比べ物にならないくらい高い。雲雀が子どもの頃は遊びと称して身体の使い方を教えてくれたものであった。その時の動きが記憶に焼き付いていたため、余計に今の姿に違和感を感じてしまう。
「‥‥‥便利な世の中が悪いんじゃ‥‥‥娯楽が‥‥‥多すぎる‥‥‥」
「‥‥‥はぁ」
貉は機械が苦手とはいえ決して敬遠しているわけではない。寧ろ、興味津々といった様子すらある。
技術の発展に伴い、遊びは形を変えた。家にこもりきりでも暇を潰せる。最近のお気に入りは板状の電子機器。それで動画やゲームを楽しんでいる姿がよく見られていた。
「たまには俺の修行にも付き合ってくださいよ」
「まあ、その時はの‥‥‥なんじゃ、予定でもあるのかえ?」
「まだ先ですが、寒くなる前には山籠りをしようかと」
「うむ、それなら儂も付き合ってやろう。たまには雲雀の成長も見てやらんとな」
あっさりと了承される。雲雀は年に1〜2回、キャンプと称して山籠りを敢行する。犬飼家に伝わる伝統だ。
”健全な肉体に健全な精神が宿る"と言えば耳聞こえは良いが、それを養う方法は殆どサバイバル訓練のようなものである。
今までは正嗣と2人で行っていたが、今年からは1人で敢行するように言われている。雲雀も慣れたものであるためさほど不安では無いが、それでも貉がついてきてくれるというのはありがたかった。
「ありがとうございます。その時は是非、ご指導をお願いします」
「うむ。儂も楽しみじゃ。それなら少しでも身体を慣らしておかねばならぬのぉ‥‥‥」
先ほどとは打って変わって運動にやる気を見せる貉。貉にとっても雲雀の成長を見ることは好ましいものであった。
“ほれ、行くぞ”と声を掛けつつ走り始めた貉の背中を追うために、雲雀も草むらから身体を起こして走り込みを再開した。
◆ ◆ ◆
「あ、最近太り気味の貉様、おはようございます」
「でぶたぬき。今日もダイエットか?」
「ひばりぃっ!?」
「調子に乗るからですよ」
後日。元の体重に戻った事をお祝いしてご褒美のおやつを与えたところ、調子に乗っていっぱい堪能し、無事にリバウンドを果たした貉。
戒めのため、貉が〇〇kg増加したことを雲雀は包み隠さず2人のバラしていたのであった。




